葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

横浜・園芸博覧会の予定地に謎の構造物 旧日本海軍の「毒ガス」保管庫? 

2024年12月21日 | 化学兵器問題

川口重雄さんのメールを転載します。(一部)

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各位            12月21日〔本日第1信〕
お早うございます。
今朝の多摩川河畔の日の出はつい先ほど午前7時47分でした。
▼今日は冬至、今日から歴史教育者協議会第53回関東ブロック集会in埼玉が埼玉県立秩父農工科学高等学校で開かれます。
1泊2日の予定で秩父市へ、研究集会・分科会、現地見学に参ります。
現地見学は、1.秩父事件コース(1884年に起きた秩父事件から今年は140年の年)、2.満蒙開拓団コース のうち、2.に参加します。
1920年代の戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌、そして米国発の世界恐慌が波及して秩父地方の養蚕・製糸業に壊滅的な打撃を及ぼした昭和恐慌により、
「征け、満洲へ」と、埼玉県秩父地方からも満州国への移民が進められました。
明日、12月22日の〔BCC〕通信はお休みします。
【友人から届いた情報4点】
1.「アイヌ・琉球民族の遺骨「盗掘」 かたくなに謝罪しない学会の言い分 「先住民族」を尊重しない人類学の傲慢」『東京新聞』2024年12月18日
一昨日12月19日の〔BCC〕通信でご紹介した『東京新聞』2024年12月18日号「こちら特報部 遺骨返還 アイヌの尊厳って…… 日本人類学会と日本考古学学会「また謝罪なし」」の記事を
友人が送って来てくれました。
PC音痴としては誠にありがたい限り、感謝の一言です。
1990年代半ば、アイヌ民族として初めての参議院議員となった萱野茂さんの住む北海道平取町二風谷を修学旅行で引率した生徒240人余りと一緒にお訪ねしました。
チセで力強くアイヌ民族の誇りについて生徒たちに語った萱野さんのことを思い出しています。
1895年以来1945年まで日本の植民地支配を受け、戦後は中華民国 蒋介石・蔣経国の戒厳令(1949~1987年、38年間)の下で支配された中華民国(台湾)には、
現在では立法院(国会)に「原住民族枠」議員がいます。
2.[東京・本音のコラム]「海に眠る炭鉱」斎藤美奈子(文芸評論家)『東京新聞』2024年12月18日
NNNドキュメント 「アボジが眠る海」ぜひご覧ください。
地元の放送局がつくった素晴らしい番組です、時間の合わない方はぜひ録画して見てください。
2024年12月22日(日) 8:00~ BS日テレ
2024年12月22日(日) 5:00~/ 24:00~ 日テレNEWS24(CSなど)
https://chogo28.blog/the-sea-where-aboji-sleeps/
3.「アウシュヴィッツは空から降ってこない」――日常の延長線上にある「悲劇」を知るために最適の書ヘンリー・オースター、デクスター・フォード(大沢章子・訳)
『アウシュヴィッツの小さな厩番』(新潮社)・清水潔(foresight)2024年12月18日
4.「横浜・園芸博覧会の予定地に謎の構造物 旧日本海軍の「毒ガス」保管庫? 「非常に珍しく貴重」保存望む声」『東京新聞』2024年12月19日
それでは。川口重雄拝 

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4.横浜・園芸博覧会の予定地に謎の構造物 旧日本海軍の「毒ガス」保管庫? 「非常に珍しく貴重」保存望む声(東京)241219
https://www.tokyo-np.co.jp/article/374366
2024年12月19日 11時00分
 戦時中に日本海軍の施設があり、戦後は約70年にわたって米軍に接収されていた横浜市の上瀬谷通信施設跡地に、排気筒のような構造物と、倉庫のような建物が残っている。研究を進めてきた地元の市民団体などは、これらは日本海軍の毒ガス保管に関わる施設の可能性があるとみて、戦争遺跡として平和教育に活用するよう求めている。
上瀬谷通信施設跡地にある倉庫のような建物(左奥)と排気筒のような構造物(中央手前)=横浜市で、本社ヘリ「あさづる」から
上瀬谷通信施設 1945年8月、旧日本海軍の倉庫群を米軍が接収。47年にいったん解除されたが、朝鮮戦争勃発後の51年に再接収された。広さ242ヘクタール。米軍は暗号通信などを行う通信隊を設け、周辺945ヘクタールは電波障害防止地域として建築などが制限された。2004年の日米合同委員会の合意に基づき、15年6月に返還された。
◆「煙突の基礎部分ではないか」 関連資料を探すと…
 同市瀬谷、旭区にまたがる跡地の南東部では、2027年3~9月に国際園芸博覧会が予定され、将来の公園化も見据えた園路などの整備が進む。10月下旬、本社ヘリで上空から見ると、広大な原っぱに重機が入り、地肌がむきだしに。その一角に、3メートル四方のコンクリートの構造物が手付かずで残されていた。筒状で、側面も通気が可能な形状だ。
㊧覆土式の火薬庫とみられる建物の内部(1月撮影、横浜市教育委員会事務局提供)、㊨上瀬谷通信施設跡地に残る排気筒のような構造物=10月、横浜市で。本社ヘリ「あさづる」から
 いったい何か。地域の歴史を調べてきた市民団体「横浜・瀬谷地図くらぶ」の田中常義会長(92)は「煙突の基礎部分ではないか」と考えた。この構造物から数十メートル離れた場所には長さ115メートル、幅30メートルで、半ば草木に覆われた建物がある。
「構造物と建物は地下でつながり、排気しているのではないか」構造物と建物について語る田中常義さん=横浜市瀬谷区で 田中さんが防衛省防衛研究所の図書館で上瀬谷の関連文献を探すと、終戦時に日本側が連合国側に出した資料の中に、「特薬庫(覆土式)」という記述を見つけた。「特薬」は海軍で毒ガスを指すとされる。
◆市教委は「覆土式火薬庫」と推定
 構造物と建物を埋蔵文化財として発掘調査を進める市教育委員会によると、構造物の地上部の高さは3.7メートル、地下の基礎は1.9メートルで、煙筒のような構造と確認している。一方、建物の中にはトンネル構造の空間が2つ並ぶ。市教委は構造物と建物の一式を「覆土式火薬庫」と推定。火薬が保管されていた可能性を示すが、毒ガスもあったかはまだ不明としている。
 田中さんの情報を参考に、別の団体「日吉台地下壕(ごう)保存の会」が、戦争遺跡に詳しい西南学院大の伊藤慎二教授(考古学)に写真を見せ、見解を尋ねた。伊藤教授は昨年、北九州市の陸上自衛隊小倉駐屯地内にある曽根兵器製造所跡を現地調査していた。かつて陸軍が毒ガスを砲弾や爆弾に入れる作業をした場所で、そこに5基残る「排風塔」と今回の構造物が似ていた。
曽根兵器製造所跡に残る「排風塔」=「陸軍毒ガス兵器工場曽根製造所遺跡の現存遺構とその意義」『西南学院大学博物館研究紀要』12号より転載(伊藤慎二教授提供)
◆「上瀬谷の構造物は平和教育に活用価値」
 伊藤教授は取材に話す。「上瀬谷の構造物も排気の専用塔で、周辺は毒ガス兵器の倉庫として使われていたと言えるのではないか」
 伊藤教授が国土地理院から入手した1949年の航空写真には、構造物の上に高さ15メートルほどの煙突があったとみられる影も写る。「毒ガス関連の遺跡は北九州の曽根と(陸軍の製造所があった)広島県の大久野島に残っているだけで、上瀬谷の構造物は非常に珍しく貴重。平和教育にも活用価値があり、大切にしてもらいたい」と語る。
◆少なくとも27年までは保存
 旧日本軍は陸海両軍で毒ガスの研究を進め、毒ガスを使った兵器も配備されていたが、詳しい記録は残っていない。環境省が2004年までに行った調査によると、上瀬谷には「第2海軍航空廠(しょう)瀬谷工場があり、終戦時に毒ガス弾等を保有していた」。
神奈川県寒川町にあった相模海軍工廠で製造され、上瀬谷に運ばれて保管された可能性が指摘されている。
国際園芸博覧会が予定されている上瀬谷通信施設跡地=横浜市で、本社ヘリ「あさづる」から
 園芸博に向けた会場整備は来年度に本格化するが、市は「文化財としての評価を待つ」として、少なくとも27年までは保存すると決めた。地道な調査を続けてきた田中さんは「米軍に接収される前、ここに海軍の施設があったことが忘れられている。戦争の大事な遺跡で、後世に残していかなければ」と訴えている。
 ◆文・神谷円香/写真・布藤哲矢、神谷円香

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平塚市に海軍の毒ガス製造工場がありました。

参考ブログ記事

化学兵器ジャーナリスト北宏一朗さんの訃報

平塚市役所は、軍事施設跡地に建っている“国内唯一”の役所です

 

(了)

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