駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

本は筍

2014年03月05日 | 小験

                       

 時々今日は本屋に寄るのはよそうと思うことがある。というのは寄れば必ず何冊かの本を買ってしまうからだ。多分、本くらい買っても良いではないかと思われる方の部屋には本は溢れていないだろう。私の書斎には本が溢れている。

 最近は買った本の四分の一も読んでいないような気がする。勿論、二三ページは読むのだが、大抵挫折して放り投げてしまう。書架が一杯なのでつい積み上げることになり、まるで筍のようにあちこちに生えている。年に数回、発作的に伸びた筍狩りをする羽目になる。

 いつの間に気が付いたのか、行きつけの本屋が波とか青春の読書とか本の窓とか・・出版社の小冊子を送ってくれる。こうした小冊子は読みやすくしかも面白い。つい患者の来ない五、六分の間に目を通してしまう。批評家は当然だが小説家も本を読むのが好きらしく他人の著書の感想文を載せている。これがまた、面白そうに書いてあるのだ。つい読みたくなる本が何冊も出てくる。

 物忘れが酷くなったのだが、こうしてことは以外に覚えていて、町に出たついでに本屋を覗きたくなる。早く行きすぎてまだ出回っていないこともある。ああこれかと手にとっても実際には買わないことが多い。書評ほどではなさそうなこともあるが、要するに小金持ちなのにケチだからだ。文庫本になったら買おう。文庫本になるということは一定の評価があったということだしという理屈も付ける。子供の頃、野原に遊びに出ると、畔の灌木の枝に干涸らびた蛙やトカゲが刺さっていた。モズの生け贄という奴で、あとで食べようと取って置いたのが忘れ去られているのだ。それに似て、私の文庫本化待ちにも同様の運命が待ち構えている。

 どうして世にこんなに本が溢れているのだろうか。毎日何十冊否百冊以上の本が出版されているような気がする。多くの人に読んで貰いたい、記憶に残る形として残したい、編集者に勧められた、収入源である・・・・色々な理由があるだろう。私は本には脳外脳として機能があり、そして多くの物事は一言では言えず本にしなければ表現できない伝えられないからだと思う。あまり本を読まれない方には、僭越ではあるが一言では表せないことが世の中にはたくさんあること知って戴きたいと思う。

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4 コメント

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Unknown (柳居子)
2014-03-05 12:24:25
買った本の四分の一も読んでいない。二三ページ読んで放り投げてしまう。出版業界は、こういう奇特な人の存在で、成り立っていると考えられます。 一冊の本を10人が回し読みすると仮定すると、売上十分の一に激減します。

脳外脳として使う場合は、必要な時・必要な情報に即時にアクセスできるように メンテナンスが必要ですね。
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つける薬は? (old-drreramer)
2014-03-05 18:23:12
周囲に溢れていた書籍は、定期的に眼を瞑って一括処分してきましたが、気がつくとまた増殖しています(笑)。病膏肓、いつの頃からか、大きな書店、図書館が近くにないと不安(?)で住めなくなりました。
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Unknown (arz2bee)
2014-03-05 18:27:43
 確かに出版業界に貢献しています。八割方文庫本ですから貢献率は高くありません。図書館で借りて読むのが賢いのかもしれませんが、汚したりするし期限で返すのが億劫何ですよね。
 柳さんは脳外脳として使いこなせるように整理され散るようでさすがと思います。ただ出鱈目に置いてあっても何となくこの辺りかなという感覚が残っていて、七八分で見付けられることが多いです。
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まだ未発見のようです。 (arz2bee)
2014-03-05 18:45:19
 old-timerさんコメントありがとうございます。病膏肓に入ってしまったようですね。これはなかなか治りにくいんですよ。付ける薬は未だ見付かっていないようです。

 私もSimonの歌詞の講義を東名高速から首都高の車中で運良く聴くことが出来ました。Simonは詩人なんですね。ああそうかそういう意味と背景があるんだと感心しながら聞きました。
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