愛知学院大学青木ゼミのブログ

愛知学院大学商学部青木ゼミの活動を報告するためのブログです。

教えないで教える

2009年10月22日 | Weblog
先日,曹洞宗が発行している『禅の友』という冊子を休憩の暇つぶしに見ていました。うちの大学は駒澤大学などと同じく曹洞宗系です。そのため,教職員にはその冊子が毎月配布されます。何気なくページをめくっていたら,考えさせられる記事に出会いました。読者投稿のページで「教えないで教える」という記事を見たのです。つぎのような内容でした。

「座禅の指導を受けていたとき,杓底一残水という言葉の意味について考えあぐねて,自分なりに考え出した意味を師に投げかけて返答を待ちました。しかし師は何も答えないまま。その1年後,同じことをしたのですが,またも無返答。さらに1年後も同じ。また1年後も訊ねてみると,師からはそのときそのときに思ったことでよいのだという答えが返ってきました。最初に訊ねたときに答えが返ってきたら,軽く受け止めただけだったが,教えがなかったがゆえに,かえって深く考えることができました。」

これにはうなってしまいました。大学教員の端くれである自分は,学生に深く考えさせる教育をしているのだろうかと自問することになりました。

近年大学業界ではFD活動という教育改善活動が盛んで,そこでは教員に分かりやすく教えることが求められています。具体的に,細かく,ていねいに教えることが求められていると言い換えていいでしょう。今までの大学教育がひどくいい加減だったことは事実なので,少子化で生き残りが厳しくなった今,改善を図るためにそのような教え方が必要とされることは十分理解できます。

一方で,知的鍛錬の場である大学では,深く考えるための訓練を行うことは重要です。これこそが大学の存在意義を示すのかもしれません。そうであるならば,具体的に,細かく,ていねいに教えることが,はたして深く考える訓練にうまく結びついているのか考えてみる必要があると思います。分かりやすい授業のおかげで,学生は分かりやすく説明された専門知識を覚えて,試験で再現できたとしても,それだけでは深く考えることができていないでしょう。そこに深く考えさせる仕掛けが必要になります。その仕掛けとして,あえて分かりづらくとも,教えない教育がありうるように思えます。

せめてゼミで教えない教育をやってみようかと思っています。しかし,これは難しいだろうなとも思います。まず,ていねいに教えられることが良いことだと信じている学生には耐えられないかもしれません。すぐに簡略な答えを求める学生が多いのです。しかも,高い知的好奇心を保ち続けなければ深く問い続けることはできませんが,学生がそんな好奇心を保ち続けることができるかどうか・・・。

そもそも教員の私が耐えられないかもしれません・・・。学生のでたらめな勉強を側から見ているのは精神衛生上よろしくないのです。教えないことが習わないことになる可能性が高い。上の記事では師は4年も待っていますが,私なら4日も待てないでしょうか。
コメント
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