福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

ラトル&ベルリン・フィル ブルックナー9番を聴く

2018-06-05 22:27:14 | コンサート


アムステルダム滞在中に、たまたまベルリン・フィルがやってくる、しかも、演目がブルックナーの「9番」終楽章付きというのは、本来ラッキーなことの筈である。事実、これを知ったときには狂喜し、大いなる期待をもって、コンセルトヘボウとしては最高ランクのバルコン中央2列目の席を手配した。





朝から高鳴っていた気持ちは、夕方4時頃、楽器搬入の場面との遭遇で極に達し、あとは20時15分の開演時間に向け心身のコンディションを整えつつ臨んだものである。

しかし、今宵のブルックナー演奏への失望は、東京で聴いたヤニック・ネゼ=セガン&フィラデルフィア管による「4番」に匹敵するものであった。心が冷えてしまうのに僅か5分すらも必要なかった。

一言で申すなら、神聖なる教会のミサの最中にメタルバンドのギタリストがやってきて、ディストーション全開のプレイを繰り広げるというようなブルックナーだった。なにもエレキギターが悪いというのではなく、限りなく場違いな演奏だったと言いたいのである。

ここに、造物主への畏れや感謝もなく、永遠への憧れも祈りもない。大宇宙の鼓動や自然の美しさや厳しさがある筈もない。ただ、演奏家たちの自我ばかりが目立つばかり。もはや、ブルックナーとは言えない、ただの連続する音響があるばかり。

ベルリン・フィルの弦楽セクションは、プルトの頭から尻まで、すべてのプレイヤーが全力で弓を奮う。その姿は壮観であるし、後ろのプルトにゆくほどボーイングの小さくなる傾向にある我が国の一部のオーケストラに較べると、遥かに気持ちのよいものだし、ある意味で見習うべきものだ。

しかし、そこに鳴る音が美しいかというとそうではない。ロイヤル・コンセルトヘボウ管、シュターツカペレ・ドレスデン、ウィーン・フィルらを見れば分かるように、適切な脱力があってこそ、楽器は美しく鳴るのであり、あそこまで常に全力だと、音がギスギスして美しくないのだ。

これは音楽に限ることのない真理だ。イチローのバッティングや大谷のピッチングを見るならば、最上のパフォーマンスを得るための脱力の大事さが分かるだろう。

ベルリン・フィルのメンバーは、能力が高いばかりに、その能力の奴隷となっているようにみえた。俺たちはこんなに弾けるんだぜ、という風に楽器を鳴らしまくるうちに、目の前の楽譜が、ブルックナーでもストラヴィンスキーでも誰でもよくなってしまうのだろう。

すべては、ラトルの責任なのだと思う。まるでノーガードのブルックナーの顔面に、容赦なくパンチを打ちまくるような指揮ぶりで、大小の頂に向かっては扇情的なアッチェレランドを仕掛け、天国への階段となるべき崇高なゼクエンツでは拳を突き出しては、暴力的なフォルテで音楽を踏みにじる。

予想通り、終演後の聴衆は総スタンディングオベーション。熱狂的なブラヴォーの嵐の中、足早にホールを後にしたわたしの耳に、天国より宇野先生の声が聞こえる気がした。

「君、ラトルのブルックナーなんか、聴く方が悪いよ」。







新星ルカ・オクロス オランダ・デビュー・リサイタル

2018-06-05 11:00:23 | コンサート


順序は前後するが、6月3日(日)の午後にはコンセルトヘボウ小ホールにて、ルカ・オクロスのピアノ・リサイタルを聴いた。トビリシ生まれの26歳。ワールド・ツアーの一環で、この日がオランダへのデビューだ。

オクロスへの予備知識は全くなかった。ただ他に予定がなにもなかったので出掛けてみたところ、思わぬ豊穣が待ち受けていたというわけだ。いやあ、本当に幸せな時間だった。

シューベルト:4つの即興曲D.899

ショパン: バラード第4番

ラフマニノフ: 6つの楽興の時op.16

リスト: ハンガリー狂詩曲第2番

少なくとも、ショパンを除く3つの作品をもって、第16回ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールに臨んだことが、同コンクールのYouTube動画サイトにて確認できる。オクロスにとっても、研鑽を積んだ自信のあるプログラムというかことになろう。残念なことに、ファイナリストには残れなかったようだが、その演奏は人々の記憶に残り、世界的にファンが急増したとのこと。一見、華奢な体躯。嵐の二宮和也にも似た「はにかみ」が、女性ファンの心を掴むのかも知れない。

オクロスは、各作品の演奏前、ピアノ椅子に腰掛けたまま、作曲家のこと、作品のこと、或いは作品への想いを語る。
例えば、シューベルトに於いては、彼の短い生涯の晩年の作品であること、尊敬するベートーヴェンが亡くなって大きな悲しみに襲われていたこと、ここに聴かれる軽さや明るさは、シューベルトにとっての仮面であること。
また、ラフマニノフに於いては、オクロスが、6曲それぞれに「思い出」「愛」「大きな喪失」「勝利」など(我が記憶力が悪く、あと2つを思い出せないのが無念)など、名付けている、など。



シューベルトでは、まず音色の美しさに惹かれた。そして、オクロスの眼差しは、シューベルトの死への恐怖、生への執着、夢への逃避などに向かい、見せ掛けの演奏効果など一切眼中にない。特に明と暗、その狭間を行き来する第1番、感傷なき美しい夢である第3番の演奏が印象に残った。
コンクールの動画も十二分な名演だが、あれから1年経ち、その音楽は益々深化していた。いまは、こんなものではない。
(Luka Okrosで検索できるので、是非とも視聴してみて欲しい)



シューベルトで内面的な演奏を繰り広げたオクロスも、リストのハンガリー狂詩曲では、超絶的なヴィルトゥオジティを披露し、聴衆を湧かせた。内だけでなく外にも、幅広い音楽性を抱いているところが、オクロスの魅力でもある。

今現在、日本でどれほどの知名度があるのか分からないけれど、今後、人気の沸騰するような気もする。今、ここに聴けたことは大きな歓びである。