過日、下田図書館宛てに『松陰らが送り返された場所、すなわち「上陸せし處は巌石茂樹の中なり。」(『吉田松陰廿七夜記』)の具体的場所について』及び『森義男著「ペリーと下田開港」』中の14頁「ペリー艦隊下田碇泊図」中の「トトリ崎」「田ノ尻」の地名について』についてを質問していたが、本日。下田市史編纂室から丁寧な回答文と参考図が送付されたきた。
絵葉書「下田百景」の「松陰上陸の碑」
森義男編「ペリーと下田開港」の表紙
嘉永7年3月~4月ペリー艦隊下田停泊地点図
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下田市史編纂室からの回答文と参考図
質問1、松陰らが送り返された場所、すなわち「上陸せし所は巌石茂樹の中なり。」(『吉田松陰撰集』184 頁)の具体的場所について
例えば昭和17 年に刊行された福本義亮著『下田における吉田松陰』(誠文堂新光社)に記されているように蓮台寺村山氏に残る「話傳」から福浦とされています。それ以前昭和9年10月に福浦に「吉田松陰上陸所」碑が当時の須崎村少年団【①】より建立されていることから判断して「話傳」はかなり古くから知られていたように思います。福本氏が「話傳」全体を評して「正否は別としても」と書かれていますが、現在の処福浦を否定するような資料・見解等は出ておりません。うがった見方かも知りませんが、米兵が送り返す場所としては、「異人洗濯所」【②】のある福浦であったことは、ポーハタン号停泊地に近く、バッテーラ(ボート)が着岸できる場所であるとともに、以前洗濯をしに来たことがある福浦だったのかもしれません。史料に裏付けされていませんが・・・。
【①】
【②】
質問2「ペリー艦隊下田碇泊図」中の「トトリ崎」「田ノ尻」の地名について』について
この停泊図は、森先生も書かれているようにモリソン著『ペリーと日本』222頁の図【③】を引用しています。しかも、それに記されていない多くの説明箇所があります。なぜならモリソン図ではあまりにも殺風景だったと感じた先生は、自分の知識を援用して追加したと思います。その際下田側の多くの記述は有名な場所で、読者はすぐに納得できますが、対岸の柿崎の海岸付近は詳しくなかったようで、玉泉寺のほかは「トトリ崎」と「田之尻」という2つの地名を挿入しているにすぎません。
実はこの2つの地名は200年近く経た現在に伝わっておりません。おそらく「地租改正」が関係していると判断されますが、そんな現在に伝わらない地名を森先生がどこから引用したかが問題になろうかと思います。現在に伝来しないこれらの地名をどこから引用したかを調べてみると、安政2年「豆州下田港之図」【④】ではないかと思われます。50年ほど前に森先生のお宅にもこれが飾ってあった記憶があります。モリソン図に描かれている年代とほぼ同時期の「豆州下田港之図」を引用することにためらいがなかったのかもしれません。
さて、モリソン図と「豆州下田港之図」を見てわかるように、モリソン図はかなり近代的測量をなした地図(それでも、昭和30年ころの地図【⑦】と比較して海岸線の相違もある)であるのに対し、「下田港之図」は地図ではない絵図であり、地図とはかなり作成意図が相違しています。現在に伝来しない絵図の2 つの地名をモリソン図に充てることは無理があることは両図を比較すれば明らかです。それを前提にひとつずつ検討してみたいと思います。
まず、「トトリ崎」ですが、現在も、江戸期でも字「トトリ(渡鳥)」は存在しますがトトリ崎は「豆州下田港之図」(拡大図)【⑤】以外見たことがありません。土橋さんの『小字総覧』【⑥】の柿崎、及び須崎財産区作成の地図から判断すると、字「トトリ」は、柿崎・須崎の旧村境付近海岸の両村に属するかなり広い字だったと思われます。では「トトリ崎」はどこかを探すと、「下田港之図」拡大図からすると、赤島より若干東側(湾口側)に記されています。赤島の先端を「赤崎」とすると、須崎側の「トトリ」を指しているように思われます。安政当時トトリ崎と称していたかもしれませんが、現在の地形図ではそのような岬は判別できません。
次に「田之尻」の方です。安政2 年下田港之図(拡大図)では、「田之尻」は海岸の海の中に書かれています。小字なのか海岸名なのかははっきりしませんが、これだけ海中に記されていることから海岸名と判断されます。
以上、現在判別されることはこれくらいです。
下田市史編纂室 高橋廣明
【③】
【④】
【⑤】
【⑥】
【⑦】
「開国と攘夷」下田の街レポート(続く)