友人の川口重雄さんから、毎日時事問題や歴史問題のメールが送信された来ます。15日に受信した乗松聡子さんの論考は、中国にとっては屈辱の日である「9・18柳条湖事件」について触れられていましたので、本日転載します。
靖国神社・遊就館展示室7・8「日露戦争と満州事変」のパネルに「昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条湖付近の鉄道爆破事件をきっかけに関東軍によって引き起こされた事変」と、靖国神社も説明せざるを得ない関東軍の謀略だった。
侵略を受けた中国では、「松花江(しょうかこう)のほとり」という悲憤の歌が広がりました。「九・一八、九・一八、その悲惨な時から/わが故郷を離れ、あの無尽の宝を捨て、流浪、流浪…いつになったら一家団欒を楽しめるだろうか」抗日歌曲「松花江上」
2010年7月21日管理人が撮影(2000年7月にも見学しました)
奉天忠霊塔の富山県有志が献納した石碑と中国文説明プレート
「靖国神社分社」とありますので、総理大臣や国会議員の靖国神社参拝に中国政府が反対することが分かります。
「靖国神社遊就館図録」より
琉球新報2020年9月11日 「乗松総子の眼 8・15後に記憶する戦争」文字起こし
9月2日に本稿を書いている。75年前、東京湾上の戦艦ミズーリ号の甲板で、日本が連合国に対し正式に降伏し、第二世界大戦が終結した日だ。杖をついてよろよろと調印台に向かい、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官が見下ろす中、降伏文書に調印する全権団の重光葵外相の姿は、大日本国の惨めな最期を象徴する歴史的な場面であるが、日本のメディアはこの記念日をほとんど報じない。
8月6、9日の原爆投下の日、15日の「終戦記念日」と称する、天皇が降伏をラジオで周知した日の前後に戦争記憶報道はピークに達し、その後急速にしぼんでしまう。
日本でしか通用しないような内向きの歴史認識を形成・強化してきた。海外ではナチスドイツが降伏した5月8日の「VEデー(欧州戦勝記念日)」と、日本が連合国にポツダム宣言受諾を伝えた8月14日(または翌日の15日)、あるいは降伏文書調印の9月2日(または翌日の同3日)を指して言う「VJデー(対日本戦勝記念日)」は、東西のファシズム帝国をた日として第二次世界大戦記憶の双璧をなす。 このような観点からは、むしろ8・15以降から9月にまたがる戦争記憶の日に注目することで大日本帝国の歴史理解が広まる。例えば沖縄では、日本海軍指揮下の「鹿山隊」が久米島で行った20人の住民虐殺は、第32軍司令官が自殺し組織的戦闘が終わったとされる1945年6月22日以降に始まった。残忍を極めた谷川昇さん一家の殺害は日本降伏以降の8月20日に起きている。鹿山隊が降伏したのは9月2日、最終的に投降したのは同7日であった(大田昌秀者『久米島の「沖縄戦」』)。同日、嘉手納の米琉球団司令部で降伏調印式があり、沖縄戦が正式に終結した。
戦艦ミズーリ号での日本降伏調印の5日後であった。
「8・15日以降は植民地支配と侵略戦争においても忘れてはいけない記念日が続く。1910年8月29日は韓国が強制併合された「庚戌国恥」の日。9月1日は、23年の関東大震災後、流言飛語に扇動され軍警民が朝鮮人大量虐殺を行った、近代日本最悪のヘイトクライムを記憶する日だ。
31年9月18日は、奉天(今の瀋陽)の柳条湖で関東軍が南満州鉄道のを自ら爆破、これを中国軍の犯行であるとして戦闘を開始し、全面的な侵略戦争につながった「満州事変」の日である。
「8・15」でピンと来るが「9・18」でピンと来ないとしたら、戦争の終盤に日本で起こった被害だけを見て、戦争の始まりも、その間も見ない自国中心的史観といえる。(傍線は管理人)
敗戦75周年の今年、「戦争体験の継承」の重要性はメディアで盛んに語られている。「継承」の目的が、戦争を二度と起こさせないためだとしたら、結果だけを見て、何がそれをもたらしたのかに目をつぶるのでは目的は達せない。世界からの視点、とりわけ傷つけたアジア諸国の体験を重視し、戦争の全体像を捉える学びこそが「平和学習」であると信ずる。
(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)(随時掲載)
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2015年1月5日のBlog記事天皇明仁は、なぜ「満州事変」を学ぶのかをエントリーして、「満州事変」からだけ学ぶよりも、朝鮮半島植民地支配となった「日清戦争」と「日露戦争」から学ぶことが大事であると記述しました。