◆風捕獲器 鹿島出版会 現代建築学から抜粋
◆ある秋の、天気の良い日にアンテナを高々と掲げたのである。ことさら威張るほどのことでもないが、アルミの針金で苦労して固定し、青空に、反旗を翻すがごとく、ではないか、差し揚げられたのであった。少しでも苦労して上手くいくと何か言いたくなるのである。しかし、青空に映え美しかった、などと言っていてはならぬ。ただのアンテナの話だ。家のあるエリアは、数十年に渡り長らく共同アンテナを使用していたのだが、全国的に地上波デジタルに切り替わるということで、受信方法は色々な方法が取れそうに思え少し迷ったけれど、もうアンテナを付けてしまえば、とにかく他に間に入る者が無くて直接受けられ、仕組みも単純簡単、値段も総合的に高くはならないだろうと見て高々と差し揚げることとなったのであった。それで業者に頼めばいいところを量販店で「八木アンテナ、ナントカ素子ナン本、バツグン、バッチリ、エリア問わずどこでもナントカ・・・」などと大書された広告の立ち並ぶ中、しばらく迷った末にアンテナ購入。八木アンテナは懐かしい。もちろん日本が世界に誇る今でも極めて有効なスタイルのアンテナだ。家の近所でも、光などの大容量有線で家庭に入れているランニングコストダイジョブ派を除き、ひょろりと細長く屋根の上に掲げた家が多くなった。そのアンテナは、アンテナが無ければすっきりしたと見るタイプのスッキリ街並み派を目指す向きからは、電柱などと並んで街並みを壊すものと受け取られるかもしれない。だが私は、電柱とはボリューム、仕組み、働き、などなどが全く違うし美観的にも全く別物だろうと独善的判断をしたのだった。若干、無い方がスッキリ見えるという観点からだけならそちらのほうが美観的には良いかなとも思ったりしたのだが、そんなとき、パキスタン、ハイデラバードのあの風捕獲器(バーナード・ルドフスキー著。「驚異の工匠たち」)のことが頭に浮かんだ。あの原風景。そこに生まれ育った人にとってのあのそれぞれの家から突き出た煙突の様なものが立ち並ぶ風景。それに対してヒョロリとした極めて今風にアレンジされたと言える「工業製品!」としてのアンテナ。それはどこかヒョウキンで可愛くもある。風と電波という捕獲するものの違いが今という現代を象徴しているかのようだ。それらの風景がダブって見えてくるのだった。
バーナード・ルドフスキーの「建築家なしの建築」、これは自分の嗜好からしても当然、持っているものと思い込んでいたのだが、当時、読むだけは読んだが図書館などから借りてのことだったらしく本棚などどこを探しても見当たらないのだった。あの名著を持っていないのだ。oh! 不熱心さの表れかもしれないけれど、まあいい。