紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

村上春樹にご執心

2009-01-12 16:55:10 | ラジオ
 今週は祝日の振り替えで一日休日が増えて3連休に。

 本日がその第1日目。昨日は睡眠不足の日々が祟ったのか、疲れ果てていた。今日の午前中も下半身脱力状態だったのをいいことにのんびりと過ごす、つもりが、なぜか居間の本棚の片づけに半日を費やしてしまった。昨年より気になる部分がやっとすっきりしたからいいんだけどね。

 それでも「明日の前唐オの家事」というのがないので、気分はずいぶん楽勝。今日の晩ご飯のことだけ考えたらいいのって、ほんと頭の上に音符が三つほど浮かんでいそうにほっとしている。

 もうすぐハタチになるお兄ちゃんは、成人式には行かず家でだらだらしていたのだが、隣町の彼が卒業した学校の元クラスメイトより「今、同窓会してるんやけど、来る?」というメールが入った。「(事前に)呼ばれへんかったんや・・・」としょげていた彼に、「たぶん成人式の流れでインスタント同窓会が成立したからと違う? ハズされてたら、メールも来ひんから」というと、ホッとしたように「いきます」メールをして、隣町まで送ってあげることに。

 これが幸いして、私はNHK/AMラジオで放送されていた番組(再放送?)『村上春樹の音楽をめぐる冒険』という番組を聴くことができた。カーラジオがたまたまそのチャンネルに合わさっていて、しかも付けっぱなしだったのだ。ラッキー!! H氏に感謝。

 村上春樹作品とそのなかで効果的に使われる音楽についての感想や解題なのであるが、その場にはいらっしゃらなかったが収録された内田樹さんの解説が、口調はラフながら、深く鋭い。さすが『村上春樹にご用心』を書かれた方である。

 村上春樹作品に頻繁に登場する「壁の向こうとこちら」というのは生と死の世界であり、死の世界が薄皮一枚の差で向こう側にあることを自覚すると、いまこの生を謳歌している自分が身に染みていとおしく思え、今の状況に感謝出来る、というのだ。
 たとえば、こたつで蜜柑を食べていること、冷えたビールを暖かい部屋で飲んでいること。そんな平凡な日常こそが、豊穣で極上の体験となる、みたいなことをおっしゃっていた。「一番の不幸は『今の自分の状態より、もっといい状態になれるはずの自分がいるんじゃないか』と欠落感を抱えて生きることです」とも。

 これは決して目新しい話ではないし、むしろあたりまえの話ではあるけれど、きっぱりと自信満々で、楽天的というか能天気でさえあるような口調と音声で聴くと、改めて「そうそう!」と心強く思うんですよね(笑)

 村上春樹作品のいくつかの作品の一部を、アナウンサーの「朗読」という形できけたこともまた、貴重な体験。黙読することと音で聴くことがこんなに違うイメージをもたらすのかと驚きます。私は「蜂蜜パイ」(『神の子どもたちはみな踊る』収録)の朗読が、私にとっては、もっとも村上春樹さんの作品イメージに近くて好きでした。

 おっと、「アフターダーク」の不気味でゾッとする状況のリアルさにも、すっかり引き込まれてしまって、登場人物同様ゾゾッとしてしまったし。なにしろ、「続きはどうなるんやー!!」ともはや心は宙吊りでしたからね。

 しかし村上春樹作品の比喩の素晴らしさには、改めて唸ってしまうわ。空けた缶ビールの若干のプルリングを「まるで半魚人のウロコのよう」なんて比喩、彼以外に誰が思いつくかしら? 『メ[トレイト・イン・ジャズ』なんて、一文一文が、それこそ筆からぽろぽろ「こぼれ落ちる宝石みたいに、床に散らばって輝いて」いるみたいだし。いちいち深く感動してしまう。たとえ、そのミュージシャンや彼の音楽を知らなくてさえ。
 
 作品に登場する音楽を、実際に耳に出来たのもうれしかったし。

 本当はお兄ちゃんを送った足で買い物に行くはずだったけれど、いやもう買い物どころではなくなっちゃったのでした。家にもどって、すかさずラジオのチャンネルを番組に合わせて、台所で耳を傾けていました。おかげで晩ご飯は家にあるもので、やや手間をかけてつくることになり、予定は大幅に変更。

 とまあそういう休日第一日目を過ごしたのでした。