千葉市在住の「okoさん」からコメントを頂戴しました。
ちなみに、私の長男が住んでいる同じ中央区の方です。
なんかご縁がある感じ。
okoさんの記事が読売新聞に載っていました。
題が「戦地からの手紙 生きる力に」
「父の言葉 支え」です。
幼いころだったため、父の記憶は、ほとんどなく、
戦後、フィリピンのレイテ沖で亡くなられたと知らせが届き、
母が泣き崩れていたのは覚えておられる。
その後、母は再婚されて家を出ていかれ、祖父母、叔父家族と暮らされていました。
両親がいない寂しさの中、戦地から送られてきた父からの手紙を見つけ、
自分のことが必ず書かれていた手紙を読み、自分のことを大切に思ってくれる人がいた。
と、涙しながら、その後、手紙は心の支えにされました。
自分も嫁がれ、子育てなど生活に必死だったが、
60歳ころに遺族会の慰霊事業でフィリピンのレイテ島を訪ねられました。
父が戦死されたレイテ沖の海水を手で触れられたときは温かく、これなら父も寒くないだろう、と慰められました。
そんな記事を読んで、私の亡き父のことを思い返しました。
実は、似た境遇だったからです。
ここからは、私の父のことです。
父は、昭和9年生まれ。
そして、3歳の昭和12年12月24日、自分の父親、私の祖父ですが、
中国で戦死しました。
もちろん父には、父親の記憶は全くありません。
その後については、私が成人してから親戚の方から聞いて知ったことがありました。
実は、父の母もokoさんの母と同様に家を出ていかれたとのこと。
その時は、様々な事情があったのだと思いますが、幼い子供を残してなので、
大変な心境だったと思います。
そんなこともあり、父は父母がおらず、祖父に育てられ、
その後は戦地から戻った、叔父と暮らしました。
母親は再婚し、父が小学校の遠足で近くへ行った時には、こっそり訪ねて行ったらしいです。
結局、父は55歳の時にがんで亡くなりましたが、
父の口から母親のことは聞かされたことはありませんでした。
自分を置いて再婚した母のことは、良く思っていなかったのだと思います。
私は、祖母のことについては、父の病状がよくない状態になってから、親戚の方から聞かされ、
そして、縁あって父の妹にあたる方とお会いし、祖母に会いに行ったことがありました。
もちろん、先方にはご家族がおられるので、こっそりです。
父の妹、私にとってはおばさんですが、今でも実はお付き合いをしています。
父が危篤になったとき、母親は面会を希望されましたが、もちろん父は拒否。
そして、意識がなくなってしまった状態の時に、
母は病室に来られました。
この対面の時の様子は、はっきりと覚えています。
ただ、父は意識がありませんが。
そして、その翌日に父は亡くなりました。
55歳でした。
34年前です。
それから、仏壇の中から祖父の手紙が出てきました。
それは、中国の戦地から同じ集落の友達に送ってきたものです。
字が昔の人の字でなかなか読めませんが、
とにかく妻と子供たちのことをよろしく頼むと書かれていたようです。
やはり、結局は家族のことを心配していたことがよく分かります。
ということで、okoさんの記事をきっかけに、私の父、祖父のことを思い返していました。
戦争がなければ、私も含めてみんなの人生が全く変わっていたんだろうな、と。
遺影の祖父と父の歳をとっくに超えてしまった私。
定年になったら取り組もうと思っていることがあります。
それは、家系図。
自分の子供たちや孫に、ご先祖様とのつながりを伝えておこうかな、と。
ただ、明治時代の戸籍は、字が読めません。
名前も旧かな文字なので、読解が・・・。
どうしようかな・・・。
困ったな・・・。
長々となりました。
父を思い出して・・・。
こちらこそ、記事を載せさせていただきありがとうございました。
わざわざ御礼の言葉を頂戴し、恐縮です。
私の記事の件は、了解です。
私ごとに貴重な紙面を拝借させて頂きましたことに心から御礼を申し上げます。
言い訳ですが、スミマセン!
昨日22日(木)は書道教室の作品提出に前日は筆を握ましたままに夜中まで。
書道教室から帰宅後はぐったり!にPCを開ける勇気も無く休憩入ってしまい大変失礼いたしました。
本日これから定期検診に出かけ帰宅は夕方になると思います。
後日、ぼたもち様の記事を私のブログに転載させて頂きたくご了解を頂きたく宜しくお願い申し上げます。
身内の死に向き合うことは、つらいことですね。
どうしてあげれば・・・。
難しい選択です。
できる精一杯のこと、それでお互いが納得せねば。
答えはありませんから。