先日何かの折に和箪笥の引き出しを開けたら、防虫剤に「終わり」の文字。
これはいけない、と防虫剤を買ってきて2棹ある箪笥の引き出しに入れていましたが、ほぼ処分が終わっていたと思っていた義母のものや、正体不明(笑)の
着物がたとう紙に入った状態でいくつもあるのに気づきました。
以前別の和箪笥にあった義母の着物を整理して売ったことがあって、もうほぼないものと思っていたけれど、見たら捨て置けない。
それに一番出番の多い相方の着物があちこちにバラバラに収納されていることにも気づいたので、暑くも寒くもないいまのうちに、と昨日両方の和箪笥から
着物などをほぼ全部出し。
当然ながら、2階の2室はカオス状態になりました・・・・・・
たとう紙には中に何が入っているか書かれているものもあれば、全く書いていないものもあるし、書いてあっても中身が同じかわからないので、いちいち
確かめなければなりませんでした。
昔義母が使っていたパラゾールの中身が空になった小袋だとか、男物の新品の半襟が数枚出てきたり。
なぜか洋服の肩パッドもいくつかありましたし、中が空のたとう紙も何枚か出てきました。
まだまだ片づけの途中だし、相方の着物は彼自身がしまったほうがいいと思うので、きちんと片づくまではまだ時間がかかりそうです。
写真の着物は、娘の数え7歳の七五三のときのもの。
10月に孫娘は満3歳で七五三祝いを済ませましたが、写真のときは貸衣装だったしお詣りのときは洋服でした。7歳のときにはこの着物を着てくれるといいなぁ
なんて思っていますが、さてどうでしょう。
自分に娘がいなかった義母が孫のために喜んで作ってくれたもの。私も娘が着た着物を孫が引き継いで着るということに、憧れと言うかロマンを感じます。
認知症の義母も自分の曾孫とわからなくても幼子の着物姿は喜ぶはず。もしそのときにまだ生きていたなら晴れ着姿を見せてやりたいものです。
さっき義母の着物を処分したことがある、と書きましたが、それ以前に自分の数少ない着物も処分していて、残っているのは無地の紬が2枚だけ。
その着物も、着たい気持ちはあるけれど自力では着られないので、ずっと手を通さないままになっています。もったいないですよね。しかも、嫌いじゃないのに。
若い人たちが古い着物などを上手に、または自分流に着こなしているのを見かけると、うらやましいなといつも思います。
習いに行くと、着付けの資格がどうとか言われるのが嫌で、進んで行く気になれないんですよね。
まあ浴衣くらいなら下手なりになんとか自力で着られて、帯も簡単な結び方なら出来ますが。寸胴・・・いや、今ではあちこちデコボコした体型で補正も必要
だけれど、なで肩なのでまあ似合わなくはないと思うんです。洋服よりはね。
たった2枚の紬の着物も、箪笥の肥やしで終わりそうな気配がしています。
それに引き換え、茶道を嗜む相方のほうはこれまで年に数回はお茶会のお手伝いなどで着物に手を通してきました。去年は傷んできた袴を新調したのに、コロナの
せいで今年の初釜で着用しただけ。その後お茶会はひとつもない状態で、それがいつまで続くのかもわかりません。
今日は着物をたとう紙から出して、風にあてようかと思っています。
ところで、義母のものの中で処分に困っているものが他にもあって、新品の帯締めはまだいいんですが、むすび糸が玉になった状態でいくつかあるんです。
昔は絹糸を結んだもので反物を織ってもらって着物に仕立てる、ということをよくしていたようなんですが、着物にしたところで誰が着る?
おまけにずっと放ってあるので、白かった糸がなんだか薄汚れてきたように見えなくもない。袋に入っているんですけどね。
でも絹糸だと思うともったいなくてなかなか捨てられない。マルシェルにでも出してみようかしらん?