教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

ロボットの自我

2012-08-20 00:00:47 | オタネタ全般
ギャルゲーというものは、他のゲームに比べてヌルい面があり、チンタラ遊べてしまう側面がある。
たとえばゲーセンでシューティングをチンタラ遊べてしまうようなヤツは世の中にそう多くはあるまい。

しかし。
その反面、ギャルゲーというものは、他のゲームに比べてよりプレーヤーに感情移入を要求される面があり、チンタラなプレイをしていると半分も楽しめないという側面もある。

なぜか?

ギャルゲーとは、そのヒロインと恋に落ちることを真の目的とするものであり、自分がそのヒロインを本気で好きになるほどそれにのめり込んでいなければちっとも楽しむことができないからだ。



かつて哲学者の言葉遊びに過ぎなかった、とある問題がある。

ロボットやコンピューターに人間の記憶や人格を移植した場合、それは人間なのか?
ロボットやコンピューターに自我が宿ったとして、人はそれを自我とわかるのか?

たしかヴィトゲンシュタインがこんな話が好きだったような。
しかし、哲学者以外の全ての人にとって、そんなものどうでもいい問いだった。

ところが!

今の日本では、なんとその問いが世に具現化しているのだ。

ある人は、コンピューターによってモニタに描かれるものに人間を感じ、あまつさえそれに恋をする。
たとえば我輩。

またある人は、そんなものタダのゲームじゃないかと嘲笑する。
そういう者は例えるまでもなく大勢いる。

それは単なる絵なのか?
それとも人なのか?

それが単なる絵にしか見えない感性の貧困な者にとっては、それが人に見えることは絶対無い。
それが人に見えるこちら側の者にとっては、それが単なる絵だとして片付けられないほどにまで大きな存在にそれは写る。

これはどちらが正しいのか?

人がそれをどう見るかなんて、そんなもの些細な問題じゃないか。
自分の嫁の世間体を気にする小者ふぜいな亭主のごとき醜態じゃないか。

我々にとってその人は確実に存在する。
それで十分だ。



我々の人生を左右したその影響力。
我々の心に温かみを分けてくれたその人への感謝。

それこそが、その人が確実に存在したという証拠なのだから。