一昨日>5月に開通した都道環状4号線(外苑西通り)を歩きました<と、エントリーしましたが、新宿歴史博物館で「余丁町小学校旧敷地」と「警視庁第4・5・8・9・交通機動隊」が記載してある古い住宅地図を閲覧し、コピーしてきましたのでご報告します。
24日(木)に河田町から富久町まで歩いたコースの地図です。(赤い線)
1979(昭和54)年4月の新宿区議会議員選挙に向けて、長谷川選対の高井秀忠(故人)さんがパンフレットを作成してくれましたが、その中に余丁町小学校移転問題について下記の記述があります。
『 新宿で、ただ一つのこる木造校舎の余丁町小学校を、鉄筋化することは、区政の重要な仕事の一つです。故紺野代議士と共に、若松町の第九機動隊を移転させ跡地を余丁町小学校の校舎にさせることを政府に約束させました。区教育委員会は、当初七千平方米を国に要望していましたが、長谷川議員の追求で七六五二平方米と、現在の約二倍になりました。いま、同校創立八十周年に当たる五十六年までに、新校舎を建設させるために、全力をあげています。』
余丁町小学校敷地の大半は、環状四号線の予定地になっていましたので「鉄筋化」が不可でした。住宅街である余丁町には校地が見つかりませんので、新宿区も区教育委員会も地元の各会派議員も困っていました。
『>再掲< 1960年6月15日。管理人は国会鉄柵の前で「アンポ反対」と叫んでいました』にも記述しましたが、新宿区市谷山伏町の木賃アパートに母妹と住んでいました。安保闘争の時に「鬼の四機」と言われていた警視庁第四機動隊が、自宅近くの市谷本村町にあることは承知していました。この第四、第五機動隊、第一交通機動隊(白バイ隊)、特科車両隊が市谷本村町に、陸軍砲工学校跡地の若松町には第八と第九機動隊がいました。
下記の警視庁ホームページをご参照下さい。
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戦後の混乱期における集団犯罪、労使紛争等の続発に伴い、これに対処するため機動性をもった集団警備部隊として、昭和23年5月25日、警視庁予備隊が創設されました。
その後、組織機構の改革に伴い幾多の変遷を経たのち、昭和32年4月1日、警視庁機動隊と改称し、第一から第五機動隊が設置されました。
昭和44年、極左暴力集団の武装闘争がエスカレートし、警備に明け暮れる激動の年を迎え、機動隊の充実強化のため、第六から第九機動隊及び特科車両隊の5個隊が新たに設置され、現在の10個隊体制が確立されました。
年表(抜粋)
昭和29年7月1日 第八予備隊の設置
昭和32年4月1日 予備隊を警視庁機動隊と改称し、第一から第五機動隊を設置
昭和44年1月10日 第六から第八機動隊を増設
昭和44年7月1日 特科車両隊を増設
昭和44年8月26日 第九機動隊を増設
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管理人としては、新宿区内に警備警察の実力部隊である機動隊は、こんなに沢山いらないのではないか。同校の通学区域内にある若松町(一部)の第八なり第九機動隊を移転させられないかと考えました。警備警察の本質を見抜いている共産党議員ならではの「実現可能な政策」であり、誇るべき自分史の実績であったと自負しています。
同機動隊敷地は、国有地なので日本共産党東京一区選出紺野与次郎代議士(故人)に依頼し、衆議院予算委員会で質問をしてもらい、移転可能であるという答弁の段取りが出来ました。予算委員会分科会の傍聴に行きました。
ところがドッコイ。警察庁から共産党だけの手柄にしてはまずいということでしょう。
警視総監だった自民党東京一区選出田中栄一代議士(故人)が、やはり衆議院予算委員会で「機動隊移転と余丁町小学校問題」を質問しました。
警視庁第九機動隊が、若松町から江東区に移転することになり、その跡地に余丁町小学校の新築校舎が建設することになりました。その後、第四機動隊も立川市に移転しました。
故人となった紺野与次郎さんの後継者、東京一区衆議院議員選挙候補者の弁護士平山知子さんと、第九機動隊が移転してくる江東区の予定地を視察しました。
「東京都航空住宅地図帳:昭和49(1975)年版」より
現在の余丁町小学校
第八機動隊庁舎
超高層マンション「ザ・センター東京」と第五機動隊庁舎。
(了)