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「開国と攘夷」下田の街レポート⑧唐人お吉

2023年05月08日 | 歴史探訪<江戸と明治の歴史>

中村美津子の大ファンなので、カラオケでは「お吉物語」を唄っていた。

玉泉寺のリーフレットには「お吉物語の真実」が書かれている。

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お吉物語の真実 
まず、この物語はフィクションです。ただややこしいのは、史実の中にフィクションを溶け込ませている点です。 
史実とは、お吉という女性が実在し、玉泉寺にわずか3 日程度であるが召使いとして勤めた事です。その点以外のお吉に絡めた話はほぼフィクションといえます。 
古文書にあたれば、お吉の職業は芸者ではありませんし、総領事館に長く勤めた事実もありません。世に出回っている「お吉」とされている写真は、間違いなく別人です。 
この物語を多くの方が真実と思い込んでいますが、歴史を改ざんし、ハリスの人格・日本開国の功績を歪めていることは大きな問題です。史実に明らかなことは、ハリスが外交官として、命を懸けて、この日本を開国に導いた事実しかありません。 

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177頁には「差し上げ申一礼之書」についての記述がある。

396頁

五「彼女らは、経水が滞り妊娠の模様を見たら報告しなくてはならない。」

国会図書館デジタルコレクション「実話唐人お吉」著者 村松春水著 出版者平凡社 出版年月日昭和5「127頁」に原文あり。

看護婦兼召使にこのような注意書きが必要名だろうか。

59頁に「官吏附足軽」である西山助蔵と村山瀧蔵が、毎朝お吉からチョコレートを貰っていると解説がある。「看護婦兼召使」が朝帰りをするだろうか。

オリヴァー・スタットラー著「下田物語 下」289頁にはこのような記述がある。

  これらの女たちを「看護婦」と呼んでいる事実が、単なる言いのがれであったことは、エリシ ャ・ライスが、箱館では女が手に入らぬと不満を述べたのちに、ハリスがライスに宛てて書いた 一通の手紙のなかに明らかにされている。これはハリスがまだ彼の条約を交渉していた間に、一 八五八年二月一日に江戸で書かれた。すなわち、
 女たちの問題は、処理しにくいものでした。あなたは、それが公に通告されたりはできない ことだったことに気づいておられますが、しかし私はそのことを当地の政府の私的通告にもちこみ、そして、もし日本側が、彼らの従前の処理方針に固執するなら、重大な困難がいくつも 生ずる危険があることを充分に指摘しました。彼らはすでに、箱館に、あなたに「病気の心配 があるとの理由で」女性の付き添い人をあてがうようにとの命令を送りました。また彼らは私に、船乗りたちについての決定を、今から五日以内にすると約束しています。彼らがそれを満足な仕方で解決するであろうことを私は疑いません。(彼らは実際そうしたのだ。)

下田開国博物館館長 尾形征己著「ハリスとヒュースケン 唐人お吉 ―物語の虚構」47頁

お吉は看護婦名義でハリスに仕えた。仕度金25両、年手当120両(月10両)の取り決めであった。当時大工、石屋などの職人は月約2両の賃金であった。ハリスと下田奉行との間で貨幣の換算を1ドル=3 分にしたので10両は約13ドルとなり、ハリスが中国から連れてきた召使頭は月給15ドルで、お吉はそれほど高給では無いとの考えもある。しかし下田で雇った14、5才の少年(身分は足軽)は1両2 分であり、お吉はその約7倍である。金銭的に厳しいハリスが看護婦にそんな高給を払うだろうか。また3 日とはいえ、ハリスに仕え、しかも夜玉泉寺に行き、昼は自宅待機の勤務形態である。このような看護婦はいない。

以上の参考文献から見ると、お吉は「ハリスの侍妾」であったと言わざるを得ない。

⑨に続く

 

 

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