『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』(仲正昌樹 NHK出版新書549 2018) を読み終えた。
第二次大戦中ナチス親衛隊に所属し、ユダヤ人の絶滅計画で一定の役割を果たしていたアイヒマンなる人物は、ドイツの敗戦後、アルゼンチンに逃れ潜伏していたところを、イスラエルの諜報機関につかまって、イスラエルで裁判にかけられた。ユダヤ人の政治哲学者アーレントは裁判の模様を取材し、『エルサレムのアイヒマン』として出版した。
一般的なユダヤ人読者は、多くの同胞を抹殺したアイヒマンが悪逆非道な人物であると報道されることを望んでいたのだが、アーレントの語る人物像はそうした期待からは全く外れていた。
アイヒマンが裁判で主張するところでは、彼は確かに多くのユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだが、彼個人としてユダヤ人を殺害したつもりは無く、法の順守と言う義務に従っただけだった。アイヒマン自身は自分のしていることの善悪が分からずに行動しただけで、とりわけ悪逆非道な人物であったわけではないというアーレントの論調は、ユダヤ人社会からは散々非難されたらしい。
そもそも第一次大戦後、ベルサイユ条約で膨大な額の賠償金を背負ったドイツで、裕福な地位のユダヤ人に対して反感を覚えるドイツ人市民は多く、ユダヤ人が社会を裏から動かしているのだという陰謀説が流布していた。いわば「ドイツ民族は善で、ユダヤ人は悪である」といった分かりやすい図式がドイツ人社会に浸透していて、ヒトラーはそうしたストーリーを利用して、ドイツ人の人気をさらい、全体主義社会をまとめ上げてしまった。ユダヤ人がアイヒマン報道に期待した絶対的な悪と言う人物像も、分かりやすさを求めるものであり、その点ではユダヤ人陰謀論のようなストーリーと変わらない。アーレントはアイヒマンを大勢に流されただけの「陳腐」な人間と評した。善か悪かという分かりやすい二項対立に落とし込むこんでしまえば、それはまたナチズムと同様の全体主義につながってしまう。
敵・味方を二分するような論理に反射的に飛びつくのは、単純な欲求に突き動かされているだけで、理性に基づいて自分の行動を自分で決める自由を失うことになる。そうした土壌が全体主義と言う悪を生み出す。というのが、大体最後の辺りの話のようだった。
読書会までにもう何度か読んで理解を深めたい。
『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(矢野久美子 中公新書2257 2014) も手元にある。
こちらにも目を通していいだろう。