親孝行したい時には親はいない、と思いながら今年は
なんと25回忌を迎えた。
81歳を頭に4人の兄弟姉妹が集まって、金沢のお寺で
法要を営んだ。
父は昭和26年に50歳で亡くなっている。
それから、母は父が仕事をしていた京都を離れ、父の
実家である金沢のお寺に帰った。
それから、最初は保母をしながら、4人の子供を育てた。
一番上が私だったから、母の苦労を一番知っているはず
だが、馬鹿息子のこと、時だけ稼いで大きくなった。
教育者であった父は、高校を新制高校と呼んでいたころ
こと。今にちの学制の発展ぶり?を知ったら驚くだろう。
まだ、GHQなるアメリカ支配の時代に学制改革の仕事に
力を注いだ。だから、苦労を重ねて早くに亡くなった。
と長く思っていたが、最近読んだ本によると、そのころ
平均寿命がまだ50歳ちょいだった。
だから、そう早死でなかった。
でも、父はやるだけのことやって死んだんだ。
もしあの世で、のんびり屋の息子が全国紙の記者になっ
ていたことを知ったら、ひっくり返るほどびっくりした
だろう。
それより、今ほど社会保障制度が充実していなかったこ
ろのこと。苦労したであろう母を思い、「ほんまに、お
世話になりました」と手を合わせ、焼香した。
なんと25回忌を迎えた。
81歳を頭に4人の兄弟姉妹が集まって、金沢のお寺で
法要を営んだ。
父は昭和26年に50歳で亡くなっている。
それから、母は父が仕事をしていた京都を離れ、父の
実家である金沢のお寺に帰った。
それから、最初は保母をしながら、4人の子供を育てた。
一番上が私だったから、母の苦労を一番知っているはず
だが、馬鹿息子のこと、時だけ稼いで大きくなった。
教育者であった父は、高校を新制高校と呼んでいたころ
こと。今にちの学制の発展ぶり?を知ったら驚くだろう。
まだ、GHQなるアメリカ支配の時代に学制改革の仕事に
力を注いだ。だから、苦労を重ねて早くに亡くなった。
と長く思っていたが、最近読んだ本によると、そのころ
平均寿命がまだ50歳ちょいだった。
だから、そう早死でなかった。
でも、父はやるだけのことやって死んだんだ。
もしあの世で、のんびり屋の息子が全国紙の記者になっ
ていたことを知ったら、ひっくり返るほどびっくりした
だろう。
それより、今ほど社会保障制度が充実していなかったこ
ろのこと。苦労したであろう母を思い、「ほんまに、お
世話になりました」と手を合わせ、焼香した。