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高輪築堤は「周知の事実」であり、JR東日本は築堤を壊して「高輪ゲートウェイ駅前開発計画」を進めるつもりか?

2021年03月31日 | 鉄道の歴史と高輪築堤問題

『明治末期以降に埋め立てられた際に撤去されたとも考えられていたが、2019年にJR品川駅改良工事の現場から石積みの一部が見つかった。』これが、JR東日本の言い訳です。

blog記事 明治時代、海の上を走った蒸気機関車「高輪築堤」の遺構保存問題

管理人は「地質調査のボーリングをすれば、高輪築堤の石垣にぶち当たるではないか」と、JR東日本に質問しました。担当者からの電話では、線路があったので地質調査のボーリングが出来なかったので、築堤の石垣の存在が分からないままに設計してしまったそうです。

高輪築堤は高輪ゲートウェイ駅付近のGoogle マップには線路が見えますので、JR東日本の説明通りボーリング調査が出来なかったことでしょう。しかし高輪築堤を造成しなければ明治5年の新橋駅→横浜駅まで日本で初めての鉄道が開通が出来なかったことは「周知の事実」です。『高輪築堤は、平成31(2019)年4月、品川駅改良工事の際に石垣の一部が発見されました。この発見は、周辺の埋め立てに際して既に取り壊されていると考えられていた高輪築堤の残存を確認するきっかけとなりました。』と港区教育委員会調査報告書で述べていますが、旧国鉄時代の工事記録があるはずです。「日本の古書店」から購入した「汐留・品川・櫻木町驛百年史」には明治初年からの詳細な記録文献がありました。

地元の田町不動産ホームページにある時系列から見ると2013年度に「高輪ゲートウェイ駅を含む周辺の再開発」が着工していることが分かります。

線路3線だった高輪築堤の海側を埋め立て、4線化が完了したのが明治42年で、6線化が完了したのは文献資料によると異なりますが大正3、8、10年のようです。(鉄道博物館ライブラリー調べ)。敷設した工事記録は明治鉄道史資料 (鉄道局(庁)年報 などから慎重に調査をすれば、高輪築堤と東海道線、京浜東北線、山手線の線路の工事状況が掴めます。JR東日本は、それらの事実を知りながら2013年から開発計画を進めたことになり、調査不足だったことは絶対に否めません。「周辺の埋め立てに際して既に取り壊されていると考えられていた。」と思ったのは、港区の学芸員です。旧国鉄時代の土木技術に長けた鉄道マンであれば、台場の石で構築した頑丈な「築堤」を解体しないで、土盛りして線路を敷設したことを想定することが可能です。分割民営化したJR東日本の若い技術マンには理解不能でしょう。

鉄道博物館ライブラリーは4月1日に、4線化が完了したのが明治42年で、6線化が完了したのは文献資料によるとまちまちですが大正3、8、10年のようです。川上資料の写真によれば明治39年には、築堤で3線化しています。

「田町付近を走る貨物列車 機関車はボールドウィン 明治39年頃まだ埋立前で左に石垣(高輪築堤)の海岸線が残る。」(川上幸義の東海道線創業史)より。

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高輪ゲートウェイ駅と周辺開発についての時系列のまとめ(田町不動産ホームページ

・2013年11月23~24日:品川駅改良工事(東海道線などが最大34時間運休)
・2013年度:高輪ゲートウェイ駅を含む周辺の再開発の着工
・2014年3月14日:JR東日本の上野東京ライン(東北縦貫線)開通
 (東海道・東北・高崎・常磐線の東京-上野間直通運転開始、
  車両基地機能移転による田町車両センター(*)の大幅縮小と土地のねん出)
・2016年11月19~20日:東海道線の線路切り換え工事
 (約20時間にわたり東海道線の一部区間で運休や変更)
・2017年2月10日 JR東日本とURにより高輪ゲートウェイ駅起工式
・2018年6月16~17日 第1回(京浜東北線南行き)線路切替工事(京浜東北線と東海道線の運休を伴う。品川駅の5番線ホームを京浜東北線に供用開始)
・2018年6月30日:新駅の駅名募集締切
・2018年12月4日:駅名発表「高輪ゲートウェイ駅」
・2019年11月16日:第2回(山手線と京浜東北線北行)線路切替工事(山手線大崎-田町-上野間が16時頃まで運休、京浜東北線品川-田町間が終日運休)
2020年3月14日高輪ゲートウェイ駅の暫定開業
・2020年7月14日(延期された日付)から9月6日:Takanawa Gateway Fest開催
・2021年7月23日から:東京オリンピック・パラリンピック関連のイベント(ライブビューイング等)については不明
・2024年:高輪ゲートウェイ駅周辺の本格的な街開き、駅の南改札と東側連絡通路(歩道橋)完成予定、泉岳寺駅拡張工事終了予定
・2027年:リニア中央新幹線開業、品川駅地下に東京側のターミナル駅開業(リニア自体の開業は遅れる可能性あり)
(*)JR東日本東京総合車両センター田町センター

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汐留・品川・櫻木町驛百年史」から高輪築堤工事の部分(111~113頁)を転載します。

鉄道建設工事
 沿線住民の生活権につながる問題を含む用地買収は,各工区で大 小さまざまの難事となっていたが、とりわけ浜御殿周辺高輪地区に施設をもつ兵部省海軍用地の取得のむずかしさは、実際の工事計画 に大きな影響をもたらした。すなわち、軍事機密の保持から、測量人夫さえ立ち入ることを許されなかった。そこで同地域は、海中に突堤を築いて敷設することになったのである。元大村藩邸から高輪大木戸まで、更に品川八ツ山下までと、全工区を二分しておこなわ れたこの「高輪築堤工事」のもようについて、「日本国有鉄道100年史」には、次のような趣旨の記載が見られる。
    高輪方面の工事は比較的容易に進行し、4月中に(注・明治5年)完成したが、田町方面では,風波のため、しばしば築堤が崩懐した。9月,築堤石垣の一部を残して全区間がほぼ完成したが築堤の長さおよそ1、460間(2、654.5メートル)、平均巾3間半 (6.4メ ートル)築堤の中間には通船可能な「本芝雑魚河岸」「芝田町裏」「第一高輪新堤」「第二高輪新堤」の4橋が架設された。 一方、石垣を取りくずした高輪付近街道は、道路が海側に傾斜して通行にさしつかえるようになったため、5年5月、東京府の申し出によって修理した。
築堤に使われた土砂は、そのほとんどが品川八ツ山および御殿山を切りくずしたもので、ツルハシや金てこ、大槌などを用い、運搬にはモッコ、牛馬車、小軌条によるトロッコを使用したことが記録に残されている。明治3年10月に着工、5年9月の完工まで、ほぼ 2年間を費しているが、100年を経た今日の進んだ技術をもってしても同様の年月を要するのではないかと思われるほどの難工事であることを考えあわせると、当時の工事ぶりには目をみはらせるものがある。
 鉄道建設の工事にあたり,当時の難行した模様を「国鉄物語」(門田勲著)は次のようにあらわしている。
  『工事は六郷川を境にして、東京•横浜の両方から始めることになり、測量も東京方面は芝の汐留からとりかかったが、元の竜野、 仙台、会津の各藩邸の地均しをして、ここに停車場をつくろうとし たところ、たちまち兵部省から横槍が出た。浜御殿の辺は海軍所の拡張予定地、品川の八ッ山は陸軍の用地だからといって、工事はおろか,測量方も一歩も踏み入らせない。兵部省から大蔵省へ抗議書を出して、築地の外人居留地の近くに会所(停車場)をつくるなど「御国体のため大いに然るまじく」、外国人がたくさんやってくれば日本人の風儀もわるくなる。取りやめるよう至急民部省へ御沙汰願いたいという始末だ。
 大隈(重信)は、苦労して政府内部の反対を押切るより、いっそ高輪・品川の間は、海の中に土手をつくって汽車を通した方がよいと考えた。イギリスから工事のために来ていた建築師長エドモンド・モレが、「海の中へ鉄道をつくれといわれたのははじめてだ」。といってあきれたというが、当時としてはずいぶん思い切った計画だったに違いない。
 その頃は鉄道建設のことも建築といったが、この建築師長モレルの下で副長だった,ジョン・ダイアック技師が主として測量に当った。
 ダイアックの助手をつとめ、彼とともに、いま汐留駅構内に記念碑のある、日本鉄道の「ゼロ哩零鎖」の第一杭を打った武者満歌の話によると、八ツ山の辺は軍の旗が立っていて一歩も立入らせない。仕方がないから干潮を見計い,測量器械を担いで,海の中へ入って仕事をしたが,あの辺は泥沼のようなところで、膝の上まで入ってしまうし、うっかりすると上げ潮になる。潮止めをつくっても一晩のうちに波にさらわれてしまうことも珍しくなかった。』
 又、廃刀令が、出たのもこのころである。
  『測量に従った日本人の服装は毛織のだんぶくろに小倉の脚絆で、雪駄やわらじをはき、大小を差し、髪はもちろんチョンマゲ で,黒塗りの陣笠といういでたちだった。
 腰の大小が邪魔になるし,それに困るのはこれが測量器械の磁力を狂わしてどうにもならない。太政官に願い出て、やっと技術方に限り仕事中は刀を差さなくてよろしい,という許しが出た。』(鉄道記念物物語)
 廃刀は鉄道の測量からはじまったわけである。

旧新橋駅ゼロ哩標識

東京駅のゼロキロ標識

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明治42年の古地図には、高輪築堤が埋め立てられた東海道線の線路が見えます。

(了)

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