管理人は「尖閣(釣魚島)と竹島(独島)」問題は海底ケーブル敷設に於ける軍事史の観点から研究をしている。
『石原藤夫著「国際通信の日本史ー植民地化解消へ苦闘の九十九年」』の巻末にある「参考文献」に『宿利重一著「児玉源太郎」國際日本協会(昭和十七年)』を閲覧をするために国立国会図書館へ出かけてきた。
この著作に、日清戦争に於いては「軍令の川上(操六)、軍政の児玉(源太郎)の連繋密であり」との記述があるが、東京の近衛師団、第一師団、仙台の第二師団、名古屋の第三師団、大阪の第四師団を中国大陸に出兵させるためには、山陽鉄道の広島駅から分岐線を敷設して宇品港から将兵・糧秣・兵器・弾薬・軍馬を乗船させるのが最適であると、児玉源太郎は考えて山陽鉄道と折衝したことが詳しく書かれている。
このことから「東京砲兵工廠(飯田町駅)から青山練兵場(青山軍用停車場)、そして広島へ将兵と兵器を運ぶ甲武鉄道の役割」・「大崎駅→大井町駅間の品川西南線」・「横浜駅と桜木町駅の変遷」は、川上操六が主導したとこれまで考えていたが、児玉源太郎の方が主導したと、考えを改めなければならない。
「koubusen.PDF」をダウンロード「東京砲兵工廠(飯田町駅)から青山練兵場(青山軍用停車場)、そして広島へ将兵と兵器を運ぶ甲武鉄道の役割」
「singawaseinansen.PDF」をダウンロード「大崎駅→大井町駅間の品川西南線」
「yokohameki_1.PDF」をダウンロード「横浜駅の変遷①」
「yokohamaeki_2.PDF」をダウンロード「横浜駅の変遷②」
そこに「赤帽」(ポーター)の由来が書かれていたので紹介したい。
現在、「赤帽」と言えば「軽トラック運送店」のことであるが、『ウィキペディアWikipedia)』「ポーター(鉄道)」には下記の通り書かれているが、中国に旅行したときは哈爾浜駅や大連駅で良く利用したものである。
- ●2006年(平成18年)岡山駅で赤帽が廃止、日本の鉄道から赤帽が消えた。
- ●2012年(平成24年)ヤマト運輸が東京駅でポーターサービスを開始。日本の鉄道にポーターが復活した【東京駅丸の内北口・外国人向け窓口のクロークサービス】
- 『山陽線の運轉に依って外征の我が将兵、諸材料、糧食、弾藥・・・・・・を速かに乗船せしめ得ることゝなつたが、廣島から字品間の鐵道は、山根少佐ー武亮ーの指揮によつて陸軍省が敷設し、こゝに陸上に於ける運輸は直ちに完成し、臨戦の準備整つたのである。
「今も鐵道には旅客の手荷物の搬送人として赤帽がゐるのですが、この赤帽も其の時代の好き記念で、廣島驛が開通し、軈(やが)て普通の旅客を取扱ふやうになつた時、旅客の手荷物を搬送する者が制限なしに停車場に出入りしては、軍機上からも考慮せねぼならぬと云ふので、その數を指定し、且つ目印の爲に赤帽を被らしめることゝしたのです」
と山陽鐵道の運輸課長(事務取扱)であり、廣島驛の開通と共に、會社代表の軍事擔當人属員ともなつた西野恵之助氏は、その頃のことを沁々と語つてゐた。』(原文のママ)
【新宿の戦争遺跡ガイドブック】より
『甲武鉄道は明治22年5月22日に、新宿―八王子線を神田区三崎町まで複線延長させる市街線の仮免許状下付を出願した。これは、市内の軍隊輸送を迅速円滑化したいという陸軍の要望がきっかけになっていた。陸軍はすでに、新宿と小石川の陸軍砲兵工廠(水戸徳川家上屋敷跡である。現在は東京ドーム、文京区シビックセンター等となっている)との間に鉄道を敷設することを日本鉄道会社に諭示したという経緯があった。