カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

18Dec2010

2010-12-18 | エッセイ

吉阪隆正先生と時間として重なった日々は、私は多くない。私が大学の4年の時に先生は亡くなられたからだ。だから、全く個人的に「交差」したのは数回しかない。それでもエピソードとしてその人のことを知りたい人は多くいるだろうし、貴重かもしれないから、その時のことを短くでも書いてみたいと思う。あまり、多くは書けないし、上手くも書けないかもしれないけれど・・・・・・・

吉阪隆正という人がどういう人か知らない人は、インターネットなどで調べてみれば、いくらでも多くの人が書いていると思うから、直ぐに分かると思う。

                                                                              
                                         

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昨日、板橋駅近くを歩いた。

2010-12-18 | エッセイ

昨日は、JR板橋駅の周辺を歩いた。2,3時間程だったと思う。ガイドブックには数件のお寺が見どころとしてあげられていたが、

どれも規模は小さく、こじんまりしたものだった。石神井川に「板橋」という名の橋が架かっていて、そこが今回の歩きの一番の見どころ

と言えば見どころだった。板橋区の名の由来は、その「板橋」から来ているのだった。以前は太鼓橋だったというからもう少し見応えがあっただろう。

途中、休憩でコーヒーショップでコーヒーを飲んだ。morivaという安カフェとピコリーノというチーズケーキの旨い珈琲屋。短時間に2件も。

駅周辺の仲宿商店街や駅東側のきつね塚通りの商店街などが賑やかだった。なぜ、きつね塚というかというと、塚については、近くに古くから

地元の人が守り伝えた塚があったらしい。もの好きにも探して行ってみると、そこには今は伏見稲荷が祭られてあった。きつねについては、

その塚のあった場所にお稲荷さんを持って来て祭ったところからその名になったのだろうと想像した。あるいはきつねにまつわる

話がこのあたりに古くからあったのかもしれない。



ほぼ、歩いた時間順に並べている
駅前商店街を「板橋」へ向けて歩く

銭湯   


どういったワケが・・・





見えている橋が「板橋」  区名がこの橋から来ているとは知らなかった


板橋の下を流れる石神井川








「伏見稲荷」となっていた きつね塚通りの近く


駅東口の広場 広場のベンチに座り提灯を眺めている人たちがいた

                                         
                                           

cher-believe



                                                                                                          
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12月13日のblogについて、など

2010-12-18 | エッセイ
近代は模索と実験のそのプロセスそのものが作品となった時代である。だから突拍子のないものや必ずしも美的(何を美的というかは難しいところだが)でないものでも解釈の仕方の部分で人々に喜ばれ受け入れられたりした。つまり、そこにはテクニカルなもの、手法が魅力を持つ余地は十分にあったのだ。そしてそれは今でも、そうである。                                 


12月13日のblog:「
アンテナのことなど・今日は雨・13Dec2010」に関連して・・・。
 数日前、12月13日のblogで風捕獲器のフォトを載せた。パキスタンのハイデラバードの、ある街の風景だ。ある街の風景だと言っても私は実際にそこへ行ってみたわけではない。この書籍で知っているだけだ。もう30年近くも前になるけれどこのフォトを見て、年上の先輩か誰かが、正確には何のためのものか分からないらしい、と言っていたのをかすかに覚えている。風捕獲器というのはその後それが実際に正しいと分かったかもしれない。トマソンのような、役には立たないが造形物として魅力のある偶然にも近い産物といったものではなさそうだった。そのようには想像しなかった。
 いずれにしろ、著者もそこまで正確に各地へ行った時にフォトを撮りつつ確認したわけでもないだろうと思ったし、各地を旅してフォトを撮っている時は、ある好みの人々にそれなりの興味とかなりの賞賛とをもって迎えられる著書になるとは本人も思わなかっただろうから、それほどしつこく訊いていたわけでもないだろう、くらいに思った。それは単純な換気口とも見えるし、砂漠地帯の一角に位置するところからも、風は砂を運んで来るわけで、換気口の上の板は砂よけと受け取れなくもない。あるいはそれは火を使うときの煙突かもしれない、などとその時そんな話をしたように思う。フォトからだけならそんな想像も成り立つ。確かなところはそこに住む人に直接訊いてみれば分かっただろう。今なら比較的簡単にできるかもしれないが、当時はパキスタンってどの辺?などと言っていたくらいだ。


                                            
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