今期見ているアニメに「聖剣の刀鍛冶」がある。
ここではあらすじがどうこうというのはおいといて、とあるなかなかに興味深い設定がなされている所があるので記してみたい。
聖剣の刀鍛冶の時代、世界は平和であった。
あまり軍事的ないさかいが発生しない世界であった。
それはすばらしい。
しかし!
世界の平和は長すぎた。
武装というものの形骸化が進みすぎてしまった。
武力の象徴である刀。
すべてが鋳造で作られるようになっていた。
鍛造にくらべれば鋳造の刀は驚くほど安かった。
鋳造は型さえあれば冷蔵庫で氷をつくるがごとくカンタンに量産できる。
しかし、もろいうえに切れない。
鍛造は餅をこねるがごとく何度も何度も叩いて伸ばして折り曲げるという気の遠くなるような手間がかかる。
しかし、粘りがあり、しなり、折れず、切れる。
かくして、手間がかかり高価で量産性の悪い鍛造の刀は市場から排除されてしまった。
世界からは鍛造の技術が失われつつあった。
そんななか、いままで見たこともないような化物が出現した。
化物は硬かった。
人の武装では歯がたたなかった。
人々は殺されるか逃げるかしか手立てがなかった。
町外れの片田舎で鍛造の技術を失わず伝承しつづける一家があった。
その男の鍛えた刀はすばらしかった。
人の武装では歯がたたないと思われていた化物を切り伏せることができた。
この物語は、鍛造技術を持つ刀鍛冶の男と、当初から鍛造の刀に慧眼のあった女騎士の物語である。
・・・とまあ、こんな感じだ。
実はこれと良く似たことがかつて日本でも起きていた。
平安時代末期、時は戦乱の時代を迎えようとしていた。
その当時、戦は力が強いもの、体格の良いもの、筋力に優れるものが勝つ時代だった。
しかし、少なからずその現状に満足しない者たちが現れた。
ある者は剣の腕前を磨くことで絶望的な体格差をくつがえそうとした。
後にその者は剣の道の基礎を築き上げる。
ある者は刀の性能を上げることによって絶望的な体格差をくつがえそうとした。
後にその者は日本刀の製法の基礎を築き上げる。
鎌倉時代が到来するころ、それらは完成の域に達していた。
そして個人戦ではなく集団戦により勝敗が決する戦国時代には廃れはじめる。
江戸時代にはかなりの形骸化が進行するにいたる。
帯刀が禁止され、産業革命をむかえて安価な製鉄技術が確立される明治、それらは完全に失われた。
どんなに現代の最先端の製鉄技術を駆使したとしても、それでも鎌倉時代の名刀の性能には勝てはしない。
我々の持つ現代のテクノロジーが鎌倉時代に追いつくには、あと幾年の歳月を要するのだろうか・・・。
平和であることはすばらしい。
これ以上の良いことはない。
しかし、平和であることに慣れきってしまい、平和を維持するために不可欠な鍛錬や技術の継承まで怠ってはならない。
「聖剣の刀鍛冶」はそれを教えてくれる。
鍛造の刀でなければ勝てない敵が現れたときの無力さを教えてくれる。
鍛造技術が完全に失われていたとしたら、その世界は完全に魔の手に落ちていたに違いないのだ。
現代でもまたそれと同じようなことが起つつある。
NECがスーパーコンピューター事業から撤退した。
もともとスパコンは砲弾の着弾地点の予測計算から始まった技術である。
それが現代では、核融合の量子力学的な計算や、マッハを超える速度で飛行する戦闘機の空力計算などにも用いられている。
それが民事転用され、今日では天気予報に使われたりタンパク質の解析に使われたりしている。
それがどうだろう。
NECがスパコン事業から撤退したことで、数少ない日本のスパコンメーカーが1つ減った。
別に日本でも軍事に結びつくわけではないが、そういったハイエンドの技術が失われるのは日本全体としても大きな痛手であろうと思われる。
わたしはNECともスパコン屋とも利害関係はないが、人ごとながらこれは無念でならない・・・。
失われた技術を取り戻すのは大変難しい。
技術の設計情報は会社に残るが、技術の腕前は人の中にしか残らない。
これは、作りかた(設計情報)だけわかっていても、なぜそうすれば良いものが作れるのかという技術そのものは失われたことに相当する。
人が絶えてしまった日本刀の製造法、現代をもってしても未だに鎌倉時代のテクノロジーにも追いついていないのだから。
ここではあらすじがどうこうというのはおいといて、とあるなかなかに興味深い設定がなされている所があるので記してみたい。
聖剣の刀鍛冶の時代、世界は平和であった。
あまり軍事的ないさかいが発生しない世界であった。
それはすばらしい。
しかし!
世界の平和は長すぎた。
武装というものの形骸化が進みすぎてしまった。
武力の象徴である刀。
すべてが鋳造で作られるようになっていた。
鍛造にくらべれば鋳造の刀は驚くほど安かった。
鋳造は型さえあれば冷蔵庫で氷をつくるがごとくカンタンに量産できる。
しかし、もろいうえに切れない。
鍛造は餅をこねるがごとく何度も何度も叩いて伸ばして折り曲げるという気の遠くなるような手間がかかる。
しかし、粘りがあり、しなり、折れず、切れる。
かくして、手間がかかり高価で量産性の悪い鍛造の刀は市場から排除されてしまった。
世界からは鍛造の技術が失われつつあった。
そんななか、いままで見たこともないような化物が出現した。
化物は硬かった。
人の武装では歯がたたなかった。
人々は殺されるか逃げるかしか手立てがなかった。
町外れの片田舎で鍛造の技術を失わず伝承しつづける一家があった。
その男の鍛えた刀はすばらしかった。
人の武装では歯がたたないと思われていた化物を切り伏せることができた。
この物語は、鍛造技術を持つ刀鍛冶の男と、当初から鍛造の刀に慧眼のあった女騎士の物語である。
・・・とまあ、こんな感じだ。
実はこれと良く似たことがかつて日本でも起きていた。
平安時代末期、時は戦乱の時代を迎えようとしていた。
その当時、戦は力が強いもの、体格の良いもの、筋力に優れるものが勝つ時代だった。
しかし、少なからずその現状に満足しない者たちが現れた。
ある者は剣の腕前を磨くことで絶望的な体格差をくつがえそうとした。
後にその者は剣の道の基礎を築き上げる。
ある者は刀の性能を上げることによって絶望的な体格差をくつがえそうとした。
後にその者は日本刀の製法の基礎を築き上げる。
鎌倉時代が到来するころ、それらは完成の域に達していた。
そして個人戦ではなく集団戦により勝敗が決する戦国時代には廃れはじめる。
江戸時代にはかなりの形骸化が進行するにいたる。
帯刀が禁止され、産業革命をむかえて安価な製鉄技術が確立される明治、それらは完全に失われた。
どんなに現代の最先端の製鉄技術を駆使したとしても、それでも鎌倉時代の名刀の性能には勝てはしない。
我々の持つ現代のテクノロジーが鎌倉時代に追いつくには、あと幾年の歳月を要するのだろうか・・・。
平和であることはすばらしい。
これ以上の良いことはない。
しかし、平和であることに慣れきってしまい、平和を維持するために不可欠な鍛錬や技術の継承まで怠ってはならない。
「聖剣の刀鍛冶」はそれを教えてくれる。
鍛造の刀でなければ勝てない敵が現れたときの無力さを教えてくれる。
鍛造技術が完全に失われていたとしたら、その世界は完全に魔の手に落ちていたに違いないのだ。
現代でもまたそれと同じようなことが起つつある。
NECがスーパーコンピューター事業から撤退した。
もともとスパコンは砲弾の着弾地点の予測計算から始まった技術である。
それが現代では、核融合の量子力学的な計算や、マッハを超える速度で飛行する戦闘機の空力計算などにも用いられている。
それが民事転用され、今日では天気予報に使われたりタンパク質の解析に使われたりしている。
それがどうだろう。
NECがスパコン事業から撤退したことで、数少ない日本のスパコンメーカーが1つ減った。
別に日本でも軍事に結びつくわけではないが、そういったハイエンドの技術が失われるのは日本全体としても大きな痛手であろうと思われる。
わたしはNECともスパコン屋とも利害関係はないが、人ごとながらこれは無念でならない・・・。
失われた技術を取り戻すのは大変難しい。
技術の設計情報は会社に残るが、技術の腕前は人の中にしか残らない。
これは、作りかた(設計情報)だけわかっていても、なぜそうすれば良いものが作れるのかという技術そのものは失われたことに相当する。
人が絶えてしまった日本刀の製造法、現代をもってしても未だに鎌倉時代のテクノロジーにも追いついていないのだから。