これまで皇居東御苑をガイドしてきましたが、将軍の家族、奥女中、出入り商人の通用門である平川門と隣接する不浄門を説明してきました。不浄門は「生きて出た人は二人だけ」と言われ、殿中刃傷事件の浅野内匠頭と江島(絵島)生島事件の江島だけです。浅野内匠頭は、江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、田村右京太夫の上屋敷で切腹させられました。江島は高遠藩内藤清枚にお預けとなりました。
木下栄三作図・著「皇居と江戸城重ね絵図」から、平川門と不浄門の部分
その後、ネットで津城にも不浄門の記事がありましたので、三重県博物館に問い合わせをしました。
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津城(「三重県)にも「不浄門」があった
貴博物館所蔵の文献に「不浄門」がありましたら教えて頂きたいと思います。宜しくお願いします。』 本日返信があり、津城にも不浄門があったことが判明した。金沢城の不浄門についてはさらに調べていく意欲がわいてきた。
『長谷川 順一 様
お問い合わせのメールをありがとうございます。三重県 県史編さんグループ と申します。
お問い合わせの「不浄門」でございますが、本県内の近世城郭について自治体史などを調べました。
そうしましたところ、「津市史」 第三巻 第八編 第二章 第一節 「津城概要」に・・・出入りの城門は三ヶ所で、北は京口門、西は伊賀口門、南は中島門(中島口門)であった。死体や罪人等は中島門(中島口門)に限って出入を許したので、この門を俗に不浄門といった。という記述があり、中島口門(原文中の「中島門」は「中島口門」の誤り)が不浄門であることがわかります。県内の他の近世城郭(桑名城、亀山城、上野城、松阪城、鳥羽城ほか)につきましては、それぞれの自治体史を調べました範囲では、不浄門の記述はなく、不明でございました。
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金沢市に転居しましたので、金沢城の不浄門を古地図を見たり、金沢城の講演会に出席して講師の大学教授にも質問しましたが分かりませんでした。
東京に戻ってから、市ヶ谷監獄、東京監獄、市ヶ谷刑務所を研究していました。住吉町にある「念仏坂」は、市ヶ谷監獄で死刑となる時に、家族が刑死場が見える方向に向かってお念仏を唱えるから「念仏坂」と命名されたと市谷台町の古老が教えてくれました。
参考Blog記事 「監獄署の裏」とは「市谷監獄の裏」なのか「東京監獄の裏」なのか
市ヶ谷刑務所にも不浄門がありました。
参考Blog記事
市ヶ谷刑務所にも不浄門があった
市谷刑務所建物重ね図
市ヶ谷刑務所刑場跡に、日本弁護士連合会によって建立された「刑死者慰霊塔」
市ヶ谷刑務所が廃止されてから、その役割は巣鴨刑務所になりました。国際極東軍事法廷(東京裁判)で絞首刑となったA級戦犯七人は巣鴨プリズンで処刑されました。
参考Blog記事>《再掲》今日はA級戦犯7人が絞首刑になった日(当時皇太子15歳の誕生日だった)<
市ヶ谷刑務所と巣鴨刑務所は、拘置所の役割もありましたので刑死場がありました。現在の死刑は東京拘置所の刑死場で執行されます。Googleマップから刑死者の遺体が出される場所を探してみたいと思います。(管理人は死刑廃止論に賛同しています。)
東京拘置所の正門
上空からの画像
ここから刑死者の棺を乗せた車が出る場所と思われます。ポラードの下部に鍵があります。
中国大連市を訪問したときに、旅順監獄を見学しました。ロシアが造りましたが、日露戦争後は関東州となり、日本が拡張しました。監獄敷地の北東(鬼門の方角)にある刑死場。2階建てになっていて1階から遺体を棺桶に入れてから塀の外に運び出し、監獄墓地に埋葬します。
刑死場
刑死者を出す小さな出口
参考Blog記事>明治の文豪徳冨蘆花と義士安重根<
(了)