葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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やっぱり馬事公苑も戦争遺跡だった

2015年08月27日 | 歴史探訪<世田谷区内の戦跡>
 世田谷区長保坂展人氏は区のおしらせ「せたがや」8月25日号に『「馬の魅力を伝える馬事公苑」2020年のオリンピック・パラリンピックまであと5年となりました。既に報道されているように馬事公苑(上用賀二丁目)でオリンピックの馬術競技が開催されます。「ふるさと区民まつり」の会場としても親しまれている馬事公苑の歴史を探ると、オリンピックとのつながりが深い施設であることがわかります。馬事公苑は、1940年(昭和15年)に開苑しています。この年に開催予定で戦争の激化により返上された「幻の東京オリンピック」の会場としての使用も計画されていたそうです。戦時中には輓馬(ばんば)部隊が置かれ、戦後の1964年(昭和39年)のオリンピックの時に改めて馬術競技の会場となりました。』と書かれました。
 東京農業大学の校地は戦前、陸軍自動車学校(陸軍機甲整備学校)でしたので、南側に隣接する馬事公苑も軍用馬に関連した戦跡ではないかと睨んでいました。早速世田谷区に電話をしたところ、区長はネット情報から執筆したので、区として「輓馬部隊」の文献資料はないとの回答でした。毎年馬事公苑で「ふるさと区民まつり」をしているので、その担当係長が馬事公苑に電話をして調べてくれました。
 「1940年に開苑したが、1944年12月馬政局によって輓馬部隊となった。1945年3月から運送業務が開始された。」
 これ以上は分かりませんというので、横浜市根岸競馬場跡にある「馬の博物館」に電話をして学芸部村井氏から教えていただいた。
 『正式名称は「輓馬機動隊」という。銀座松屋、代々木、玉川、馬事公苑に事務所があり、物資の移動・供給が任務だった。実際の業務は国策会社の日本通運だった。詳細は「中央競馬会発刊:日本競馬史全7巻」の第6巻を読んでほしい。敗戦時の軍事機密書類焼却命令によって馬事公苑には文献はありません。』近日中に国会図書館で閲覧することにします。
 靖国神社ツアーの時は、遊就館前庭にある「軍用馬」「軍用犬」「軍用鳩」の慰霊碑を説明をしていました。





「戦争で使われた悲しい動物たちです。敗戦になったら兵士たちは復員しましたが、馬も犬も鳩もそのまま戦地に捨てられてしまいました。」

 
 
 





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