あと5年は生きられると、先生が言いよったもんね。
父は、「遊歩」という体の不自由な人が乗るカートの背もたれに左手で摑まって、右半身が麻痺した体をゆっくりと引きづりながら、ニヤニヤしながらそう言った。
まだまだ、さきまで行けるって。
私は、時速1キロ前後に設定してある「遊歩」を操作しながら、答えた。
歩き始めたのは、人通りが少ない道の上であったが、父が歩くことをやめない限り、時速1キロであろうと、遠くまで行けるのは確かなことであった。
母は、老々介護の疲れもたまっていたのか、風邪をこじらせ、寝たり起きたりを繰り返していたものだから、時間の融通がきく、私が少しでも加勢になるようにと、通い続けていたのであった。
遠くまで行くことは、私にとっては、どちらかというと、喜びであったが、父にとっても、そうであるようで、昔から、何はともあれどこかに動いていないと落ち着かない人であった。
お前は、俺と一緒で、でべそやからなあ。
母は、どちらかというと、出不精であったが、家庭内遊牧を繰り返していた。
落ち着ける場所であるはずの家の中を、遊牧民のように、移動していたからだ。父と同じ部屋で簡易ベットを置き、眠っていたと思えば、今度はルーフバルコニーのような陽当たりの良いところに、ベットを持って行き暑い暑いといいながら眠っていたり、そうかと思うと、居間にある座椅子のようなものをリクライニングして、毛布をかぶって寝ていたりした。風邪を引くはずである。彼女は、父の環境はなるべく整えようという意思を持ってあたっていたが、自分の環境には、てんで無頓着なのであった。
せめて、布団で寝ないと、疲れは取れんって。
母にそう言いながら、内面的ヤドカリ生活を続けるような、母の内面的移動祝祭的生活も、父の外面的移動祝祭的生活も、私の中にはあり続けている気がしていた。それは交互にやってくるようでもあり、同時進行しているようでもあった。
しかし、お前が一番、俺たちと一緒にどこにでもいっとったなあ。革命前と戦争の始まったイランにもおったし、ヨーロッパを安旅行で回った時もおったし、エジプトやら、ドバイやら、タイやらも、みんな一緒に回っとったやろうが。
そうやねえ。行くだけは行ったねえ。そこに何があるかは、見たまましかわからんかったけど。面白かったし。
遊歩のペースは、そのままで、速度表示が0.8キロと0.9キロを行ったり来たりしていた。
イランでも、よう旅行にいったなあ。バンダルアッバスまで、車で1000キロ運転したばい。海があったろうが。あそこで魚ば買ったの覚えとるか。
右手を三角巾に吊るしていて、魚か鳥のくちばしのように曲がったままなので、傍に魚を抱えて生け捕りにしたばかりのように見える父が言った。
ああ、そうやったねえ、覚えとるよ。おっきな魚もおったけど、エビとかもあったような。
そうたい、あそこに住んどる女の人たちが、烏天狗みたいな、マスクばしとったろうが。
あんまり覚えとらんけど、そうやったかねえ。女の人が黒いチャドールを着とったのは、よう覚えとるけど。
目だけがよう見えて、鼻から下は隠されとったけんね、母ちゃんと、烏天狗みたいやねえといいよったと。
烏天狗というものが、どういうものかよく分からない私は、カラスと天狗が合体した忍者のようなものを想像した。
私は、イラン映画で、イランのとある島の砂浜に佇むドアのでてくる映画のあの浜辺を思い出していた。確か、今は、タックスフリーになっている島。その浜辺を歩いている、そのドアを見かけたものの、ドアとのやり取りを、延々と撮り続けている映画。
私は、その青っぽかった記憶のあるドアの向こうにいたかもしれない烏天狗を思い浮かべていた。いや、浜辺の空が青かったのか。海が青かったのか。記憶とは、どこかが重なって、いつの間にか、ドアの色まで青く塗り替えていくものなのかもしれないが。あのドアの向こうには、記憶が眠っている。私の幼い頃の、見ていたようで、見ていなかったあらゆる記憶が空とも海ともつかないドアの向こうに野ざらしになって、そこにあるのだ。
あと5年はいきてる間にさあ、またどこかに行きたかねえ。
烏天狗を見たその目で、魚を探すようなぎょろりとした目で、父が言った。