生活保護の不正受給について、地方自治体が2012年度に把握した件数は約4万2千件、総額は約191億円だった。前年度と比べ、件数は約6千件、総額は約17億円増え、それぞれ過去最多を更新した。厚生労働省が3日、集計結果を公表した。自治体が不正受給の調査を強化しているのが主な原因とみられる。
不正受給の内容別では、「働いて得た収入の無申告」(件数全体の47%)、「年金収入の無申告」(同21%)などが目立った。不正が見つかったきっかけは、行政側の調査が大半だが、外部からの通報も5%あった。
不正受給額の増加は3年連続で、09年度と比べ倍増した。生活保護を受ける人が増え続けていることが背景にあるが、不正の増加ペースは受給者全体の伸びより大きい。生活保護費全体に占める不正分の割合は、09年度の0・34%から12年度は0・53%に上がった。
朝日~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
是枝監督の生活保護についてのドキュメンタリーを拝見して、帰るなり、こういう記事を見ると、どうしたものかと。
死んでいった方々の声が聞こえてくるようで、忍びなく、やるかたなく、打ちのめされた。
1991年ころの事。
バブルが弾けるか弾けないかの境目であったように記憶する。
当時、学生であった自分が通った大学でお話を聞けたのは幸いであったが、生活保護も受けられない、苦学生?であった自分は、食うか食わずかのその日暮らしであったが、漠然と教師になるよりも、ものを書くことで生きていきたいと思いながら暮らしていたのを思い出した。
まだ、どこかで卒業しきれていないような気がしていた。
生きている気がしなかった時代でもあった。
世の中は、妙に浮き足立っていたが、自分の足元はいつまでたっても乾いてひび割れていたので、なにも救いのない時代であった。
馬鹿騒ぎしやがって。と思っていた。嫌であった。そういう雰囲気が。
ある意味、世の中は、陽の時代であったかもしれない。
しかし、311を境に、陰の時代に足を踏み込んだように思えて、馬鹿騒ぎではなく、物騒なことが立て続けに起こるようにもなった。気がする。
誰もが信じられないような津波に飲み込まれて、戦争の焼け野原ではなくとも、水攻めの大地の剥ぎ取られた命の残骸にのたうち回りたくとも、回れず、呆然とした。何かが荒れている。黒い水が坂道を逆流するように。ありえないことが起こりつつ有ると。
311の後、生活が立ちゆかなくなった方々にも、降りかかってきている生活保護の問題であろうから、陽であろうが陰であろうが、生活は厳しい人は変わらずにそこに暮らしている。
1991年ころ、それ以前よりも、生活保護の形として、切り捨てられているものが多くなっていったとドキュメンタリーの資料でお見受けしたが、2014年では、むしろ切り崩しにかかるものの問題がクローズアップされている記事などを見ると、自死された方はどう思うのか。
釈然としない何かがのこる。
飲み込めない死。
夜の仕事をしていたが病気になって生活に絶望してか灯油を自室にまいて火を放った後亡くなった女性は、ある意味、生活保護を十分受けられず亡くなった行政に切り捨てられた側の人間であるとするなら、厚生省に入り福祉に関わりながらも、環境省に配属され水俣病に関わるようになり、そこでの生活保護的なものにも関わってくるであろう賠償問題に直面し、自ら命をたった男性は切り捨てきれなかった人間であった。
戦争が終わって、それぞれ両親をなくし、養父母に育てられた女性と、祖父母に引き取られて育った男性との話を絡めていくことによって、それぞれの立場、立ち位置は違っていても、ウラとオモテ、夜と昼、女と男、陰と陽の対話のように紡がれていく先には、死があった。
イランで子供の頃、父親の仕事の関係で暮らしていた頃、イランイラク戦争を体験して、空襲警報などなっては地下室に逃げていた時も、重なり、自分としては、人事ではなく、死はいつもそこにあったのを、思い出した。
飲み込めないものは無理に飲み込まない。
死んでしまうので。
今それを吐き出し続けているのだ。死ぬまでかろうじて生きていけるように。
印象的であったのが、若いころ小説家を目指していた役人の男性の書いた「しかし」という詩であった。
最後に絶叫のように「しかし」を返してくれと詩に認(したた)めていた。
しかし、おれは生きるとは最後に言わなかった男の声無き声が聞こえたようで、忍びなく、やるかたなく、打ちのめされた。
不正受給の内容別では、「働いて得た収入の無申告」(件数全体の47%)、「年金収入の無申告」(同21%)などが目立った。不正が見つかったきっかけは、行政側の調査が大半だが、外部からの通報も5%あった。
不正受給額の増加は3年連続で、09年度と比べ倍増した。生活保護を受ける人が増え続けていることが背景にあるが、不正の増加ペースは受給者全体の伸びより大きい。生活保護費全体に占める不正分の割合は、09年度の0・34%から12年度は0・53%に上がった。
朝日~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
是枝監督の生活保護についてのドキュメンタリーを拝見して、帰るなり、こういう記事を見ると、どうしたものかと。
死んでいった方々の声が聞こえてくるようで、忍びなく、やるかたなく、打ちのめされた。
1991年ころの事。
バブルが弾けるか弾けないかの境目であったように記憶する。
当時、学生であった自分が通った大学でお話を聞けたのは幸いであったが、生活保護も受けられない、苦学生?であった自分は、食うか食わずかのその日暮らしであったが、漠然と教師になるよりも、ものを書くことで生きていきたいと思いながら暮らしていたのを思い出した。
まだ、どこかで卒業しきれていないような気がしていた。
生きている気がしなかった時代でもあった。
世の中は、妙に浮き足立っていたが、自分の足元はいつまでたっても乾いてひび割れていたので、なにも救いのない時代であった。
馬鹿騒ぎしやがって。と思っていた。嫌であった。そういう雰囲気が。
ある意味、世の中は、陽の時代であったかもしれない。
しかし、311を境に、陰の時代に足を踏み込んだように思えて、馬鹿騒ぎではなく、物騒なことが立て続けに起こるようにもなった。気がする。
誰もが信じられないような津波に飲み込まれて、戦争の焼け野原ではなくとも、水攻めの大地の剥ぎ取られた命の残骸にのたうち回りたくとも、回れず、呆然とした。何かが荒れている。黒い水が坂道を逆流するように。ありえないことが起こりつつ有ると。
311の後、生活が立ちゆかなくなった方々にも、降りかかってきている生活保護の問題であろうから、陽であろうが陰であろうが、生活は厳しい人は変わらずにそこに暮らしている。
1991年ころ、それ以前よりも、生活保護の形として、切り捨てられているものが多くなっていったとドキュメンタリーの資料でお見受けしたが、2014年では、むしろ切り崩しにかかるものの問題がクローズアップされている記事などを見ると、自死された方はどう思うのか。
釈然としない何かがのこる。
飲み込めない死。
夜の仕事をしていたが病気になって生活に絶望してか灯油を自室にまいて火を放った後亡くなった女性は、ある意味、生活保護を十分受けられず亡くなった行政に切り捨てられた側の人間であるとするなら、厚生省に入り福祉に関わりながらも、環境省に配属され水俣病に関わるようになり、そこでの生活保護的なものにも関わってくるであろう賠償問題に直面し、自ら命をたった男性は切り捨てきれなかった人間であった。
戦争が終わって、それぞれ両親をなくし、養父母に育てられた女性と、祖父母に引き取られて育った男性との話を絡めていくことによって、それぞれの立場、立ち位置は違っていても、ウラとオモテ、夜と昼、女と男、陰と陽の対話のように紡がれていく先には、死があった。
イランで子供の頃、父親の仕事の関係で暮らしていた頃、イランイラク戦争を体験して、空襲警報などなっては地下室に逃げていた時も、重なり、自分としては、人事ではなく、死はいつもそこにあったのを、思い出した。
飲み込めないものは無理に飲み込まない。
死んでしまうので。
今それを吐き出し続けているのだ。死ぬまでかろうじて生きていけるように。
印象的であったのが、若いころ小説家を目指していた役人の男性の書いた「しかし」という詩であった。
最後に絶叫のように「しかし」を返してくれと詩に認(したた)めていた。
しかし、おれは生きるとは最後に言わなかった男の声無き声が聞こえたようで、忍びなく、やるかたなく、打ちのめされた。