異業種の知人にMさんというフォント(字体)に凝る人が居た。私は字体の違いは何となく分かる程度で読みやすければよいで済ましてきた。しかし彼の話を聞いていると成る程、フォントには細かい違いとまとまりがあり、形、形式として見始めると感覚に合うものを探し始める気持ちが分かる気がした。
例えば数字のゼロとアルファベットのOは違いが分かりにくい時があるのだが、Mさんがこの0は気に入らないと延々と何十分も講釈を聞かせてくれた。世の中にはデザインとか意匠と言われるものが存在する。凡そ人間の作り出す物には程度味わいの差はあるけれども、何らかのデザイン性から自由なものはないようだ。人様々で、それを殆ど気にしない人から微妙微細にこだわる人まで色々居る。気にしない、有り体にいえば形の有り様に鈍感な人でも、湯飲みにこだわったり財布にこだわったり、やはり某か意匠へのこだわりはあるものだ。
例えば正三角形と言えば、概念としては一つしかないが、いざ目に見え手に取れるものにすると、微妙な線の太さや色合いで違ったものになり、人にはそうしたデフォルメに気付き味わう能力が備わっている。昔、違いが分かる男とかいうコマーシャルがあった。今なら違いが分かる人間ということになるのだろうが、違いに気付く能力は人生を豊かにすると思う。
尤も、気付き過ぎるとうるさいこともある。中に蘊蓄人間とでも呼びたい人種が居るのだが、そいつが本物かどうかは実際に違いが分かるかどうかで判定している。試すのは失礼かもしれんが、偉そうな蘊蓄親父にはこれ何だろうと聞いてやることにしている。当てられれば本物だ。
違いの気づき方、重きの置き方が人様々で、人間観察の興味は尽きない。
これはデザインではない?が、男としては女性観察も大きな楽しみで、この頃増井渚が綺麗になったと国際報道を楽しみにしている。