あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

はざまに 在るもの

2015-07-19 09:40:02 | 日記
先に紹介した本を読みながら、思い出したことがありました。
以前、ラジオで耳にしたことです。
原発問題のはざまにある 辛い出来事や思いを知った時のことです。

東電の社員を夫に持つ妻と娘の証言でした。

原発事故の前は、親戚や周りから 立派な会社に勤めていてと 羨まれることが多かったそうです。
ところが、原発事故があって以来 東電の責任問題が問われるようになり、親しい人からも 加害者
である東電に勤めていることを非難されるような事態になったそうです。
夫が東電の社員であること自体が まるで罪であるような 辛い状況になったとのこと。
人前で、夫の勤務先を語れなくなってしまったそうです。

夫は、事故後に 家には戻らず その後処理や終息作業に献身的に従事しているとのこと。
高校生の娘さんも、初めは学校仲間に父の仕事を語ることにためらいを感じていたものの、父の懸命に
働く姿を通して、ためらいが消え、父のことを胸を張って語れるようになったそうです。

東電や国の原子力政策を批判するだけでは見えないものや気づけないことがあるのだと 実感したものです。

そういったはざまにあるものが、私には一本の横糸のように感じるのです。

縦糸の考えだけでは推し量れないものに、気づかせてくれるのが横糸であり、そこに流れているのは血の通う
人間としての痛みであり辛さなのだと…。

加害責任を問われている側にも、背負わなければならなくなった苦悩があり、当事者だけではなく家族や親せき
にまで その辛さが及んでしまうのだという事実の重さ。

はざまの中には、そういったたくさんの声なき痛みや苦悩があるのだということを忘れてはいけないのだと思います。

縦糸の考えだけではすくいきれないものを すくいあげてくれるのが はざまに在る声であり、横糸です。

民主主義という織物は、縦糸と横糸がからみあって紡ぎだされるものなのだと感じます。

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敬愛する先生に再会して

2015-07-18 21:51:43 | 日記
今日は、妻の誘いもあり、敬愛する先生(春日辰夫先生)の講演会に参加してきました。
再会は、二十年振りぐらいになるでしょうか。
先生から何年振りになるかねと、問われても即答できず戸惑ってしまいました。

そして改めて感じたのは、以前の頃と同じように 人柄も 熱い教師としての思いも 誠実さも変わらない という思いでした。

教師としての出発点が、中学の教育実習で 子どもに叱られたことだったということ。
子どもに見えたものや思いを推し量ることができず、子どもたちを叱ってしまったことの後悔の思い。
ニイルの「私は学校をはじめたとき、子どもを学校に適応させようと思わなかった。子どもに適応する学校をつくろうと考えた」
という言葉に共感する思いの中に、先生のよって立つ原点を感じました。

春日先生の誠実さは、自分の実践を担任した子どもたちの言動を通して語ることです。
事実を語ることでその時の教師としての思いを淡々と語る姿勢のうちに、感じ取れる思いです。 
主役は子どもであり、私はあくまでも側面からの支援者にすぎない。

算数の授業での活躍に感動した仲間から エイジソン と名づけられた子の話。
その子から算数の評価を再考してほしいと要望され、通信票の評価を変えたのだそうです。
その子がなぜそう考えたのか、納得できたからこそ評価を変える行為をした教師。
子どもの思いに寄り添いながら、柔軟に対応する姿に、一人ひとりの子どもたちの思いや考えを大切にするハートを痛感します。

限られた時間のために、先生の用意されたレジメから割愛される事例がたくさんあっことが残念な点でした。

「教師の仕事」という項目に続いて話されたのが、二つ目の「学校が学校になるために」という項目でした。

その中で、先生は 統合が進む 学校規模について、新たな視点から話をされました。

学校の適正規模は、人数ではなく(社会性や多様な個性にふれるという利点から、文科省は統合を推進しようとしているが)、
・全校の子どもの名前が覚えられる規模 ・地域の人々が子どもたち一人ひとりの存在を認め、受け入れることのできる規模、
・一人ひとりの家庭の事情が理解でき、それに応じた指導や支援ができる規模

この考えの根本には、一人ひとりの子どもの姿が見え、家庭の事情を理解でき、地域と一体となって子どもの成長を見守り、指導
や支援のできる学校が、理想の学校であり、適正規模の学校であるという考え方があります。
それはつまり、どの子も主役となり、どの子も大切にされる学校が 求められる学校像なのだという思いなのだと思います。

社会性や多様な個性にふれるという 言葉は魅力的で説得力のある 統合の必要性や意義を正当化する 耳触りのよい文言です。
しかし、その言葉が 真に子どもたちの側に立って考えた言葉なのかどうか、疑問です。

教育現場で、学力向上が叫ばれる中、その取り組みに対する疑問も提起されました。
「きのうの私は、私の家のうらの、私の家の畑の、私の家の桃をとって食べました」
作文教育の実践家であった 国分一太郎先生が取り上げられた一文です。繰り返し強調される「私の家の」という表現は、客観
的な文章表現という視点では、繰り返す必要のない表現と言えます。しかし、その子にはそう繰り返し強調する理由があったのです。
他人の家のものを取ってしまったという後悔の思いが、そう表現せざるを得ない背景にあったのです。

学力というものさしでは測れない、表現のうちに込められた子どもの思い。学力向上だけが大切にされることで、教育の中で大切に
されるものまで否定されてしまうことの矛盾。

人の人たる価値を 果たして 学力テストで推し量ることができるものなのでしょうか。国分先生の実践例を取り上げることで、学校
としての教育の役割の本質と目指す方向性を暗示されたのではないでしょうか。

最後に先生は、オーストリアのペーター・ローゼッカーという人の書いた 詩とその解説文を朗読することで結びとしました。

     子どもは一冊の本である 

 子どもは 一冊の本である。
 その本から、
 われわれは何かを読みとり、
 その本に、
 われわれは
 何かを書き込んで
 いかねばならぬ。

子どもの書いたもの(日々の姿や表現されたもの)から、大人(教師)は 子どもの意を汲み取り 願いを知り、そのうえで 何かを書き込み
(子どもの成長や幸せを願いながら支援や指導)をしていかなければならない。
ただし、その本の物語の主役はその子自身であり、その本を書く主体はその子自身なのだということに配慮することを忘れずに…。

今は教育に関わる立場にはありませんが、担任として関わった子の行方は 今でも温かく見守っていけたらと思っています。
先生の 熱い心の内にあるように 「教師の仕事は上がりのない仕事」なのだと 感じていますから。
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高橋源一郎著「ぼくらの民主主義なんだぜ」を読んで

2015-07-18 20:10:32 | 日記
本書(「ぼくらの民主主義なんだぜ」高橋源一郎著、朝日新書)は、朝日新聞に連載された「論壇時評」をまとめたものです。

あとがきで、高橋氏は 民主主義の定義を次のように述べています。
「民主主義とは、たくさんの、異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが、一つの場所で一緒にやっていくシステムのことだ。
 だから、ものすごく小さな場所(たった二人だけ)から、ものすごく大きな場所(世界全体)まで、それぞれに違った民主主義が
 あるはずだ。ぼくたちひとりで生きていくことはできない。だから、民主主義はいつも困難で、いつも危険と隣り合わせなも
 のだ。誰でも使える、誰にでもわかる、民主主義なんてものは存在しない。」
「ぼくたちは、ぼくたちの民主主義を自分で作らなきゃいけない。」

ある意味では、どんな民主主義の定義よりわかりやすい定義なのかもしれません。同時に、定義そのものさえ一人一人によって
異なるものだと語っているようにも思えます。

本書を読みながら感じたのは、自分に欠けているもの、言葉を変えるならば自分が求めている地点を意識させてくれたことです。

織物が、縦糸と横糸を通して紡ぎだされる世界と考えるなら、それは人間の思考にも当てはまるものと考えることができるよう
な気がします。
縦糸にあたるものが、自分の価値観であり、世界観であり、ものごとに対する判断力だとするなら、横糸は何に該当するものな
のでしょうか。その横糸に相当するものが、自分に欠けていてどこかで求め続けてきたもののような気がします。

私は、反原発・反安保法案という 縦糸にあたる考えを持っています。
その反対の考え方(原発や安保法案に対して賛成の考え)に対して、受け入れることができないと扉を閉ざしてしまう面がありま
す。そこでの立ち位置が、縦糸オンリーになってしまうことの警鐘を与えてくれたのが、本書でした。

横糸にあたるのが、縦糸のすきまを埋める大切な糸なのではないかと気づかされたのです。

注意深く目と耳を傾けていけば、反原発と原発容認のはざまにある考え方も存在するのです。

その考え方を受け入れることで、縦糸である考え方に幅が生まれ、縦糸と横糸がほどよくからみあった織物ができあがるのでは
ないか、そういった提案が本書に内在しているように感じるのです。

横山秀夫氏が「ロクヨン」の中で提起した第三の道にもつながっていくような 考え方なのではないかと思えるのです。
どちらかの道を選択しなければならない時、二者択一ではない、第三の道を切り開いていけるような 柔軟で幅の広い視野に立っ
た考え方や生き方が求められているような気がしてなりません。

それは、決して縦糸の考え(自分の価値観や世界観)を捨てるということではなく、横糸を受け入れることでさらに確かな自分なり
の織物をつくりあげる(自分なりの民主主義を紡ぐという)行為なのかもしれません。

本書には、自分にとって必要な 横糸となる 世界中のたくさんの人の想いや考えが紹介され、取り上げられています。

その一例として紹介されていたのが、今は亡き俳優の菅原文太さんに関することです。文太さんは自分は無知だと公言しながら、
熱烈な読書家だったそうです。
まるで、自分の求めるものをたくさんの書物の中から探し求めるような読み方だったそうです。

常識や既成の考え方にとらわれないところで、本当に自分が納得できるもの・理解できるものを求めていたのだと思います。

それはある意味で、縦糸となる自分を補うための横糸を求めていたのではないかと感じて仕方がありません。

物事の本質を一面的にではなく多面的に見つめ、幻のような自分の求める理想に形や色や思いを乗せて表現できたら…そんな願い
が見えるような気がします。

本書を読みながら、
民主主義は与えられるものではなく、自ら見出し定義付け、それに基づいて行動する(生きていく)ことが、一人ひとりに求められ
ているのかもしれないと、痛感しました。
是非、ご一読を! 縦糸の世界が横糸によって さらに自分の納得がいく織物に仕上がるかもしれません。


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安保法案の行方

2015-07-16 17:30:50 | 日記
安保法案は、昨日の委員会・今日の衆議院で可決され参議院に送られることになりました。
60日後に再度衆議院で可決されれば、法案は成立といった流れになるようです。

自民党の幹部の一人は、かっての日米安保条約のように、国民の反対意見が多くても生活に
密接に関わってくる法案ではないので、やがては忘れられ容認されていくのではないかと、
楽観視した見方をしているようです。無責任な楽観論を平然と述べる政治家がいることにあ
きれてしまいますが…。

平和憲法のもとで、戦後は戦争に加わることなく平和外交を基本に歩んできた日本の歩みが、
集団的自衛権の行使を可能とし戦争参加への道を開こうとする 大きな転換点に立つ状況に、
危機感を覚えてしかたがありません。

国民の理解が得られていないという現状を首相自身も感じていながら、法案成立を急ぐのは
アメリカ議会の演説で約束したことを果たすためなのでしょうか。国民の命と財産を守ると
いう 法案の大義名分が、国民の理解を得ずして成り立つものなのかどうか疑問です。
国民の理解を得ることより、アメリカでの約束が優先するということなのでしょうか。

安保法案は、ある意味で 銃を持った兵士に銃口を向けるような意味合いをもつ法案のよう
な気がします。戦いを回避するためには、銃をもたずに交渉することが前提になります。
戦争を放棄する平和憲法のもとで外交努力を継続してきた姿勢が、まさに銃を持たず銃口を
向けることなく世界と向き合い、戦後の平和を形作ってきたのではないかと思います。

それが、敵とみなす相手国や兵士に対して、味方とみなす同盟国や兵士と一緒になって銃を
持ち 銃口を向けることになるわけです。

それが 敵国に対して抑止力となり、戦争を回避できることにもなる という政府の考えも
あるようですが、逆に 敵国は 敵とみなされた(銃口を向けられた)ことで、軍事力を増強
し、それに対抗するように日本の軍事費も増やすという 軍拡競争に歯止めがかからなくな
るように思います。
そしてそれが一触即発の緊張感を生み、戦争の発端になる危機さえ感じてしまいます。

それだけ 安保法案は、平和を守るのではなく戦争への道を開く危うさを抱えている法案で
あり、反対の声を上げることの必要性を痛感しています。

参議院での継続審議がこれからも続くわけですから、改めて 法案の内容や必要性について
さまざまな声に耳を傾け、考えを深めながら、法案の行方を見守っていきたいと思います。


 
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学校は子どもたちの命が輝く場

2015-07-14 07:25:53 | 日記
いじめの問題などが起こると、学校の指導体制の不備が問われてしまいます。
教職員の協力体制はどうなっていたか、どんな指導や支援を行っていたのか、
保護者への対応は、どうなっていたのか? 等と。

文科省は、特に敏感に反応し、教育現場の再点検を求め、マスコミは学校の非を
追及しようとするかもしれません。

教育現場の最前線にいる担任は、新たな重荷を背負うことになります。

事件が起こるたびに、担任は生徒指導における課題を洗い出し、一人ひとりの心に
踏み込んだ指導や支援を試みようとします。
生徒指導の担当者を中心に、学校組織としてのいじめ対策についても職員会議等で
見直しや再検討を進めていくことになるのでしょう。

そのことが、逆に教師と子どもとの間に培ってきた信頼関係を 阻害することにも
なりかねないということにも、配慮は必要なのではないでしょうか。

教師は、子どもの確かな成長を目の当たりにすることで、教育者としての喜びを
体感します。

あっそうなんだと、授業の中で その子なりにわかる喜びや学ぶ楽しさを体得する
姿や 弱い立場の子どもの意を汲み取りながら行動したり手助けする姿を見たりす
ることで、教育者としての喜びや新たな意欲を学びとっていくものです。

日々の学校生活の中で、そういった子どもたちの姿が語られ、その喜びを共有する
ことで、教育組織体としての学校は、質的に向上していくのだと思います。
子どもたちの そういった輝く姿が、教職員間で、保護者の間で、地域の中で、日々の
話題とされることで、学校・家庭・地域が一体となった教育が展開されていくのだと
思います。

さまざまな事件や出来事から、現状を見直し検討することも必要ですが、同時に地道に
取り組んでいる 今の学校のよさや日々の学校生活の中で 子どもたちの示す輝きを見
失うことなく、よりよい教育の方向性をプラスの面でも共有する努力を継続していって
ほしいと願います。

どの子も学校の主役であるということ。そして子どもたちの輝きが 学校に、教職員に、
保護者に、地域に、元気と活気を与えてくれる なによりのかけがえのない存在である
ということを 忘れてはいけないのだと思います。

その努力を継続することが、いじめのない どの子もそこに居場所や活躍の場を見出す
ことのできる 理想的な教育の場としての学校づくりに結びついていくのだと思います。
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