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いまから84年前の「2・26事件」関係画像をアップします

2020年02月26日 | 歴史探訪その他

1936年2月26日の「二・二六事件」から84年目ですので、パソコンに保存してある画像を何枚かアップいたします。そして、新人物往来社刊「日本陸海軍事典」から転載します。

二・二六事件
  一九三六年昭和一こ二月二六日陸軍の皇道派青年将校が中心になってこした反乱事件である。昭和初期の慢的不況は、社会不安と政治不信を招き軍部の青年将校や右翼は、これを打開するため急進的国家改造運動を展開していつた。一九三二年には血盟団事件、五・一五事件などが発生した。
  陸軍の皇道派青年将校は北一輝など影響を受け、武力による国家改造と軍部政権樹立を企図し、一九三六年昭和二月二六日早朝、歩兵第一第三近衛歩兵第三連隊などの兵約一四〇〇人を率いて首相官邸などを襲撃し、斎藤実内大臣・高橋是清大蔵大臣・渡辺錠太郎教育総監などを殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、国会首相官邸陸軍省参謀本部など一帯を占拠し、陸軍首脳に昭和維新の断行を要請した。
  陸軍首脳は確たる収拾策をもたなかつたが天皇の断固たる意思により、戒厳令を敷き、佐倉の歩兵第五七連隊などの鎮圧部隊を上京させ、反乱軍を包囲して、下士官兵の帰順を勧告した。反乱軍は二九日午後帰順した。首謀者の村中孝次元大尉・磯部浅一元一等主計•香田清貞大尉•安藤輝三大尉・栗原安秀中尉などは死刑になり、野中四郎大尉は自決した。思想的指導者の北一輝•西田税も死刑に なった。この事件を機に、軍部は政治的発言力を強化していった。(原剛)

注①岡田啓介(内閣総理大臣・海軍大将)は殺害対象であり首相官邸を襲撃されますが、襲撃グループが松尾伝蔵を岡田と誤認・殺害したことで難を逃れました。

 ②「天皇の断固たる意思」とありますが、23日にNHKBSで放映された「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」によると、天皇裕仁は軍事クーデーターへの対応に相当苦労していたので「断固たる」とは大きく違っています。米英蘭との開戦の時は、2・26事件から軍部の政治的発言力に恐れて開戦の詔勅を、敗戦の時も軍部のクーデターを恐れてずるずるとした対応で広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦となってしまいました。未遂に終わりましたが、「宮城事件・玉音盤事件」が実際に起きました。

海軍省と軍令部は、事件前から青年将校らの決起情報をつかんでいたようです。反乱軍に対する鎮圧部隊として、海軍第一艦隊が芝浦沖にから国会議事堂に向けて艦砲射撃をする準備が出来ていました。

天皇裕仁の戦争責任」は、厳しく歴史の審判を受けなければならないと考えています。

歩兵第三連隊建物跡(国立新美術館隣地)

「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」に、出てくる海軍省・軍令部跡(現在の厚生労働省敷地)

戒厳令司令部が置かれた陸軍軍人会館(現在、九段会館はファザード方式によって外観は保存された高層ビルの工事中です)

首謀者が銃殺された陸軍刑務所跡(渋谷区役所敷地)

 

 

 

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