ともちの小さなGLOBE

人生は一期一会のLong and winding road。小さな地球儀をめぐる日々をブログにしました。

大船渡へ…

2011-06-28 22:26:49 | 徒然なるままに
6月23日から26日まで、昔御世話になった大船渡市へ…

大船渡にはボート工場もあり、1995年から1999年頃まで開発していたJETの生産の為、何度と無く訪れた町…Raider GP 今では懐かしい響きがある
工場は2000年頃に閉める事になったけど、多くの仲間も暮らしているし、港でJETに乗ったり、休みを利用して遠野や花巻にも足を伸ばした事もある思い出の地だ
遠野の昔話や銀河鉄道…花巻の温泉に、わんこそば…

そんな思い出の地での大災害…
今回の被災のニュース映像は驚きを通り越していた

ボランティアなどと言うとおこがましいが、自分の勝手で2日間の休みを取り、浜松市社会福祉協議会が企画してくれた災害ボランティアに応募し大船渡に向かった…
今回の参加者は11名 いずれもボランティアには初参加の面々
社会福祉協議会も多くの方にボランティアを経験してもらおうと初参加者を優先している。
11名の内訳は女性4名に男性7名、そこに社会福祉協議会のベテラン職員2名がサポートする
23日朝7時30分に浜松市を出発し水沢で一泊、翌日から大船渡に入り金曜土曜と活動し26日早朝に大船渡を発って21時に浜松に戻る道程…

梅雨空の下、東北道を北上すれば蔵王白石あたりから瓦屋根にビニールシートを掛けた家々が目に付いて来る…
夕刻、被災地の沿岸部から約2時間の距離にある水沢市に入る
災害の爪痕は感じられない街並に入れば、異様なまでに政治屋のポスターが目につく…笑顔を振りまく小沢一郎のポスターが所狭しと貼られた様子はブラックジョーク以外の何ものでも無い

24日の早朝、水沢を発ち陸前高田経由で大船渡に向かった…
陸前高田を経由するのは大船渡に入る前に悲惨な被災地の状況を目に焼き付けて理解して欲しいと言う引率者の配慮からだった。
スマトラ地震の爪痕を、スリランカ、インドを訪れた際に見てきたが、それ以上に僕の感覚では東北沿岸部の破壊規模は想像を絶する凄まじいものがある
スマトラ地震の爪痕は海外の事ゆえ、ここまでの大災害は日本では起きないのだろうという感覚が僕にあったのも事実。 しかし、それ以上の災害がこの地で発生したのは、まぎれも無い現実だ
写真は陸前高田に通じる唯一の橋から撮影したもの。 それ以外の橋は全て破壊されている。津波が河川を通じて内陸部に入り込んだのは解るが、ここは沿岸部から5kmも奥に位置する場所だ…山に向かって撮影したように見えるかもしれないが、レンズは沿岸部に向けている

地盤沈下で海の中にある球場…


大船渡での宿泊拠点は盛町の八幡公民館

地元の方々の温かい好意により浜松のボランティアが宿泊させていただいている。
盛町から1km沿岸部に向かえば災害の爪痕に覆われるのに、この周辺では食堂やスーパーに、コンビニも開店し少しずつ生活感を取戻しつつある。
しかし、常宿にしていた沿岸部の福富旅館は、今はもう無い…

ボランティアの仕事はボランティアセンターが統括して各々に割り振る事により、当日の混乱の無い活動に結びついており、その手馴れた運営に感謝したい。


24日金曜日の活動は男性チームが、立根小学校での支援物資の仕分けと搬出。女性チームは我々と分かれて沿岸部での物資の仕分けを行うことになった。
堆く詰まれた支援物資には世界各国からの真心のこもったメッセージも綴られている。


この支援基地で荷物管理のボランティアを行っている軽井沢で英語教師をしているランディは英語の話せない地元の主婦とも日本語を超えた意思疎通が出来ており、主婦達の笑い声が絶えない。食品貨物の日程管理に先入先出しは欠かす事の出来ない後方支援業務。自衛隊が搬入し、我々が仕分けして搬出して行く作業は続いていった…


今日1日の搬入搬出仕分け作業を終えて…皆さん本当に御苦労様でした。


翌25日金曜日、早朝に近所で朝市が開催されていた。
早朝の朝市に集まる人々に、震災に負けない元気をもらう事が出来た。


25日のボランティア活動は昨日の屋内作業とは打って変わり屋外での、被災したワカメ工場のワカメの廃棄作業に携わる。
男女含め我々11人全員が一丸となっての作業で4トンのワカメを段ボール箱から出して、ビニール袋を破り、廃棄袋に入れる作業。
廃棄袋に入れられたワカメは海洋投棄される。
港からワカメ加工場を見た姿


今回の作業は3ヶ月経ったワカメの廃棄作業であったけれど、匂いは魚ほど強烈でもなく黙々と作業を行い全ての片付けを3時には終了できた。


作業も終わり、一緒に作業したワカメ加工場の方々に被災時の御話を伺った。
地震発生は昼間であったので働きに出ている消防団員が防波堤の水門を閉めるよりも、元消防団であった工場の方々が一生懸命閉めた。その後、津波は地震発生から30分ほどでやってきて、第1波よりも第2波による引き波で多くのものが破壊され工場も骨組みを残すのみで冷凍倉庫も20m以上流されてしまった。
港の入り口には、チリ沖地震の津波被害を教訓とした万里の長城のような湾口防波堤が設けられていたが、これも第2波の引き波で破壊されてしまった…しかし、この防波堤によって津波到達時間を遅らせる事が出来た事は、少なからず人的被害緩和に結び付いたようだ。
残念なのは、津波により、この近所でも7名の方が亡くなり、2階屋の2階に避難した方々が尊い命を失った事。
海岸近くでは玄関に鍵を掛け2階に逃げた一家3人が犠牲にもなっている。高台に逃げるほんの一瞬の決断のずれが悲劇に結びついたのがまぎれも無い事実だ。
津波は夜間も数波に分かれて押し寄せており、正面の碁石海岸にある観光船が流されてきて港に止まった(船側のガラスは粉々に破壊されている)

この大型船も夜間に防波堤の上に乗り上げた。


避難して一番辛かった事は飲み水の確保だった。
水道も止まり冠水により身動きも取れない中、破壊された自動販売機の飲み物を皆で分けて何とか渇きを凌いだそうだ。

現実には地震で破壊された建物は多くなく、津波の引き波で破壊されたケースが殆どだが、引き波の衝撃が少なかったワカメ加工場近くにあった古くからの木造建設様式である気仙造りで建てられた家は津波で2階まで浸水し屋根だけ水面に出ていたが、壊れることなく現在は、改修作業が進められていた。


大船渡工場があった事は地元の方々も良く知っており、当時お世話になった千葉さんもワカメ加工場の方の親戚だと知り嬉しさと懐かしさを感じた。
別れ際に、地元の方々と握手を交わし三陸のワカメの復活を願い、ここを後にした。


漁師さんに話を聞けば、漁船も残ったものは全体の3%程度で、殆どは海中に沈んだりして引き上げられた姿を丘にさらしていた


「年寄は、漁船を買う借金をするのは難しいよ」と言うけれど、「若い人はホタテの種付けやワカメの種付けを行おうとしているよ」との話も聞けた事に一縷の希望を感じたのも事実だ。


自衛隊の方々、全国から派遣された警察官の方々、ボランティアセンターの有志、大船渡市役所の方々、そして全国から集まったボランティアの方々との出会いは心温まるものがあったし、特に自衛隊と警察関係者の活躍には心から頭が下がる思いがする。


今回派遣された場所で出会った地元の方々との会話には破壊し尽くされた中にあっても一縷の希望を感じるものであったし、地元の方々が一生懸命頑張っている事実がひしひしと伝わってくる。
一方、破壊された冷凍倉庫の魚が、片付けられず腐るに任せて3ヶ月も放置され、インドやアフリカの劣悪の漁村で嗅いだ匂いが、美しい港町だった大船渡に漂っているのは、地元ではなく、国の行政の責任によるもの。
政治屋を国会から引き摺り出して腐臭漂う冷凍倉庫前で国政会議を行わせれば、1時間もしないうちに非常事態を宣言する事だろう。
災害状況を的確に理解する為にも、議員、とりわけ国会議員は被災地でハードシップの高いボランティア活動に1日でも従事すべきだ。

福島原発での海水注入での国会混乱と原発で陣頭指揮する吉田所長が海水注入を継続していた事実が、日本の会社組織の真の姿と表現していた報道を思い出した。情熱を持ったリーダーとスタッフが業務の中心を司っていることが日本の底力だとすれば、復興に当る現地の姿は正にそれと瓜二つだ。

被災地では、校庭が避難住宅で使えない中、瓦礫に囲まれたネットポールも曲がった一面のテニスコートで大勢の女子中学生達が逞しくテニスをしている姿があった。
人々は決して災害に負けているわけではない。

災害は人々から、かけがえの無い人や財産を奪い去るけれど、希望と勇気は奪う事が出来ない

そんな言葉を胸に被災地の復興を祈り、思い出の大船渡を後にした。
今度来る時は、美しい大船渡へ家族で来よう。