世紀末パリを彩った ダンスホールのご紹介!!
左;現在の「ムーランルージュ」でフレンチ・カンカンを踊るダンサーたち
右:ルイ・ルグラン《ダンスホール「ビュリエ」でフレンチ・カンカン》1895年
『その時だった。彼女たちが本物の金髪なのかブルネットであるのかが分かったのは。(...中略)
この暑い夏の最中、温かい毛皮に身を包んだイギリスの年配のご婦人や若いお嬢さん方はいつも最前列に座り、ふしだらなフランスの踊りをしっかりと確かめる。そして、ダンスが終わると顔を覆って、「何て下品なのでしょう!」と、ひどく憤慨するのだった。』
モーリス・デルソル「パリーシテール島」より(翻訳:北海道立函館美術館 柴勤)
上の文章は、フレンチ・カンカンの踊りと、「ムーランルージュ」へ訪れる観客の反応を描写したものです。
今でこそパリの観光名所として親しまれている「ムーランルージュ」ですが、当時は世紀末デカダンスの象徴として注目を集めていました。なかでも下着を纏わずに足を高く蹴り上げるカンカン踊りは上層階級の間で話題を呼び、ラ・グリュ (大食い女)やヴァランタン・ル・デゾゼ(軟体人間ヴァランタン)など、個性的な芸名のダンサーたちが人気を集めています。
左:現在のムーランルージュの様子
右:ホアン・グリス《「ムーラン・ルージュ」の戸外にて》1908年頃
ムーラン・ルージュ以外にも、例えばセーヌ左岸のダンスホール「ビュリエ」は学生の目当ての場所として、ジャポニズムの熱気を受けた「ディヴァン・ジャポネ」は若手芸術家の溜り場として、そして「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は貧しい労働者階級が通う場所といった具合に、パリの夜空を彩っていました。
右:作者不詳《カフェ・コンセール「ディヴァン・ジャポネ」のプログラム》1895年頃
こうしたパリの喧噪は、「シャ・ノワール」の店主、ロドルフ・サリスをして「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を"パリの魂"、「シャ・ノワール」を "パリの頭脳" と言わしめたほどであり、モンマルトルの街並には今なお当時の面影が残されています。
会場にお越し頂いた際には是非、芸術家たちが愛したパリの "享楽" にも想いを馳せてみて下さい。
尾道市立美術館
■JR山陽本線尾道駅から市内バス「市内本線東行」で約3分「長江口」駅下車
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