葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「王希奇展 一九四六」キャンバスに描かれた黄土色は北東アジアの平和を訴えている

2017年09月30日 | 日本と中国

東京美術倶楽部4Fの「王希奇展 一九四六」を観てきました。
昨日参加したシンポジウムで、王希奇さんは「中国の土の色、黄土色を基調にしました。」と語られていましたが、実際に3㍍×20㍍の大作品を前にして感じたのは、中国人、韓国・朝鮮人、日本人に共通した肌の色の人たちが「絆」をもっともっと強めようと訴えているようでした。北東アジアの平和は1945年8月15日からではないのだ。1946年がどんな年だったのか共に考えましょうと・・・。

中国では、第二次国共内戦が始まりました。それでも葫蘆島港から日本人の引揚げ事業がすすめられました。
朝鮮半島は、アメリカとソ連によって38度線で分断され、南側の日本軍はアメリカ軍に、北側の日本軍はソ連軍に武装解除されました。抗日パルチザンだった金日成が、アメリカに亡命していた李承晩がそれぞれ統治を争って活動を始めました。
日本では、元旦に昭和天皇が「人間宣言」の詔勅を発してから、全国巡幸が始まりました。米よこせデモは宮城内に押し寄せました。昭和天皇の誕生日4月29日にA級戦犯25人が起訴され、5月3日から極東国際軍事法廷(東京裁判)が、市ヶ谷台の旧陸軍士官学校1号館講堂で始まりました。11月3日に新しい日本国憲法が公布されました。





葫蘆島から引き揚げてきた方々が沢山お見えになっていました。お名前は聞きできませんでしたのでAさんとしておきますが、凄惨な引揚げ体験を聞かされました。

Aさんのお父さんは、満州国新京(現長春)国務院の官僚だったので使用人が11人もいたそうです。お父さんはシベリアに抑留されたので、母親と5人の子ども、それに使用人の朝鮮人女性と葫蘆島への列車に乗り込みました。石炭の上に敷いたゴザの上だったので痛かったそうです。列車がトンネルに入る前に汽笛を鳴らしますと、母親は手ぬぐいを水で濡らして子ども達に口と鼻を塞ぐように言いました。その時は、とても苦しかったことを覚えています。

列車はトンネル出ると一時停車をします。皆は急いで林や畑で用を足しました。
ある新婚ホヤホヤの夫婦がいましたが、乳飲み子をしっかりと抱きしめていたので何時の間にか、その赤ちゃんは窒息死をしていました。ふたりはその赤ちゃんを土に埋めましたが、奥さんはこの子どもと一緒に死にたいと言い張りましたので、ご主人は持っていた拳銃で奥さんを撃ち殺してから土に埋めました。

使用人の朝鮮人女性が、中国人兵士から線路に爆弾を仕掛けていることを聞き出してAさんたちに知らせてくれましたので、列車から急いで降りましたが、列車は爆破されたそうです。

日本に上陸してからは、シベリアから戻った父親と奈良県で生活を始めましたが、引揚げの体験を朝日新聞が取材して記事として掲載されました。
その時のご主人が大阪でその記事を読んで、奈良の自宅を尋ねてこられました。帰国後は再婚されたそうですが、何時も赤ちゃんと奥さんの姿が夢に出てくるそうです。
母親は、こうして5人の子どもを育てていますと自慢げに喋ったそうですが、その方は突然凄い形相になって帰られたましたが、その後自殺をされたそうです。
Aさんは、作品の中から男の子を指さして、これは私だろうと言われていました。
絵に描かれているアメリカの船は上陸用舟艇です。この船の中で何人の方が亡くなったか知れませんと苦しげに語っておられました。

この作品展は、全国で開催されるべき大事な意義があると考えますが、満蒙開拓平和記念館の長野県で開催して欲しいと願っています。

王さんとAさんと一緒に記念写真(右が管理人)



(了)


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