現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ヤングケアラー(若年介護者)

2020-08-31 08:25:06 | 作品

優香は中学三年生。ジャニーズ事務所のアイドルグループが好きな、ごく普通の女の子だ。

学校の休み時間には、クラスの女の子たちと、ネットや雑誌で仕入れたお気に入りのメンバーの噂話で盛り上がっていた。
しかし、優香には、クラスの他の子たちとは違う点がひとつだけあった。
 それは、クラスメートがどんなに誘っても、放課後は寄り道せずにまっすぐ家に帰ることだ。
学校では禁止されているけれど、他の子たちは、時々はコンビニやファンシーショップやショッピングセンターなどに寄り道している。
でも、優香だけは、それに加わらなかった。
 もちろん、部活は帰宅部だったし、塾にも通っていない。
「まったくユウったら、付き合いが悪いんだから」
 みんなに文句を言われても、
「ごめーん」
といって、先に帰ってしまう。
 しかも、その理由を誰にも話さなかった。
実は、優香は、自宅でおとうさんを介護していたのだ。
優香の帰宅を待って仕事に出るおかあさんと交代しなければならないから、帰宅を急いでいたのだ。

おとうさんは、五年前の四十八歳の時に、若年性認知症を発症していた。

その後、なんとか二年間は会社に勤めていた。
でも、その間に症状が悪化して、とうとう休職を余儀なくされてしまった。
おとうさんが休職中は、母親が自宅で介護していたので、優香には過度な負担はなかった。せいぜいおかあさんの代わりに買い物へ行ったり、ご飯の支度をしたりするぐらいだ。
おとうさんが休職している間は、健康保険組合から傷病手当金というお金が出ていた。
給与の85%ももらえたので、おかあさんが働かないでも、そのまま生活をすることができた。
 しかし、二年間の休職期間が過ぎると、おとうさんは退職しなければならなくなった。
その間に認知症の進行を抑える治療は受けていて、会社には復職の希望は出したのだが、こうした休職者が復帰する際の条件は思いのほか厳しかった。会社には、若年性認知症を発病した社員に対応する体制は、まだ整備されていなかった。
 それでも、会社からは、退職金以外に見舞金まで出た。
しかし、それだけでは生活を賄えなかった。
 それに、優香や弟の俊平の将来の学資に、それらのお金は取っておかなければならない。
 そのため、今は母親が働いて、生活を支えなければならなくなっている。
おかあさんは、昼間は今まで通りにおとうさんの介護をしていたが、夕方から深夜まではコンビニで働いている。それまで専業主婦だったおかあさんには、就職に有利な資格などなかった。
 優香は、学校から急いで帰ると、出勤するおかあさんと入れ替わりにおとうさんの介護をしている。
 夕食の支度、食事の補助、トイレの補助、着替え、入浴の補助、洗濯など、やらなくてはいけないことは山ほどあった。
 おかあさんが帰ってくる深夜になって、大急ぎで自分が入浴してから、ようやく寝ることができる毎日だった。
 とても、勉強をしている暇はなかった。
 弟の俊平も、学童クラブから帰ると手伝ってくれたが、まだ小学三年生なので、簡単なことしかできなかった。夕食の配膳や、優香が手の離せない時に、おとうさんの相手をするくらいだった。
優香は、父親っ子でおとうさんの事が大好きだったので、介護自体は嫌じゃなかった。
優香の悩みは、宿題や受験勉強をする時間がないことだ。
 それに、いつも寝不足なので、学校も遅刻しがちだった。
 経済的な理由もあり、今の優香には将来の進路に、希望がぜんぜん持てなかった。

 二学期になると、進路相談についての三者面談が行われることになった。
 しかし、優香の場合は、おとうさんの介護があるので、おかあさんは三者面談にも出られなかった。
そのこと自体は、大きな問題ではなかった。優香の家庭の状況は、去年の途中から優香が本格的な介護を始める時に、おかあさんから担任に説明してあった。そのため、本来はこの学校にはない帰宅部も、優香の場合は特例として認められていたのだ。
 優香の志望校は、地元の公立高校だった。
その学校に、特別な魅力を感じていたわけではない。現実問題として、授業が終わってから、おかあさんが仕事へ出かける前に帰宅できるのは、その学校しかなかったからだ。
その学校のレベルはそれほど特に高くなく、二年生のころまでの優香の成績だったら十分合格できるはずだった。
二人だけの三者面談が始まった。
 担任の宮本先生は、最近の優香の成績と、それによる志望校の合格確率について、データを使って説明してくれた。
 優香の成績は、介護を始めてから目に見えて下がっていた。二年生の時の内申点は、介護を始める前の貯金もあってそれほど悪くなかった。
 しかし、本格的な介護が始まった三年の一学期の成績は大幅に下がっていた。内心で重視される時だっただけに痛かった。それに、二学期もそれを回復できる見込みは全くなかった。
 合計の内申点が悪いので、宮本先生の分析では、志望校に合格できる確率はかなり低かった。
「あなたの置かれている状況は、本当に気の毒だと思っています。でもね。今の入試制度では、そういったことは一切考慮されないのよ」
 担任の山本先生はそう言って、優香に志望校のランクを落とすように指示した。もともと、経済的な理由で優香の場合は私立高校を受ける選択肢はなかった。そのため、先生がますます公立校の受験には慎重にならざるを得ないのも、その理由だった。
 ショックだった。
 その学校が嫌なのではない。そもそも、そういったえり好みをしている状況ではないのは、優香も十分承知していた。
 それよりも問題なのは、その学校だと、自転車を使っても通学に三十分以上かかってしまうことだ。これでは、おかあさんが仕事に出るのに間に合わない。徘徊する可能性のあるおとうさんを、その間、家に一人っきりにしなければならなくなる。 

「それじゃ、おとうさんをお願いね」
 すでに身支度を済ませていたおかあさんは、大急ぎで帰宅した優香にそう言うと、入れ替わりにあわただしく仕事に出かけていった。
 三者面談での志望校変更について、おかあさんと相談する余裕はまったくなかった。
 おかあさんが帰ってくるのは、12時過ぎだ。いつも疲れ切って帰ってくるおかあさんには、その時もとても言えやしない。ましてや、学校からの帰宅が大幅に遅れることになるのは、おかあさんの仕事にも大きな影響が出るだろう。優香だけでなく、おかあさんにもショックに違いない。
 優香は、着替えもせずに、最近はあまり使わなくなった勉強机の椅子に、ぼんやりと腰を下ろしていた。
 本当だったら、いつも早い時間に食事をしたがるおとうさんのために、すぐに着替えて、夕ご飯の支度にかからなければならなかった。
 でも、今日だけはそのエネルギーがわいてこなかった。
 こんな時、(電話かLINEで、愚痴を聞いてくれる友だちがいたらなあ)と、優香はつい思ってしまった。
 介護をするようになってからいつも一緒に遊べなくなったので、いつのまにか親しい友達がいなくなっていた。
「………」
おとうさんが、大声で何か叫んでいるのが聞こえてきた。
「はーい。今、行きます」
 優香は努めて明るい声を出して、おとうさんの部屋に向った。

      

 

 

 

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病院

2020-08-29 13:31:38 | 作品

 学校の帰りに、おかあさんのお見舞いに病院へ行った。

おかあさんは、先月から内臓の病気で入院している。仕事と家事におわれて、働きすぎたったのが原因のようだった。ぼくの家にはおとうさんがいなかったから、おかあさんが一人でがんばりすぎたのかもしれない。
入院するときにおかあさんと一緒に行ったけれど、一人で病院へ行くのは初めてだった。
 病院は、通学路から外れて大通りを越えたところにある。歩いていくと、学校からもぼくの家からも十分ちょっとかかる。
 病院の建物は、古い木造だった。廊下も階段も、歩くたびにギシギシなった。階段の真ん中あたりは、すりへってへこんでいる。
 二階の一番奥が、おかあさんの病室だった。入り口には、その部屋に入院している人たちの名前がはってある。
 石川雅美。それがおかあさんの名前だ。
部屋には、ベッドが四つあった。おかあさんのベッドは、窓際の左側だった。
病室の中はシーンと静まり返っていた。病人たちはみんな眠っているようだった。
 ぼくは、まわりの人に迷惑がかからないように、忍び足で近づいていった。
 おかあさんは、じっと目をつむって眠っていた。顔色が真っ黄色で、何だかしなびてしまったように見える。ぼくは、おかあさんの髪の毛にずいぶん白髪がまじっていることに、初めて気がついた。
(どうしようか?)
と、ぼくは困ってしまった。
 せっかく良く寝ているのに、おかあさんを起こしてしまうのは悪いと思う。
 でも、そばで目を覚ますのを待つのも、なんだか恐ろしいような気がした。
迷った末に、ぼくは一階の待合室で、おかあさんが目を覚ますのを待つことにした。家から持ってきた着替えの包みを、ベッドに作り付けになっているテーブルの上に置いて、また忍び足で病室を出ていった。 

 待合室には、いろいろな人たちがいた。
 頭に包帯をグルグルまきにしたおじさん。移動式の点滴を付けたままのおばさん。
 この病院は全館禁煙なので、タバコを吸っている人はいない。タバコを吸うには、建物の外まで出なければならなかった。おかげで、ぼくの嫌いなタバコの煙に悩まされることはなかった。
 みんなは、ぼんやりとテレビを眺めていた。テレビでは、時代劇の再放送をやっている。古いテレビのせいか、画面の色がにじんでいる。画面も上下が黒くなってその分小さくなっていた。
 ぼくは、ソファーの端に腰を下ろした。時代劇には興味がないので、ランドセルからコミックスを出して読み始めることにした。
 ウーーン、ウーーン。
 突然、どこからかうめき声が聞こえてきた。ぼくは、コミックスから顔を上げた。どうやら近くの病室からのようだ。
「かわいそうにねえ。まだ若いのに」
 点滴のおばさんがいった。
「頭に水がたまって苦しいんだってよ」
 包帯のおじさんが答える。
 ぼくは体を縮めるようにして、またコミックスを読み始めた。
「ねえ、ぼく何年生?」
 点滴のおばさんが話しかけてきた。
「三年です」
「そうかい。誰か入院してるの?」
「おかあさんが」
「そうかい、そうかい。大変だねえ」
 おばさんは、一人でうなずいていた。

 ピーポ、ピーポ。……。
 救急車のサイレンが鳴り響いてきた。
「急患でーす」
お医者さんや看護士さんたちが、あわただしく走りまわっている。
「交通事故です!」
 誰かが叫んだ。
「ストレッチャー!」
 ガチャーン。
 非常ドアが力いっぱい開けられて、救急隊員たちが入ってくる。移動式のベッドのような物の上には、患者さんが乗っているようだが、ぼくは怖くてそちらが見られなかった。
「ICU(緊急治療室)へ!」
 看護士さんが叫んでいる。みんなはすごい勢いで、ぼくのそばを駆け抜けていった。
「ぶっそうだねえ」
 包帯のおじさんがいった。
「おお、やだやだ」
 点滴のおばさんは、肩をすくめている。
 ぼくはそんな騒ぎの中で、みんなから隠れるように首を縮めて、じっとコミックスを見つめていた。
 でも、なかなかキャラクターもストーリーも頭に入ってこなかった。

「たけちゃん、やっぱり来てたのね」
 顔を上げると、おかあさんが立っていた。ピンクのガウンをはおって、水色のスリッパをはいている。
 かあさんの顔色は、やっぱり黄色っぽかった。
 でも、いつものやさしい笑顔を浮かべていた。
「うん」
 ぼくもけんめいに笑顔を見せようとしたが、うまくいかなかった。
「どうしたの? 何か怖いことでもあったの?」
 おかあさんが心配そうにたずねた。ぼくの顔が、こわばっていたからかもしれない 
「ううん」
 ぼくは、首を横に振った。さっきまでの恐ろしかった事は、おかあさんには言いたくなかった。
「もう、一人では来なくてもいいよ。世田谷のおばさんが来られる時に、一緒に来ればいいんだから」
「うん、わかった」
 ぼくはコクリとうなずくと、一番聞きたかったことをおかあさんにたずねた。
「おかあさん、おかあさんは絶対に死なないよね」
「うんうん、たけちゃんを残して死んだりしないよ」
 おかあさんは、笑いながら答えてくれた。ぼくは、そんなおかあさんの顔をじっと見つめた。

      

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登校拒否

2020-08-27 13:37:32 | 作品

 目が覚めてもあたりは真っ暗だった。雨戸を閉めた窓には厚手の遮光カーテンをぴったりと閉ざしてあるので、外部からの光は一筋も差し込んでいない。

 今が何時なのかわからない。枕元に置いた携帯を見ると、もう八時を過ぎている。本当ならば、もう学校に行かなければならない時刻だ。
 でも、浩紀はもう二カ月以上も学校へ行っていなかった。
 今年の四月に、浩紀は中学に入学した。当初は、浩紀もそれなりに中学での新しい生活に期待していた。新しい友だちも作りたいし、部活にも入りたかった。
 ところが、その期待はあっさりと裏切られてしまった。授業の内容は、小学校の時と同様によくわからなかった。部活も少子化の影響で数が少なく、入りたかった野球部は三月いっぱいで廃部になっていた。
 そうこうしているうちに、浩紀はだんだん学校へ通えなくなってしまったのだ。
 理由は浩紀にもよくわからない。もしかすると、クラスを牛耳っていた他の中学から来た子たちになじめなかったからかもしれない。
学校へ行かれなかったのは、初めは月曜日だけだった。毎週、日曜日の午後から調子が悪くなる。それがだんだんひどくなり、月曜日の朝は起きられない。そのため、学校を休むことになってしまった。
初めのころは、月曜日の午後になると元気になっていた。だから、火曜日からは、なんとか学校に通えたのだ。
ところが、調子の悪いのが、火曜日、水曜日とだんだん長くなっていった。そして、七月ごろには、ほとんど学校に通えなくなってしまっていた。
夏休みをはさんで、二学期になってからは一日も学校へ行っていない。
 トントン。
 ドアが軽くノックされた。
「おはよう。ヒロちゃん、ごはんができているわよ」
 ドアが開いて、明るい光とともにおかあさんが顔をのぞかせた。
「はーい。今行く」
 浩紀は、ベッドから体を起こした。
 最近は、朝、昼、晩ときちんと食堂で食事をしている。
 学校へ行かなくなったころは、昼過ぎまで寝ていたが、このころはだんだん規則正しい暮らしになっている。夜は十二時前には寝ているし、朝は八時ごろには起きていた。
 初めは自分の部屋にこもりっきりだったが、今では家の中ならどこでもいけた。さすがに外に出ることはなかったが。
浩紀がまったく学校へ行かなくなったころ、時々学校の先生たちが家にやってきた。主には、担任の青木先生と副校長先生だった。
そのころは、浩紀の両親は、なんとかして浩紀を学校に通わせようとしていたので、どうしたらいいか相談するためだった。
「浩紀くんも一緒に話をしよう」
 青木先生は浩紀の部屋の外まで来て声をかけてくれたが、浩紀は部屋にこもったまま先生たちには会わなかった。
 浩紀の両親は、こちらからも学校や教育委員会に出かけていって、相談していたみたいだ。青木先生も一緒に相談にのってくれていたらしい。

 ある日、夕食の時に、おかあさんがいった。
「ヒロちゃん、明日、病院に行ってみない?」
「なんで?」
 浩紀は、ハンバーグをほおばりながら聞いた。ずっと家にこもりっきりで運動不足なのに、食欲は旺盛だった。おかげでだいぶ肥ってしまった。
「ヒロちゃんみたいに、学校へ行かれない子に詳しい先生がいるのよ」
 どうやら、相談の結果、本人を連れて専門家のいる病院へ行くことになったのだろう。
「ふーん。別にいいけど」
 浩紀だって、できたら学校に行きたかった。だから、病院でそういうのが治るのなら、行ってみても良かった。
病院へは、おかあさんと一緒に駅からバスに乗っていった。
その病院は、大学の付属病院だった。明るく広々としていていい感じだった。
総合受付でおかあさんが手続きをしてから、「心療内科」と看板の出ている部屋の前に行った。
「お願いします」
 おかあさんが、そこの受付にいた女の人に診察券を出した。
「5番のドアに入って、中の待合室でお待ちください」
 浩紀がおかあさんといっしょに中に入っていくと、そこにはソファーが置かれていて、先客が五、六人座っていた。
「市川さん」
 しばらくして、診察室の中から名前を呼ばれた。
 おかあさんと一緒に中に入ると、眼鏡をかけた中年の白衣を着た男の人が、パソコンに向かって座っていた。
医師は、浩紀とおかあさんにいろいろと質問した。そのうえで
「良く眠れているようですし、食欲もある。薬は必要ないでしょう」
「はあ」
おかあさんは少しがっかりしたみたいだ。もしかすると、何かすごく効き目のある薬を出してもらって、浩紀がまた学校に行かれることを期待していたのかもしれない。
「おかあさんも、まわりの方々も、無理に学校へ行かせずに、しばらく浩紀くんをほうっておいてください。その方が自分で立ち直れるようになりますから」
と、医師はアドバイスした。
浩紀の家では、おとうさんだけでなく、おかあさんもフルタイムで働いている。小学校の低学年の時は、学校が終わると学童クラブへ行って、放課後の時間を過ごしていた。
浩紀が登校拒否になってからは、おかあさんは仕事を休まなければならないことが増えていた。
おかあさんによると、そのことで、どうやら会社での立場が悪くなっているみたいだ。
「おねえちゃんの時はこんな問題はなかったのに」
と、おかあさんが愚痴をこぼしていた。
 高校生のおねえちゃんにも、
「いいなあ、浩紀は。毎日お休みで」
と、時々嫌味をいわれていた。

 薬はもらえなかったけれど、お医者さんから正式に学校を休むことのお墨付きをもらったことは、浩紀にはプラスに働いた。
 家族が愚痴や嫌味を言うことはなくなったし、浩紀自身も気持ちが落ち着いた。
「学校へ行かせなければ」とか、「学校へ行かなくっちゃ」とかいうプレッシャーがなくなったせいかもしれない。
学校に行かなくなったころは、みんながいない時には、浩紀は居間でぼんやりテレビを見ているだけだった。
でも、最近は、本を読んだり、勉強したりもしている。
(学校の勉強がますます遅れてしまうんじゃないか)
と、かなり気になってきたのだ。
青木先生が、定期的に学校のお知らせや勉強のプリントなどを届けてくれていたので、勉強の進捗状況は分かった。前から、学校の授業に合わせた通信教育に入っていたので、それを使って自分勉強できた。学校に行っていたころは、それらの教材をほとんどさわりもしなかったので、なんだか不思議な気分だ。
「元気にしてる?」
「今日の給食はカレーだったよ」
などと、クラスメートからもこちらの様子を尋ねたり、学校の様子を知らせたりするようなメールがくるようになった。
 今までは、腫れ物に触るようにそっとしていて、たまに「早く学校に来られるようになるといいね」って感じのメールが来るだけだった。
どうやら、青木先生がおかあさんからお医者さんが言ったことを聞いて、みんなに知らせてくれたみたいだった。

 目を覚ました。今日も真っ暗だ。枕元の携帯を見ると、まだ、七時前だ。
「よし、今日だ」
浩紀は、思い切って久しぶりに登校してみることにした。
「おかあさーん。朝ごはん、早くして」
 ドアを開けて大声で叫んだ。
「どうしたの?」
 おかあさんが台所から飛んできた。
「学校へ行こうと思うんだ」
と、浩紀がいうと、
「ええー!」
 おかあさんは驚いていた。
 浩紀は、家を出るとどんどん学校に向かって歩いて行った。
「おはよう」
 校門の所で女の子に声をかけられた。
「お、おはよう」
 浩紀も小さな声であいさつした。女の子は、浩紀に向かってニコッとほほえんだ。たしか同じクラスの柳下愛美さんだ。前にメールも送ってくれたことがあった。
 浩紀は、下駄箱から上履きを出してはきかえた。三ヶ月ぶりなのに、ちゃんと上履きがあったのがなんだか嬉しかった。
 廊下を自分のクラス、一年二組にむかって歩き出した。
クラスが近づくにつれて、ドキドキしてくる。
教室が見えた時、浩紀はクルリとまわれ右をしてしまった。
浩紀は、そのまま保健室にいった。
ドアを軽くノックすると、
「どうぞ」
 中から声がした。たしか養護の花岡先生だ。
 花岡先生は、こういう生徒には慣れているのか、浩紀の面倒をよく見てくれた。
 浩紀はしばらくベッドで休んだ後は、花岡先生とおしゃべりして時間をすごした。
担任の青木先生も、保健室に様子を見に来てくれた。
「元気?」
休み時間には、クラスメートたちも、保健室をのぞきに来た。その中には、柳下愛美もいた。
お昼には、当番の子が保健室に給食を運んでくれた。浩紀は、久しぶりに給食を食べた。食欲も上々で残さずに食べられた。
 浩紀が保健室登校をするようになってから、二週間がたった。
 浩紀はだんだん元気になって来ていた。
ある日、ようやく自分の教室に戻ることができた。
パチパチパチ……。
クラスメートたちが、拍手で浩紀を迎えてくれた。

      

 

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双頭山攻防戦始末記

2020-08-26 09:50:40 | 作品

 若葉小学校の校庭を東西からはさむように、二つの小山があった。もともとは山というよりは名もない小さな丘にすぎなかったが、最近になってポコッと名前がついた。
 校庭の西側の丘は白頭山。東側は赤頭山という。二つまとめて双頭山と呼ばれている。
 白頭山は、校庭から自然観察林をへだてた向こう側にあった。名前の由来は、どういうわけか、頂上付近にシラカンバが数本生えていて白っぽく見えるところからきている。
自然観察林というのは、自然の草花を観察したり、原木に菌をうえてシイタケを育てたりする場所だ。校庭からは、丸太で作った階段が、谷へ向かって降りていっている。観察林のひろがる谷からその向こう側の白頭山へは、一面熊笹でおおわれた急な斜面を登っていかなければならない。
 白頭山の頂上へは、三方から道が続いている。ひとつは、バスの折り返し場の奥にある石段への道。それは頂上を抜けて、反対側の八潮公園の裏側へとつながっている。もうひとつは、頂上からやや下がった所から右へと折れる小道で、これは谷津公園に降りていく道だった。
 対する赤頭山は、秋になると紅葉する木が多いことから名付けられた。
赤頭山は東から北側をへて西まで、三方をグルリと小道に取り囲まれていた。小道は、片栗公園と小栗公園、それに若葉地区の中心にあるショッピングセンターを結んでいる。残りの南側は、小さな池をはさんでバス道路に面していた。
 いずれの山も、新興住宅地の若葉地区が開発されたときに取り残されて、自然のままの姿で残っている。なんでも噂によると、これらの山の持ち主はすごいケチで有名なのだそうだ。最後までしつこく値段をつり上げたので、とうとう開発業者が買い上げるのをあきらめて、そのまわりをぐるりと取り囲むように開発したのだという。
 でも、そのおかげで若葉小学校は、自然に囲まれたすばらしい環境の中に建っていた。

 そもそもの発端は、カッチンこと、野村和也にあった。カッチンは若葉小学校の6年2組の児童で、今の男の子には珍しく本の虫なので図書委員をやっている。なにしろ、学校の往き帰りも本を持って歩いているので、ランドセルを背負ったその姿は校庭の片隅にある「二宮金次郎」の生き写しと言われているほどだ。
歴史小説好きで三国志マニアであるカッチンは、自分のことを蜀の軍師、諸葛亮孔明の生まれ変わりとかたく信じていた。そこで、「千年に一度の大才」と自称している。
 ある日、カッチンは、白い布に「白頭山」と大書した旗を作った。この軍師は、小さいことから字の上手なおじいちゃんから習ったおかげで、習字も得意なのだ。
 それをもって自然観察林の裏山へ行くと、頂上にある松にスルスルと上った。この軍師は、習字が得意なだけでなく、木登りも得意だった。
 カッチンは、「白頭山」の旗を松のてっぺんに結わえ付けた。そして、ここにこの山が「6年2組王国」の領地であることをおごそかに宣言したのだ。
 白は2組のチームカラーで、運動会では全学年の2組が白組となっていた。ちなみに若葉小学校は小さな学校なので、各学年とも2クラスしかなかった。
 この知らせは、心ある6年2組の男子たちをおおいに喜ばせた。カッチンのもとには、続々と王国への参加者が集まってきたのだ。彼らはカッチンのようには本は読まないが、全員ゲーム好きだったので、「三国志」は歴史シミュレーションゲームでお馴染みだったのだ。
いや、参加したがったのは6年2組の児童だけではない、他の学年の2組からも、王国の国民になりたいとの希望が次々によせられてきた。
 カッチンは、すぐに王国の名前を「2組王国」に改め、他の学年の子たちも受け入れた。一週間もたたないうちに、「2組王国」の国民は50名を越えた。

 そんな「2組王国」の誕生を面白く思わない勢力があった。
もちろん、1組の男子たちだ。
やっぱり男の子たちにとっては、こういった「王国ごっこ」はえもいわれぬ魅力があるらしい。彼らは、「2組王国」の出現に対して、ずいぶん悔しい思いをしていたようだ。
しかし、1組にも、カッチンたちに負けないようなガッツを持った連中がいたのだ。
「オオッ!」
 次の月曜日に、登校してきた2組の男の子たちは、反対側の東の小山を見て驚いた。「白頭山」よりも大きな赤旗が、てっぺんにひるがえっていたからである。旗には、「赤頭山」と黒々と書かれている。もちろん、赤は1組のチームカラーだ。
 1組の有志たちは、この山が「1組王国」の領土であると、おごそかに宣誓した。
 こうして、双頭山攻防戦は、火ぶたをきっておろそうとしていたのだ。
しかし、残念ながら、両方の「王国」ともに、国民には一人の女子もいなかった。どうやらこういったことを喜ぶのは、男の子のだけのようだ。
 女の子たちは、
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
「まるで、子どもね」
と、この「王国ごっこ」を軽蔑していた。
 こうして、双頭山攻防戦は、男の子たちの間だけで行われることになった。

OK4.攻防戦
 カッチンは、学級委員のムラマサこと村山勝(まさる)に、2組王国の領主になることを依頼した。
王国ごっこにすでに夢中になっていたムラマサは、もちろん快諾した。
 カッチンは、すぐにムラマサに頼んで、自分を念願の軍師に任命してもらった。
 さらにムラマサに、2組の男子の参加者全員に、征東将軍だの征北将軍だのの位をさずけさせた。
 また、カッチンは、自ら使者になって1組へ向かうと、彼らと戦闘のルールについて話し合った。
 戦闘は、撃ち合いと斬り合いと組みうちとにわかれる。
 撃ち合いは、もちろんエアガンだ。目に当たるとあぶないので、両軍の狙撃隊は必ずサバイバルゲーム用のゴーグルをつけることになった。また、ゴーグルをつけていないその他の軍勢には射撃をしてはいけない。弾があたった者は、いったん自分の陣地までもどらなければならない。こうして、校庭や自然観察林には、無数のビービー弾がばらまかれることになった。
 剣を使った切り合いは抜刀隊の役目だ。斬り合いに使う剣は、自然観察林の枝打ちの時に切り落とされて、体育館裏に山積みになっていた細い枝で作ることになった。これも顔や頭はあぶないので、胴体や手足しか斬ってはいけない。斬られた者は、撃たれた時と同様に、いったん陣地に戻って復活しなければならない。
 組み打ちをやるのは白兵戦チームだ。組み打ちでは、パンチやキック、頭突きなどの打撃技は禁止された。相手を倒しておさえこんだ方が勝ちとなる。もちろん、これも負けた者はいったん味方の陣地に戻って復活しなければならない。
 攻防戦の勝敗は、相手の旗を先に奪うことによって決まる。木に登ろうとする者を、地面から引きずりおろすのはありとされた。だから、旗のついている木に取り付いて登り出すまでが実際の勝負だ。中には木登りの苦手な子もいたので、実際には木登りができるメンバーだけが、木登り隊としてこの最後の攻防に参加できる。
 でも、防御側は木に登ってはいけないことになっていた。さすがに、両者が途中でもみあって木から落下したら、けが人が出てしまう。だから、下から手が届かないところまで登ってしまえば、事実上旗は奪うことができる。手の届かないところまで登るスピードが勝負なので、木登り隊には両軍とも特に身の軽い子たちが選ばれていた。
 さっそく、その日の放課後から攻防戦が始まった。
 一年生から六年生まで、それぞれ五十名以上もの軍勢が参加しての戦闘は、なかなか壮観だった。
 両方の陣地の間のあちこちで、撃ち合いや斬り合いや組みうちが行われた。

  

 

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夏、小倉橋で

2020-08-20 18:12:55 | 作品

「よっちゃん、いくぞ」

 隣のレーンから、兄の正貴が声をかけてきた。芳樹は、緊張しながらコクンとうなずいてみせた。高い所が苦手なので、スライダープールは滑り出すまでの方が怖い。 
 ピッ。
 監視員のホイッスルを合図にして、二人は同時にスタートした。
 いったん滑り出してしまえば、もう平気だ。スピードを上げるために、両腕で懸命に手すりをこいでいく。
 中間にある段に着くまでは、だいたい二人は一緒だった。
 でも、そこからは、芳樹の方がスルスルとリードをひろげていく。
 バシャーン!
 下のプールで大きな水しぶきをあげたときには、1メートルぐらい差をつけていた。
「やりーっ!」
 芳樹がプールの中でガッツポーズをしていると、
「はい、そこの子。早く水から上がって!」
 監視員のおねえさんに、叱られてしまった。芳樹は、しぶしぶ水の中を端まで歩いていってプールから上がった。
「ちぇっ、よっちゃん、フライングしただろう」
 プールサイドに上がってから、正貴はそんな負け惜しみを言っている。
「してないよ。そんなら、もう一回やってやろうか」
 芳樹もプールサイドに上ると、すぐに言い返した。
「いいよ、もう。だって、あんなに並んでるんだぜ」
 正貴が、階段の方を指差した。確かにスライダープールには、いつのまにか階段の下まで行列ができている。それに、ノロノロとしか、前へ進まないようだ。
「けつがこすれて熱くなったから、冷やしてくるよ。おまえは、チビでヤセッポチだから、いいよなあ」
 そんな捨てゼリフを残して、正貴は走っていってしまった。五十メートルプールの方だ。芳樹も、ピョンピョン跳ねながら、その後を追っていった。プールサイドは、もう焼けつくように熱くなっている。足の裏がやけどしそうだ。いつもの年より一週間も早く梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきていた。
「アチチチーッ」
 五十メートルプールに、あわてて足から飛び込んだ。
「ほら、ぼく。飛び込みは禁止だよ」
 今度は、監視員のおにいさんに、怒られてしまった。
 芳樹はそれを無視して、構わずにどんどん泳いでいった。
 五十メートルプールの方も、すごく混み合っていた。まるで、学校の水泳の授業の時みたいだ。
(あっ!)
 スイミングで習ったクロールで泳いでいたら、すぐに人にぶつかっちゃった。これじゃ、五メートルと、まっすぐに泳げやしない。
 みんなを避けるようにして、ゴーグルをつけて水の中にもぐった。
 朝のうちは、陽の光がキラキラと差し込んでいて、水はとてもきれいだった。
 でも、人が増えてきたので、もう水の中は濁り始めている。
 それでも、水面を見上げると、太陽の光りがさざめいていて、なんだか別の世界に入ったみたいだ。
 芳樹は、立っているみんなの足をぬうようにして、あちこちと泳ぎ回った。
 プハーッ。
 息が苦しくなって、ようやく水面に顔を出した。あたりをキョロキョロしていると、プールの真ん中あたりに正貴が見えた。芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスのメンバーたちと、ビーチボールで遊んでいる。芳樹はクロールで泳ぎながら、正貴たちの方へ向かった。
「よお、よっちゃん」
 声をかけてくれたのは、四年生のトールちゃんだ。
「よっす」
 芳樹は、その場でジャンプしながら答えた。
 プールの真ん中の深さは、一メートルニ十センチ。つま先で背伸びをしたり、小さくジャンプしたりしていないと、芳樹の口や鼻は水の上に出ない。
「背の立たない人は、端の方で泳いでくださーい!」
 監視員のおねえさんが、メガホンで怒鳴っている。きっと芳樹のことだ
 でも、芳樹はその警告も無視して、そのまま正貴たちのそばにいた。

休憩時間になると、建物の横にある自動販売機コーナーは、急にごったがえしてくる。列が長くなって建物の影からはみ出すと、足の裏が熱くて立っていられない。
 芳樹は、正貴と交代で、床がぬれている所まで行って足を冷やしてきた。そこでは、プールサイドを冷やすために、ホースの水がチロチロと出しっぱなしになっている。
「よっちゃん、氷なしのボタン、忘れるなよ」
 メロンソーダのボタンを押そうとした時、後ろから正貴が言ってくれた。氷を入れると、その分ソーダやコーラが出る量が少なくなってしまう気がする。
「よっちゃーん!」
 後ろから、誰かが呼んでいる。聞き覚えのある声だ。
 でも、すぐには振り向けなかった。メロンソーダをこぼさないように、しかも足が熱いから素早くなんて、難しい歩き方をしていたからだ。
 ようやくビーチパラソルの下に飛び込むと、続いて女の子が駆け込んできた。同じ三年ニ組の裕香だった。トレードマークのポニーテールを、ピンクのスイミングキャップに押し込んでいたから、すぐには分からなかった。ヒラヒラ飾りのついた赤いチェックの水着が大人っぽくって、芳樹はドギマギしてしまった。
「来てたんだあ」
 芳樹は、まぶしそうに目を細めながら言った。
「うん、おとうさんと」
 裕香が指差す方を見ると、でっぷり太った男の人が日かげのベンチで雑誌を読んでいた。

 芳樹が裕香にまた話しかけようとした時、急に後ろから声がした。
「あっ、裕香ちゃんだーっ」
 振り向くと、高橋くんやしゅうちゃんたち、同じクラスの男の子が四、五人いた。
「ちょっと、ちょっと、裕香ちゃん」
 高橋くんは、いつものようにニコニコしながら近づいてきた。
「なあに?」
 裕香は、高橋くんの方を向いた。
「うん、しゅうちゃんがね、 ……」
 高橋くんは、ニコニコしたまま話し続けている。
裕香は、そのまま高橋くんたちに囲まれるようにして、話しながら向こうへ連れて行かれてしまった。
高橋くんは、芳樹の事なんかまったく無視しているようだった。
芳樹は、ぼうぜんとしてみんなを見送った。
「なに、ぼんやりしてんだ」
 正貴が、コーラを飲みながらやってきた。
「ううん、なんでもない」
 裕香の後ろ姿をもう一度見送りながら、芳樹はメロンソーダを一気に飲み干した。

 休憩時間のプールサイドは、こんなにいたかと思うほどの人たちであふれていた。
ビーチパラソルの下や日陰にレジャーシートを広げて、早くもお弁当をぱくついている家族連れ。大人たちは、泳ごうともせずに一日のんびりするつもりらしい。
 ビーチデッキにズラリと並んで、日光浴をしている男子高校生たち。横目で、水着姿の女子高校生たちを品定めしているらしい。
 それに、あちこち駆け回っている圧倒的多数の子どもたち。
 プールにきていたのは、芳樹のクラスの子たちだけではない。他の学年や別の小学校の子たち。それに、中学生たちもたくさんきていた。ここに来れば、誰かしら知っている子に会える。
 そう、やまびこプールは、小中学生のちょっとした夏の社交場になっていたのだ。
 なにしろ、大人は三百円だけど、小中学生は百五十円で一日遊べる。しかも、今日のような日曜日には、学校のそばから無料の送迎バスまでが出ていた。こんな素敵な場所なんて、他には絶対にない。
 芳樹たちは、プールのはずれに敷いておいたビーチタオルの所まで戻った。
 そこからは、鉄柵越しに外が見える。すぐ下には、相模川がゆったりと流れている。まわりは緑の木々におおわれなかなかいい眺めだ。
 芳樹たちは、ビーチタオルの上に横たわって、休憩時間をのんびりと過ごしていた。眼の上には、真夏の青空が広がっている。所々、むくむくとした白い雲がわき起こっていた。
 休憩時間の終わりが近づいてきた。芳樹と正貴はビーチタオルから起き上がると、プールサイドへ歩いていった。
開始時間を待ち切れずに、いつのまにか子どもたちはプールのそばまで集まってきている。もちろん、芳樹も正貴と一緒に並んでいた。
 でも、監視員のホイッスルが鳴るまでは、水の中には入れない。
「白い部分には、まだ乗らないでくださーい!」
 監視員のおにいさんが、大声で怒鳴った。みんなは、少しだけ足を引いた。なんだか監視員にわざとじらされているような気分だ。
 プールサイドを、グルリと取り囲んで白く塗られた排水口がある。そこのギリギリに、みんなは足を並べている。
 ピーッ。
「ワーッ!」
 歓声をあげながら、みんなは派手にしぶきをあげながらプールになだれ込んでいった。
「急げ!」
 正貴が、芳樹に声をかけながらプールの中ほどに泳いでいく。
「待ってよお」
 芳樹もあわてて追いかけていった。

 プールが終わる四時半を過ぎると、更衣室は大混雑になっていた。
出口の所で、芳樹はようやく正貴に追い付く事ができた。自動販売機で、コーラを買っている。コインロッカーから戻ってきた百円での、最後のお楽しみだった。
 正貴の顔や腕は、今日一日ですっかり日に焼けていた。芳樹の腕だって、負けずに同じように黒くなっている。コインロッカーのキーのゴムバンドの所だけが、白いままだ。
(あれ?)
 芳樹は、それを見てハッとした。コインロッカーの百円玉を、取り忘れていたのだ。
(106、106、……)
 あわてて、更衣室に駆け戻った。
 でも、百円玉は返却口にはなかった。
 まわりに落ちてないかと、床やスノコの下まで捜してみた。
 でも、やっぱり見あたらない。
(誰か、拾ってくれたのかなあ)
 芳樹は、あわてて受付へ駆けていった。
「すみませーん」
「なあに?」
 親切そうなおばさんだったので、少しホッとした。
「ロッカーの鍵のとこに、百円玉を忘れちゃったんですけど」
「えーっと、……、届いてないわねえ」
 落し物入れをチェックしてくれたおばさんは、なんだかすまなそうな顔をして言った。
 またロッカーに引き返そうとした時、壁の時計が目に入ってきた。
 四時四十八分。最終のバスは五十分に出てしまう。残念だけど、百円はあきらめなければならなくなった。
 芳樹は急いでビーチサンダルをはいて、バスに向かって駆け出していった。
「おーい、おそいぞお」
 バスの後ろの方から、正貴が手を振っていた。
「百円、なくしちゃったあ」
 一番後ろの席に腰を下ろしてから、芳樹がポツリと言うと、
「どうしんだよ?」
 正貴が、ひとつ前の席から振り返った。
「コインロッカーのやつ、取り忘れちゃったんだ」
「なんだあ。それじゃ、きっと誰かにネコババされちゃったんだよ」
 正貴は、コーラをチビチビ飲みながらそう言った。いつもわざと少しずつ飲んで、先に飲み終わってしまう芳樹に見せびらかすんだ。
「そんなあ、ぼくのお金なんだよ」
 そう言いながら、ひと口でもいいから飲ませてくれないかと、正貴のコーラをじーっと見ていた。
「まったく、どじだなあ」
 正貴はうまそうな顔をして、とうとうコーラを飲み干してしまった。
(あーあ、ひと口ぐらい飲ませてくれたっていいのに)
 そう思ったら、こらえていた涙がポロリとこぼれてきた。
「すみませーん!」
 その時、運転手さんにペコリと頭を下げながら、裕香がバスに乗り込んできた。
「あった、あった! やっぱり洗面所だった」
 右手のミニーのハンカチを、隣の女の子に見せている。
 裕香に涙を見られないようにと、芳樹はあわてて窓の方を向いた。

 バスが走り出してすぐに、前方に小倉橋が見えてきた。コンクリートの古い橋で、下を流れる相模川からは、三十メートル以上の高さの所にかかっている。
 去年の夏休み、河原で行われた花火大会に、おとうさんに連れてきてもらったことがあった。夜になると、四つ連なったアーチ型の橋脚が、ライトに照らし出されてとてもきれいだった。
 今日はその河原で、大勢の人たちがバーベキューでもやっているようだ。車やテントがまるでLEGOでできているかのように小さく並び、その周りにはたくさんの人たちが群がっている
 でも、誰一人として水の中には入っていない。
 向こう岸には、「遊泳禁止」と書いた大きな看板が見える。すぐそばにダムの放出口があるので、ここでは泳げないのだ。
 バスは左に大きくカーブして、橋の上に差し掛かった。
 橋の横幅はすごく狭い。ミラーをこすりそうにして、車二台がぎりぎりにすれ違えるぐらいだ。バスなんか一台でいっぱいだ。
 もちろん歩道なんかないから、歩行者も車道を歩かなければならない。前や後ろから車が来ると、欄干にへばりつくようにしてやり過ごしている。 
 反対側からの車が、橋の途中の両側がややふくらんだ場所に停まって、バスを待っていた。そこだけは、バスやダンプカーなどとでも、なんとかすれ違える。
 バスは左側ぎりぎりに車体を寄せて、ゆっくりゆっくりと進んでいく。
 なるべく窓の方を向かないようにしていたけれど、ついつい横目で外を見てしまった。こうしてみると、やっぱり川までは目もくらむような高さだ。河原の人たちが、まるでアリみたいに見える。
 芳樹は思わず腰を浮かせて、シートの真ん中よりに座り直した。
「まったく弱虫だなあ」
 正貴が、振り返って笑っていた。
(裕香ちゃんにも、恐がってるのがばれちゃったかな)
と、前の方をそっとうかがってみた。
  でも、裕香は隣の子と夢中で話していて、芳樹がいることにすら気づいていないようだ。
 なんだかほっとしたような、少しがっかりしたような妙な気分だった。
 芳樹の「高所恐怖症」は、小さいころからずっとだった。山の展望台、ビルの屋上、とにかく高い所はどこでも苦手なのだ。そんな場所がテレビに映っただけでも、足が震えて下腹がキューンとしてしまう。まるでおしっこをちびってしまいそうな気分だ。
 中でも、苦手なのが観覧車。
それに比べれば、ジェットコースターなんかの方がむしろましなくらいだ。タンタンタンと音を立てて上っていく時は、さすがにいやな気分がする。
 でも、その間は安全バーにしっかりつかまって足元をじっと見てやり過ごせばいい。頂上につくと、一瞬あたりは静かになる。と、次の瞬間、ゴーッと猛スピードで上下したり、左右に振り回されたりしてしまう。そんな時は、懸命にバーにしがみついているだけで、高さをしみじみと恐がっている暇なんかない。
 それに引き換え、観覧車の方はじっくりじっくりと高くなっていく。地上からだんだん遠ざかっていく時のあの心細さ。それに連れて、下っ腹はだんだん重苦しくなってしまう。頂上付近に着くと、なんだか動いているんだか停まっているんだかわからないぐらいに、動きがゆっくりになる。高い所が大好きな正貴は、やれ富士山が見えるだの、新宿の高層ビルはあっちだのと大はしゃぎしている。
 でも、芳樹はその間じーっと下を向いたままで我慢しなければならない。
 運の悪い時には、上空で風が吹いてきてゴンドラが大きく揺れたりした。そんな時などは、まるで生きた心地がしない。面白がってあちこち移動してわざと揺れを大きくしたりする正貴を、ぶんなぐってやりたいくらいだ。ようやく地上に戻ってきて地面に足を降ろした時には、本当にホッとしていた。
 やまびこプールのスライダープールも、上まで登る時が苦手だった。鉄製の階段はまわりがむき出しで下が丸見えなので、足が震えてきてしまう。
 でも、去年、正貴が特訓してくれたおかげで、なんとか大丈夫になった
 そんな芳樹にとって、小倉橋は大好きなやまびこプールの前に立ちふさがる恐怖のゴールキーパーのような物だった。

 次の日も、朝からカンカン照りだった。
 夏休みまであと三日、先週で給食はおしまいで、学校は午前中だけになっている。
(あーあ、今日もプールに行きたいなあ)
 むくむくした白い雲が、びっくりするほど青く澄んだ空に浮かんでいる。
 夏休みになれば学校のプール開放が始まるけれど、このあたりで今泳げる所はやまびこプールしかない。
 でも、無料送迎バスは日曜日しかなかった。自転車で行くことは、例の小倉橋が危険なので学校で禁止されている。歩いて行ったら、たっぷり三十分はかかってしまうだろう。
「よっちゃん」
 振り向くと、いつのまにか裕香がそばに来ていた。
「今日も、やまびこプールに行くの?」
「うーん、どうかな。まだ分かんないけど」
「あたしは、あやちゃんのママが、車で一緒に連れてってくれるって」
「ふーん、いいなあ」
 芳樹のうちでは、おとうさんもおかあさんも平日は仕事なので、車での送り迎えはとても無理だ。
 その時、教室の後ろの方で、しゅうちゃんがまわりの子に話しているのが聞こえてきた。
「おかあさんが、今日も送ってくれるって。一緒に乗ってく?」
「はい」
「はい、はーい」
「はい」
 まるで、一年生が先生の質問に答える時みたいに、みんなの手がいっせいに上がった。
「はい、はい、はい」
 芳樹もあわてて飛んで行って、その仲間に入った。
「うーん、昨日の五人に、よっちゃんも入れると、六人か。そんなに、乗れるかな」
 高橋くんが、しゅうちゃんに代わって人数を数えながら言った。やっぱり、いつものようにニコニコしている。
「大丈夫だよ、あと一人ぐらい。でも、一応おかあさんに聞いてみるから、後で電話くれる?」
 そう言ってくれたしゅうちゃんの手を、芳樹は思わず握りしめていた。

「よっちゃん、俺、今日もプールに行くけど、おまえも連れてってやろうか?」
 おかあさんが作って置いてくれたお昼のサンドイッチを食べていたときに、正貴が言った。
「うん。でも、しゅうちゃんが、車に乗せてってくれるって」
「ふーん、いいなあ」
 正貴は、うらやましそうな声を出していた。
「でも、その方がいいかもな。おまえじゃ、小倉橋を歩いて渡れないかもしれないからなあ」
「そんなに、怖い?」
「ああ。俺だって、最初の時はしょんべんちびりそうになったもの」
 芳樹とは違って、正貴は高い所でも平気だ。得意のフィールドアスレチックなんかでは、まるでサルのようにスルスルとロープや丸太をよじ登ってしまう。おとうさんに、「アスレの王者」なんて呼ばれているくらいだ。
 そんな正貴でさえ恐いのだったら、芳樹にはとても無理だ。昨日の橋からの眺めを思い出しただけでも、ブルブルって体が震えてきちゃう。芳樹は頭の中で、もう一度しゅうちゃんに感謝した。
「じゃあ、先に行ってるから。鍵かけるの、忘れるなよ」
 正貴が、玄関の鍵を放ってよこした。
「待ってよ。ぼくも電話したら、一緒に出るから」
 芳樹は、あわてて電話をかけながら正貴に言った。
ルルル、……、ルル。
「はい」
(あれ、変だ。しゅうちゃんでなくて、高橋くんの声がする)
 一瞬、芳樹は電話番号を間違えたのかと思った。
「えーっと、……」
「あっ、よっちゃん? しゅうちゃんに代わるね」
(なーんだ、やっぱり間違えてなかった)
「もしもし」
 しゅうちゃんの声が聞こえてきた。
「しゅうちゃん、乗せてってもらえるって?」
「うーん、それがあ、だめになったんだ」
「えっ! おかあさんが、だめだって?」
「うーん、そうじゃないんだけどお、……」
 しゅうちゃんは、なんだか言いにくそうにしている。
「じゃあ、どうしてなんだよ」
「高橋くんが、……」
「高橋くんが、どうしたの?」
「高橋くんが、よっちゃんはだめだっていうんだ」
 とうとう思い切ったように、しゅうちゃんが言った。
「……」
 芳樹は、びっくりしてしばらく何も言えなかった。しゅうちゃんも黙っている。
「高橋くんに、代わってくれる?」 
 芳樹は、ようやくそれだけ言えた。
 でも、向こう側でなんだかガヤガヤしていたかと思うと、いきなり電話が切れてしまった。
「もしもし、もしもし、……」
 芳樹が何度呼びかけても、受話器からはツーーという音しか聞こえてこない。芳樹は、とうとうあきらめて受話器を下ろした。
(どうしてなんだろう?)
 芳樹は、いつもニコニコしている高橋くんの顔を、改めて思い浮かべてみた。
 でも、どうしてもいじわるされる理由は分からなかった。
(そうだ、にいちゃんに、……)
 芳樹はあわてて玄関を飛び出して、正貴を追いかけた。
 でも、もうどこにも姿が見えなくなっている。
(いやに素早いなあ)
 その時、門の横に芳樹のと並んでいるはずの、正貴の自転車がないことに気がついた。プールの途中にある友だちの家まで、自転車で行ったのかもしれない。それでは、もうとても追いつけそうもなかった。

 芳樹は家の中に戻ると、部屋中をぐるぐると歩きまわりながら考えていた。
(もう一度、しゅうちゃんに頼んでみようか?)
 でも、最近は高橋くんを中心にして、あの五人はグループのようになっていた。もしかすると、それで芳樹だけを仲間はずれにしたのかもしれない。
 といって、いまさら高橋くんにペコペコして、仲間になんか入れてもらいたくない。
 こうなったら、プールへは一人で歩いて行くしかなかった。プールにはしょっちゅう行っているから、道だったらなんとか分かる。
(よーし、行こう)
 そう思って、青いスイミングのバッグを手にした時、急に小倉橋の事を思い出した。
(だめだ、とても一人では橋を渡れやしない)
 自分だけで行こうとしていた元気が、ヘナヘナと消えてなくなっていく。
(どうしよう?)
 プールに行けば、裕香たちにだって会える。そうすれば、帰りはあやちゃんのおかあさんの車に、乗せてもらえるかもしれない。もし、それがだめでも、少なくとも正貴たちとは一緒には帰れるはずだ。
(でも、往きの小倉橋が、……)
 窓を締め切っていたので、部屋の中はだんだん暑くなってきていた。なかなか決心がつかずに、芳樹は汗をだらだら流しながら歩きまわった。
 とうとう我慢できずに、芳樹は洗面所で勢いよく顔を洗った。すると、スライダープールで大きな水しぶきをあげた時の気持ち良さがよみがえってきた。
 ついに芳樹は、机の上のカエルの貯金箱を持ってきた。中から五百円玉をひとつ取り出すと、イルカの絵のついた丸い財布に入れた。
(とにかく、一人で行ける所まで行ってみよう)
 小倉橋を渡れるかどうかは、その場に着いてから考えようと、芳樹は決めていた。

 暑い。とにかく暑い。五分も歩かないうちに、芳樹は汗びっしょりになってしまった。
 家の外には、人っ子一人いなかった。この暑さのせいで、家の中に閉じこもっているのだろう。
 でも、なんだかみんなが、やまびこプールへ行っているような気もしてくる。
 ミーン、ミンミンミン。
 ミンミンゼミだけは、あちこちでうるさいくらいに鳴いている。そんな中を、芳樹一人だけが、黙々と歩いていた。
 丘の上にあるこの住宅地は、何ヶ所かのつづれおりの坂道で、ふもとの地区とつながっている。そのひとつ「都井沢ジグザグ」まで来たとき、ようやく自転車を押しながら登ってくる中学生たちと出合った。部活の帰りなのだろうか、トレーニングウェアを着てだらだらと汗を流している。
 芳樹はそれを横目にしながら、一気に「都井沢ジグザグ」を駆け下りた。一刻も早くプールに入りたくてたまらなかった。
 「都井沢ジグザグ」を下り切ってからしばらく行くと、広いバス道路にぶつかる。そこでは、今日も車がビュンビュン飛ばしていた。
 本当は、
(バス道路の向こうへは一人で行ってはいけない)
と、おかあさんに言われている。
 でも、今日はそんな事には構っていられない。信号が青になってからも何度も左右を見て、一気に横断歩道を突っ走った。 
 広々した浄水場の先を右に曲がると、ようやく相模川へと続く坂道に出た。S字のカーブを何度も曲がりながら、小倉橋まで下りていく。
 芳樹は道路の左側にある歩道を、どんどん歩いていった。その横を乗用車やライトバンやトラックが、ブレーキをかけてスピードを落としながら下っていく。
 初めのカーブに差し掛かった時、はるか下の方に相模川が大きく曲がりながら流れているのが見えた。両岸の河原の石が白く光っている。
 視線をずーっと右手に移していくと、小倉橋も見えた。
(高い!)
 気のせいか、今日は一段と高く感じられる。まるで、川をまたいでそびえる灰色の巨人のようだ。とても、向こう側まで渡れそうもない。
 芳樹はがけの方へ寄り過ぎないようによく注意しながら、じーっと小倉橋を見つめていた。
(やっぱり引き返そうか?)
 でも、せっかくここまで来たのに、それも残念に思えてくる。
 芳樹のそばを車がどんどん通っていくけれど、歩いている人は一人もいない。
 と、その時、少し先の方にオレンジ色のポールが立っているのに気がついた。
 バス停だ。
(なーんだ、路線バスも通ってるのか)
 急にホッとして、なんだか笑い出したいような気さえしてきた。路線バスはやまびこプールには行かないだろうけれど、橋さえ渡ってくれればOKだ。向こう岸の停留所から、プールまで歩けばいい。
 芳樹はまるでスキップでもするような感じで、バス停に近づいていった。
『小倉橋北』
 丸い表示板に、バス停の名前が大きく書いてあった。次の停留所は、期待どおりに橋のむこう側の『小倉橋南』だ。
( あーっ!)
 バス停の時刻表を見て、芳樹はがっかりしてしまった。一時間に一本、朝や夕方でもたった二本ずつしかない。しかも、かんじんの午後一時台には、一本もなかったのだ。十二時十五分のはとっくに行っちゃったし、次は二時三十分まで来ない。
 芳樹は、バス停のポールの丸いコンクリート製の重石に腰を下ろしていた。
(もうあきらめて、家に帰るしかないかなあ)
 梅雨明けの太陽は、容赦なくギラギラと照らしている。気のせいか、ますます暑くなってきたようだ。
 頭の上を、トンビがゆっくりと風を受けながら飛んでいる。
(あんなに高い所を飛んでいて、ちっとも怖くないんだろうか)
 そんな事をぼんやりと考えていると、トンビは大きな円を描きながら、だんだん小倉橋の方へ近づいていった。
 その時、橋のこちら側のたもとに、誰かがいるのに気がついた。
 女の子だ。芳樹と同い年ぐらいだろうか。
 その子がポニーテールの頭をピョンと振って、こちらに振り返った。
 裕香だった。
(どうして、こんな所に?)
 そう思いながらも、芳樹は立ち上がった。とにかく、たもとまで行ってみることにして、裕香を目指して懸命に走り出した。
 裕香はこちらから向こう側をのぞき込むようにして、橋の上の様子をうかがっている。そのそばを、乗用車やトラックが次々と追い越していった。
「おーい、裕香ちゃーん」
 大声で呼ぶと、裕香はもう一度こちらを振り返った。
初めはびっくりしたような顔をしていたけれど、すぐに芳樹だと気づいてニッコリした。
 芳樹は、大急ぎで裕香に駆け寄っていった。
「助かったあ!」
 そばまで行くと、なぜだかホッとしたように裕香が言った。
「あやちゃんのママの車で、来たんじゃないの?」
 芳樹がたずねると、
「ううん」
 裕香が首を振ると、頭の後ろのポニーテールがピョコピョコ跳ねる。
 話によると、あやちゃんが急にプールへ行かれなくなっちゃったんだそうだ。
 でも、我慢できなくなって、とうとう芳樹と同じ様に一人で来てしまったのだ。
「よっちゃんに会えて良かったあ。やっぱり小倉橋は怖いんだもん。あたし、高いとこ、苦手なんだあ。でも、よっちゃんと一緒なら、大丈夫よね」
 裕香は、ニコニコしながら話している。
 先にそう言われると、自分も高い所が怖いんだとは言えなくなってしまった。
(うーん!)
 小倉橋のたもとから改めて下を眺めて、思わずため息をついてしまった。
 高い。とにかく高い。はるか下を、相模川がキラキラ光りながら流れていた。その流れる音さえ、遠すぎてここからはまったく聞こえない。とても、こんな高い所を渡っていけそうになかった。
 でも、裕香にこんなに頼りにされているのに、いまさら「ぼくもこわいんだ」なんて、とても言えやしない。
 芳樹は、おそるおそる足を橋の上に踏み出した。
(あっ!)
 いきなり後ろから、裕香が右手をギュッと握ってきた。
 芳樹は左手で欄干につかまりながら、そろそろと歩き続けた。裕香は、芳樹の手に引きずられるようにしてついてくる。右手にギュッと力を込めて、裕香を放さないように気をつけた。
 五メートルほど進んだ時、つい横目で橋の下を見てしまった。
 欄干の下半分はコンクリート製だけど、上半分は錆びた鉄製の格子状の手すりだ。隙間だらけなので、川の流れが丸見えだった。
 一瞬、そのまま下に吸い込まれるような気がして、思わず目をつぶった。そのはずみに、裕香の手を放しそうになる。
 あわてて手をギュッと握り直すと、今度は目が開いてはるか下の川が見えてしまう。
 芳樹たちは、そこからもう一歩も動けなくなってしまった。
「大丈夫かい?」
 気がつくと、そばに一台の小型トラックが停まっていた。ウインドーから、タオルでハチマキをしたおにいさんが心配そうな顔をしてのぞいていた。
(助かったあ!)
と、芳樹は思った。もしかすると、向こう側まで乗せていってもらえるかもしれない。
 でも、裕香がすぐにきっぱりと言ってしまった。
「大丈夫です。よっちゃんと一緒だから」
 そう言われると、とても、「乗せてください」なんて、言えやしない。
 おにいさんはまだ少し心配そうだったけれど、ウインドーを上げてそのまま行ってしまった。
「知らない人の車に乗ったらいけないって、言われてるでしょ」
 車が見えなくなってから、裕香が芳樹にささやいた。
(そりゃ、確かにそうだけど)
 今はそんな事を言っている場合じゃない。裕香は気づいてないかもしれないけれど、芳樹たちは前にも後ろにも進めなくなっているんだから。
 その時、十メートルぐらい前に、昨日、バスやダンプカーが車とすれ違う両側にふくらんでいる場所が見えた。そこまで行けば、なんとかひと息つけそうだ。
(よーし)
 芳樹は大きく息を吸うと、「ふくらみ」を指さしながら裕香に言った。
「あそこまで、ダッシュするよ」
 裕香も、コクンとうなずいた。
 芳樹は、振り返って車の流れをチェックした。
 ちょうど、前からも後ろからも車は来ない。
「ゴー!」
 裕香の手をギュッと握りしめて、全速力で走り出した。裕香も、懸命についてくる。横を見ると怖いから、まっすぐ正面だけを見つめて走った。
 なんとか「ふくらみ」までたどり着くと、芳樹たちはそこに座り込んだ。しゃがんでしまえば、欄干の手すりより顔が下になるので、外が見えなくてあまり怖くない。
 芳樹たちの横を、うしろで待っていてくれていたらしい車が、四、五台続けて通り過ぎていった。芳樹は、裕香と手をつないだままその場にしゃがみ込んでいた。
(あれ、どうしたんだろう?)
 ホッとしたのもつかの間、芳樹は橋がかすかに揺れていることに気づいてしまった。
 振り向くと、後ろからダンプカーがやってくる。
 グラ、グラグラ、グラグラグラ。
橋の揺れが、だんだん大きくなる。
 ダンプカーは、芳樹たちのいるふくらみの反対側で待っていた車と、すれ違おうとしている。汚れた大きなタイヤが、どんどん二人に近づいてくる。
「キャー!」
 裕香が芳樹に懸命にしがみついた。二人は欄干にへばりつくようにして、やっとダンプカーをやり過ごした。
 でも、橋はまだ大きく揺れている。とても、ここでのんびりとはしていられない。
 橋の上には、「ふくらみ」がもう一ヶ所あった。
 芳樹たちは、抱き合ったまま車の列が途切れるのを待った。
「よし、今だ!」
 芳樹は、裕香を引っ張るようにして立ち上がらせた。そして、手を引きながら懸命に次の「ふくらみ」を目指して走り出した。

「よっちゃん、今日はほんとにありがと」
 ようやく『小倉橋』の向こう側にたどり着いた時に、裕香がニッコリしながら言ってくれた。いつもは色白の裕香も、すっかり日焼けして歯の白さだけが目立っている。
「明日も、一緒にプールに行こうね」
 裕香がそう言った時、芳樹は思わずコクンとうなずいていた。
 橋のたもとで右に曲がると、後はやまびこプールやテニスコートまで続いている上りの一本道だ。河原には、昨日とは違って、釣りをしている人たちが何人かいるだけだった。
 しばらく歩いていくと、左手に工事現場が見えてきた。 『新小倉橋』を作っているのだ。交通量が増えて今の橋では不便になったので、去年から工事が始まっている。来年の夏までには、新しい橋ができあがるはずだ。
 『新小倉橋』は、今の橋よりもさらに高い所にかけられる。
 でも、前に町役場で模型を見たことがあるけれど、広い歩道がちゃんとついていた。だから、芳樹たちでも安心して渡ることができる。それに川の両側でわざわざ坂道を下らなくてもすむから、やまびこプールまでずっと近道だ。
「早く新しい橋ができればいいのにね」
 道の上に張り出した『新小倉橋』をくぐった時、裕香が上を見上げながら言った。
 確かに新しい橋ができれば、やまびこプールへ行くのはずっと便利になるだろう。自転車で行くのだって、OKになるかもしれない。もう裕香と一緒に、車の流れをぬって懸命に駆け出して渡る必要なんかない。
 でも、なんだかそれは少し残念なような気もしていた。
 前の方に、スライダープールのてっぺんあたりが見えてきた。芳樹は、まだ裕香と手をつないだままだったことにようやく気がついた。

 

 

 

          

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過食

2020-08-07 15:32:46 | 作品
珠樹は養子だ。
乳児院から川島家へ、もらわれてきた男の子だった。
新しい両親である川島夫妻に、養子縁組されて新しい家族になったのだ。
珠樹を産んだ母親はシングルマザーで、自分で育てることができなかった。収入も少なかったし、周りには頼れる人もいなかった。
それで、珠樹を乳児院にあずけたのだった。
川島夫妻の方は、夫の豊は45歳、妻のみどりは43歳、結婚して十年以上になるが、子どもができなかった。
当初は共働きをしていたが、みどりが退職して不妊治療に専念することになった。
しかし、川島夫妻の場合は、妻だけでなく夫の方にも妊娠しにくい要因があって、五年以上に及ぶ不妊治療も成果が上がらず、とうとう二人は妊娠出産することをあきらめたのだった。
子どもの好きだった二人は、里親制度に応募することにした。
でも、その過程で、特別養子制度があることを知った。
これを利用すれば、たとえ血のつながりがなくても、法律上は実子と変わりなく、子どもが得られるのだ。
川島夫妻は、この制度を利用することになって、養子にする子どもを乳児院で探した。
そして、めぐり合ったのが、珠樹だった。
珠樹が川島夫妻に養子になることが決まった時に、正式に親権を放棄した。

川島家に来た一日目、珠樹は緊張で何も食べられなかった。乳児院で聞いてきた珠樹の好物ばかりが並んでいても、ニコリともしなかった。
川島夫妻が話しかけても、何も答えない。貝のように押し黙ったままだった。
そんな状態が三日続いた。
川島夫妻は根気よく、珠樹の好物を並べて、二人で優しく話しかけた。
三日目の晩に変化が出た。
空腹に耐えきれなかったのか、ビスケットを少しかじり、牛乳も一口飲んだのだ。
それから、日がたつにつれて、珠樹は次第に新しい家庭に慣れていった。
ごはんも食べるようになり、おかわりもできるようになった。
そして、きちんと三食食べられるようになった。
その後も、珠樹の食べる量がだんだん増えていった。
初めはよく食べるようになったことを喜んでいた川島夫妻も、今度は食べ過ぎを心配するようになった。
まるで過食症になってしまったようだ。
茶碗で、ご飯を3杯も4杯もおかわりする。
ヨーグルトを何個も食べる。
ジュースを何本も飲んだ。
牛乳もコップに何杯も飲んだ。

川島夫妻は、珠樹の食べ過ぎが心配だった。慣れない環境に来たために、過食症になってしまったのかもしれない。それに、自分たちが、珠樹に食べ物を薦めすぎたのかとも思ったのだ。
川島夫妻は、施設に相談することにした。
「大丈夫ですよお」
 電話で、施設長は笑いながら答えた。
「養子先ではよくある事なんです。
「そうですか?」
「ええ、これは一種の通過儀礼のようなものなのですよ」
「通過儀礼?」
「そう、いくら食べても、怒られないか、確かめているんですよ」
「えーっ、でも、こちらが勧めていたのに」
「そう。それがほんとかどうか確かめているんですよ」
「そうだったのですか」
施設長の話を聞いて、夫妻は珠樹に好きなだけ食べさせるようにした
内心では食べ過ぎじゃないかと、ひやひやしながらも制止しなかった。
珠樹の食べたいもだけを食べさせたり、飲みたいだけを飲ましたりした。

しばらくして、珠樹の食べる量がだんだん落ち着いてきた。
一か月たったあたりから、もっともっととおかわりすることが、だんだんおさまってきたのだ。
どうやら、施設長が言っていたことは、本当だったようだ。
落ち着いて珠樹の様子を見ていると、おかわりする時にはこちらの様子を確かめているようにも見えたのだ。
そして、おかわりを与えると、ホッとしたように食べ始めている。
夫妻は、そんな珠樹のことをたまらなくいじらしく感じるようになっていた。
珠樹は、施設にいた時には、ごく普通の体型だった。
それが、今では丸々と太って、ほっぺたなどはつやつやと光っている。
夫妻には、そんな珠樹がとてもかわいく感じられた。
そして、気が付いた時には、夫婦に珠樹をいとおしく思う気持ちがわきあがり、何があろうともこの子を絶対に手放すまいという強い感情が生まれていた。
珠樹の過激な食行動には、全く見知らぬ人を親へと作り変えたい必死の願いがあったのだろう。
新しい家族との出発のために、この過食は必要だったのである。
夫婦は、食べまくる我が子を「あまりにも気持ちよく食べるな」とさえ思えるようになっていた。
子どもの存在、行動が、まるごとの肯定的なまなざしに包まれていたことが、「真の親子になる」のに成功したのだろう。
そして、このことは、珠樹だけでなく、川島夫妻にとっても通過儀礼だったのかもしれなかった。




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廃部

2020-07-26 09:19:20 | 作品
春休みの中学校のグラウンド。
啓太たち野球部が、練習をしていた。
新三年が五人、新二年が六人、合わせて十一人しかいないから、かなり寂しい練習光景だ。人数が足りないから紅白戦もできない。昨年の夏に前の三年生たちが引退してから、こんな状況がずっと続いていた。
今はシートバッティングをしているが、守備についている九人とバッター、それにネクストバッティングサークルにいる次のバッターでぴったり全員だった。
三年生の啓太は、野球部のキャプテンだ。そんな弱小チームでも、引っ張っていかなければならない立場だった。啓太なりに一生懸命やっているつもりだが、なかなかチームの雰囲気は盛り上がらないでいた。
次の朝、啓太が部室でユニフォームに着替えていると、二年生のうちの五人が一緒に入って来た。
五人は着替えをしようともせずに、啓太のそばへやってきた
「なんか、用か?」
 啓太が尋ねると、五人はしばらくもじもじしていたが、やがて押し出されるようにして、ショートを守っている章吾が前に出てきた。
「野球部を退部したいんです」
章吾は、思い切ったようにそういい出した。
「えっ、どうして?」
 啓太がびっくりしていると、
「隼人がいばっているので、もう一緒にやりたくないんです」
 啓太には寝耳に水の話だった。隼人というのは、二年生の残りの一人だった。二年生ながらエースピッチャーで、チームの中心選手だった。どうやら、そのことを鼻にかけて、他の二年生に対して横柄な態度を取るようになっていたらしい。
いつのまにか、そんな隼人に対して、他の五人が反発していたらしかった。
そういった二年生たちの様子を把握していなかった啓太は、
(俺はキャプテン失格だな)
と、内心思った。
今年の野球部は、三年は三年、二年は二年で固まっていて、他の学年の様子まではわからなかったのだ。
三年生は啓太も含めてみんな仲良くやれていたので、二年生もうまくいっているとなんとなく思い込んでいた。

啓太は、その日の練習が終わった後、野球部の顧問の小野寺先生を職員室に訪ねた。
「先生」
 啓太は、先生の机のそばまで行って声をかけた。
「おう、吉野か。どうした?」
 事情を知らない先生は、明るい笑顔で啓太を迎えてくれた。
「実は、……」
 啓太は、二年生たちの退部希望について、先生に説明をした。
「そうか」
 先生にとっても退部の件は初耳だったらしく、啓太の話を聞いて驚いていた。
「先生、このままでは野球部はやっていけません。なんとか思いとどまるように、五人を説得していただけませんか?」
「ああ、それで、原因の隼人の方はどうする?」
「それは、ぼくの方から話をして、態度を改めさせるようにしますから」
「よし、わかった。五人を呼んで話をしてみよう」
 先生は、そう言ってくれたが、
「でも、結果にはあんまり期待しないでくれよな」
と、付け加えた。
先生は一応顧問をしていたが、野球のことはあまり詳しくなくて、チームのことは啓太にまかせっきりだった。本当は付き添わなければならない練習の時もさぼる方が多かった。五人の説得にも、そんなに乗り気ではなさそうだ。もしかすると、野球部が廃部になれば、やっかいばらいができると思っているのかもしれない。

啓太は、すぐに部室へ隼人だけをよんだ。
「隼人。お前を除く二年生が全員辞めたいって言ってきたんだ」
 啓太は、単刀直入に隼人の態度が原因だということも伝えた。
「そんなこと言われても、……」
 初め、隼人はいろいろ言い訳をしていたが、最後には自分が原因だということを認めて、みんなへの態度を改めることを約束した。
 啓太は、そのことをすぐに小野沢先生に伝えて、五人を説得してくれるように改めてお願いした。
小野沢先生は、さっそく五人をよんで話をしてくれた。隼人のことも伝えてくれたとのことだ。
しかし、五人の退部の決意は固かった。どうやら、隼人に反発しているうちに野球自体への興味も失ってしまったようなのだ。
けっきょく、六人いた野球部の新二年生のうち、五人が辞めてしまった。
ちょうど新学年が始まるので、彼らにとっては辞めるにはいい時期だった。部活の変更を行うことが容易だったからだ。
五人の二年生たちは、二人はソフトテニス部へ、二人はバスケット部へ、一人はブラスバンド部に移っていった。
これで、野球部の部員は、たった六人になってしまった。もともと十一人しかいなかった野球部にとって、五人の退部は大きな問題だった。
野球は九人でやるスポーツだから、このままでは部活として成立しない、つまり廃部の危機だったのだ。
なんとか最低でも三人の新一年生を入れて、九人をそろえなければならなくなってしまった。

体育館で行われたクラブ活動の説明会では、各クラブの代表者が新人の勧誘をした。
野球部の順番がきたので、啓太は壇上に上がって話し出した。
「練習は、月、水、金の三回です。土日には、練習試合が行われることがあります。郡大会は、七月と十一月に行われます。それから、八月に新人戦もあります。部員は、三年生が五人、二年生が一人の合計六人です。だから、入部したらすぐにレギュラーになれます」
 最後に啓太がそういうと、一年生の中から笑い声が起こった。なかなか手ごたえはよさそうだ。
啓太たち野球部員は、一年生のクラスにも、直接勧誘に行った。ターゲットは、みんな少年野球チームの後輩たちなので話はしやすかった。
へたくそながら、勧誘のポスターも作って、掲示板や一年のクラスの前の廊下にも貼り出した。
でも、けっきょくは誰も入部しなかった。
三年が抜けたら、二年生は一人しかいないので、一年生が八人以上はいらなかったら、どっちみち二学期には廃部になってしまうとの噂がながれたためだった。
啓太は、小野寺先生に呼ばれて職員室へ行った。
「石川、とうとう一年は誰も入らなかったな」
 先生は、いきなりそう切り出した。
「はあ」
 啓太は、先生の心づもりがわからないままここへ来ていた・
「それで、これからどうする?」
 先生は、啓太の顔を見つめながら厳しい表情をしている。
「どうするっていっても」
「このままじゃ。練習試合もできないだろう」
「……」
 啓太が黙っていると、先生は続けていった。
「練習を続けても試合がないんじゃあ、目標がないだろう」
けっきょく、これからのことは、部員で相談して決めることになった。

部室でみんなの意見を聞くと、野球部を続けようというのは、啓太以外には二年の隼人しかいなかった。
啓太以外の三年部員は、意外にあっさりと野球をあきらめてしまっているようだった。
けっきょく、多数決で野球部は廃部することになった
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葬送

2020-07-23 14:24:15 | 作品
 また朝が来た。
 芳樹は、やっぱりいつものように気分がすぐれなかった。胸がむかむかして、とても起き上がれない感じだった。今日も学校には行かれそうにない。
 芳樹はベッドの中で、いつまでもぐずぐずしていた。
 その時、ドアを控えめにノックする音がした。
「なに?」
 芳樹がベッドの中から返事をすると、
「よっちゃん、ちょっといいかな」
 とうさんの声がした。
(えっ?)
 枕もとの目覚まし時計を見た。もう七時半を過ぎている。いつもなら、とうさんはとっくに会社にでかけている時刻だ。
「うん、なんだよ」
 芳樹は、いつものように不機嫌な声を出してみせた。
「今日は熊谷のおばさんの葬式なんだけど、よかったら一緒に行かないかと思って」
 とうさんは、ドアの向こう側から遠慮がちに言った。おばさんというのはおとうさんからみてなので、芳樹には大おばさんにあたる。おととい、老衰のために九十二歳で亡くなったことは、かあさんから聞いていた。
「うーん、どうしようかな」
 芳樹は、枕を胸にかかえこんだ。芳樹が小学校低学年のころ、毎年夏休みに遊びに行った時に、大おばさんにはかわいがってもらっていた。
 それに、どうせ今日もこれといってやることはなかった。
 しばらく黙っていたが、
「……、じゃあ、行くよ」
 と、とうさんに返事をした。

 先月から、芳樹はまったく学校へ行かなくなっていた。いわゆる不登校というやつだ。
 朝、学校へ行こうとしても、ベッドから起き上がることができなかった。無理して起きようとすると、気分が悪くなってしまう。
(学校へ行かなくては)
 そう思うと、すっぱい液体が口の中にこみあげてくる。無理に起き上がると、吐いてしまいそうだ。
「よっちゃん、時間よ」
 毎朝、部屋の外から、かあさんの遠慮がちな声が聞こえてくる。
「うーん」
 どうしても起き上がることができない。芳樹はそのままベッドに横になっていた。
「どうする?」
 しばらくして、かあさんがまたたずねてきた。
「無理みたい」
 芳樹が答えると、
「ごはんはどうするの?」
「うーん、後で」
 芳樹は、またふとんをかぶって眠り始めた。
 学校へ行かないと決めると、なんだかほっとしたような気分だった。芳樹は安心して、またぐっすりと眠った。

 芳樹ととうさんは、中央線で東京駅まで出て、そこで上越新幹線に乗り換えた。
 熊谷までの停車駅は、上野と大宮しかない。新幹線は、あっという間に熊谷に着いてしまった。
 駅前でタクシーに乗った。
「メモリアル彩雲までお願いします」
 とうさんが運転手にいった。それが葬儀場の名前らしい。
「あんまり変わりばえがしないなあ」
 車窓から見える市内の風景を見ながら、とうさんがつぶやいた。とうさんの話だと、浦和と大宮が合併してさいたま市ができて完全に埼玉県の中心になって以来、昔は県北部の中心地であった熊谷市はますますさびれているらしい。
 葬儀場には、十分ぐらいで着いた。
 入り口付近には、もう大勢の人たちが集まっている。
「やっちゃん、遠くからどうも」
 芳樹たちがタクシーから降りると、喪服を着た美代子おばさんが声をかけてきた。芳樹のとうさんのいとこで熊谷のおばさんの子どもの一人だ。
「このたびはご愁傷様です」
 とうさんが頭をさげている。
「あれ、おにいちゃんの方かしら?」
 おばさんが、芳樹を見ながら言った。
「弟の芳樹。学校が休みだったから連れてきた」
 とうさんが、うまく説明してくれた。まさか、芳樹が不登校になっているなんて、元気な小学生だったころしか知らないおばさんには、ぜんぜん想像できないだろう。
「あらー、大きくなっちゃって。おにいちゃんの方かと思ったわよ」
 美代子おばさんは、大げさに驚いてみせている。 
 芳樹はとうさんに続いて、葬儀場に入っていった。
 式場の正面に祭壇が飾られ、黒枠の額に入ったおばさんの写真が笑っている。
 まわりにはたくさんの花が飾られて、両側にもたくさんの花かごが並べられていた。その中には、芳樹のとうさんの名前が書いてある花かごもあった。

「それでは、お別れをお願いします」
 係りの人が、まわりを飾っていた花をちぎってお盆の上にのせた。それをみんなでお棺の中に入れる。大おばさんは、お棺の中でたくさんの花に囲まれた。
 芳樹も、おとうさんと一緒に、花を一握り、お棺に入れた。
 その時、初めて遺体と対面した。
 死んだ人を見るのは、初めてではない。おじいちゃんの葬式の時に、おじいちゃんの死に顔を見ている。
 でも、ほほのこけた大おばさんの顔はまるで骸骨のようで、ちょっと薄気味悪かった。
「それでは、これでお別れです」
 係の人はそう言うと、お棺のふたを閉じた。美代子おばさんも含めた何人かの女の人たち、おそらく娘や孫娘たちだろう、が泣き出した。

「準備ができました」
 しばらくして、係の人の声掛けでみんなは火葬室へ戻った。
 そこには、すでに、熊谷のおばさんのお骨が拡げられていた。
 係の人が、大事な骨の幾つかを、そばにいる美代子おばさんたちに説明した後で、二人一組になって、長い箸のようなものでお骨を拾い上げて骨壺に収めていく。
 芳樹も、おとうさんと組になって、大きめの骨を骨壺に入れた。
「働き者だったから、高齢にもかかわらず骨がしっかりしているんだよ」
 終わってから、おとうさんが芳樹にささやいた。
 確かに、あんなに小さくしなびたようになっていたおばあさんだったのに、お骨は、骨壷に入りきれないほどだった。
「それじゃあ。精進落としの会場までは、マイクロバスで移動願います」
 美代子おばさんの夫のヤマちゃんが、大きな声で火葬室を出たみんなに声をかけている。ヤマちゃんの顔を待ち時間に飲んだビールですでに赤かった。みんなは大きな声で話しながら建物外へ向かっている。
「さすが92歳の大往生のお葬式だねえ。ぜんぜん湿っぽい様子がないなあ」
 とうさんが、隣で感心したように言った。
「92歳か」
 芳樹もつぶやいてみた。14歳の芳樹から考えると、はるかかなたのことのようだ。そう思うと、ちょっぴりだけ元気をもらえたような気がしていた。




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弟の人形

2020-07-21 18:51:03 | 作品
「割り算をする時には、……」
 担任の吉田先生が、教壇で算数の授業をしている。三年二組の教室では、みんなが熱心に先生の説明を聞いていた。
 そんな中で、洋治だけは、授業に集中できないでいた。洋治は、机の中からそっと人形を取りだした。テレビの戦隊物、ゴーゴーファイブのゴーゴーレッドの人形だ。
 洋治は、人形を教科書の陰にそっと隠した。
(良平)
 洋治は心の中でつぶやいた。良平というのは、洋治の弟だった。
 洋治は、この人形のことを、良平だと思って大事にしている。いつでもどこに行く時でも、この人形を持っていた。
学校に行く時には、ランドセルに入れている。
学校に着くと、ランドセルから机の中に移した。
そして、帰りは、またランドセルに戻した。
家に戻ると、自分の勉強机の上のいつもの場所に飾っている。
家の外に行く時には、ポケットの中に入れて持っていく。
 本当の弟の良平は、享年病気でOK死んでいた。

 亡くなる一年前に発病してから、良平はずっと病院にいた。
 毎日、学校の帰りに、洋治は病院にお見舞いに行った。
 おかあさんは、病院で良平に付き添っている。家に戻っても誰もいないので、自然と洋治も病院へ行っていたのだ。
 夕方になると、おとうさんもやってきたので、良平の病室はまるで自分たちの家の居間のようだった。
 夜の八時に面会時間が終了すると、三人はおとうさんの運転する車で家に戻った。それから三人の遅い夕食が始まるのだ。
 休みの日にも、一家で洋平の病院へ行くことが多い。
 そんな時は、昼食も病院の食堂で食べていた。
 ゴーゴーレッドの人形は、その良平の形見だ。良平は、このテレビの戦隊物の大ファンだった。病室のベッドのまくら元には、いつも五つの人形が置いてあった。
ゴーゴーレッド、ゴーゴーイエロー、ゴーゴーピンク、ゴーゴーブルー、ゴーゴーブラックだ。
 良平の病室にも、テレビがあった。専用のカードを差し込むと千円で十時間見られるやつだ。
 毎週日曜日には、良平は病室でもゴーゴーファイブを欠かさず見ていた。病院に来ていた洋治も、良平と一緒にゴーゴーファイブを見た。
 その時、良平はまだ幼稚園児だった。病室には、幼稚園の先生や友だちもお見舞いに来てくれた。
 良平は、ゴーゴーファイブがいつか病気をやっつけてくれると、最後までかたく信じていた。

 良平のお通夜には、近所の人や幼稚園の友だちがたくさん来てくれた。
 近所の自治会館にささやかな祭壇が作られた。黒い枠に囲まれた写真の中で、良平がほほえんでいる。いつもの少しはにかんだような笑顔だ。
 花に囲まれた小さな棺が悲しい。良平は、まだこんなに小さかったのだ。
 洋治は、両親と並んで、入り口でみんなにあいさつをしていた。その間も涙が出て止まらなかった。
「石川くん、元気を出してね」
 洋治の担任の吉田先生がなぐさめてくれた。
 良平の主治医だった渡辺先生も来た。
「力が及ばなくて、…」
 先生は、まだ謝罪の言葉を口にしていた。
翌日の告別式にも、みんなが来てくれた。
 最後に、おとうさんが、みんなにお礼のあいさつをした。その横に並んだ洋治は、懸命に涙をこらえていた。
 火葬場で、洋治は良平と最後のお別れをした。
 待っている間、親戚の人たちは待合室でビールを飲んでいる。おとうさんとおかあさんは、みんなにビールをついで回っていた。
 洋治の眼の前にもジュースが置かれている。
 でも、洋治は一口も飲めなかった。
 時間がきて、みんなで良平の骨を拾った。良平の骨は真っ白だった。そして、悲しいほど少ししかなかった。

 良平が亡くなって、洋治は両親との三人暮らしが始まった。
 食卓には、良平が入院するまで使っていた子ども用のいすがそのまま残されている。
 いつも、三人で黙って食事をしていた。
 洋治には、今でも良平がそばにいるような気がする。良平は、いつも陽気に笑い声を立てていた。
 新しい仏壇が買われ、良平の位牌が真ん中に置かれている。仏壇は居間の窓際に置かれた。良平がいつでもみんなと居られるようにするためだ。
仏壇の隣には、今でも祭壇が飾られ、良平の大きな写真が置かれている。祭壇には、良平が好きだったリンゴやバナナ、チョコレートなどが欠かさず供えられていた。もちろん、大好きだったゴーゴーファイブの五人の人形も一緒だ。
 洋治は、そこからゴーゴーレッドをそっと持ち出した。そして、その人形が良平だと思うことにしたのだ。なんだかそうすると、良平を失った悲しみが少しだけ減るような気がした。
 そして、人形は学校へも持っていくようになった。
 洋治は、良平が死んでから、他の人としゃべれなくなってしまっていた。
 学校にはもう友だちはいない。洋治はいつも教室に一人でいる。机の中にそって入れてあるゴーゴーファイブの人形を、覗き込むようにして眺めていた。
(なんで死んだのは、ぼくではなく良平だったのだろう)
 良平はいつも明るくて、家でも幼稚園でも人気者だった。良平は、誰とでもすぐに友だちになった。
(それに比べれば、ぼくなんか、人見知りをするし、人気もない)
 良平が死んでから、洋治の家は火が消えたようだった。おかあさんもおとうさんも、良平を失った悲しみから立ち直れていないでいた。そんな雰囲気を、洋治には取り戻すことができなかった。
(良平ではなく、ぼくが死ねばよかったんだ)
 きっと神様は、ぼくと良平を間違えてしまったのだ。
(ぼくが死んだら、誰か悲しんでくれるだろうか)
 いつもそう思っていた。


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万引き

2020-07-17 10:25:21 | 作品
 耕平の家では、彼がすべての洗濯をしている。容量が小さいので、毎日洗わなくてはならない。それに、耕平のうちの洗濯機には乾燥機が付いていなかった。いつもは窓の軒先に干していたが、雨などで洗濯物を外に出せない時には、部屋干しにしていた。梅雨の時など雨が続くと、家の中がかび臭くなった。
 耕平は小学校五年生だ。おかあさんと二人暮らしだった。駅から離れた所にある古い木造アパートに住んでいる。
 おとうさんは、病気で二年前に亡くなっていた。その時、それまで住んでいた2DKの賃貸マンションを出て、今の古い1DKのアパートで暮らしている。
 おとうさんが亡くなってからは、おかあさんがずっとフルタイムで働いていた。
 でも、正社員ではない。契約社員といって、いつ会社に契約更新をしてもらえなくなるか分からない、不安定な立場だった。
 おかあさんは、仕事からは早くても七時すぎに帰ってくるので、買い物に行く時間がない。そこで、おかあさんは、前の晩に夕食の献立を考えてメモにしておく。そのメモを持って、耕平が夕食の買い物に出かけている。
 それ以外の買い物も耕平の役目だ。食料品だけでなく、洗剤やその他の日用品もドラッグストアで買ってくる。
 アパートから歩いて五分ぐらいの所にスーパーがある。同じ敷地にドラッグストアもあった。だから、買い物には便利だった。
 おかあさんは、家に帰ってから、二人の遅い夕食の支度をしていた。

 ある日、耕平がいつものスーパーに買い物に行くと、目の前に自分より小さな男の子がいた。二、三年生ぐらいに見える。親と一緒じゃない子がスーパーにいるのは珍しいので、耕平はうしろすがたを何気なく見ていた。もっとも、自分自身もそんな子どもの一人なのだが。
 男の子は、スーパーのかごと手提げ袋を持っている。袋の中にはタオルが入っていた。
売り物でもないタオルが入っているのは、誰が見ても不自然だった。
 突然、男の子がカップ麺を手提げ袋のタオルの下に入れた。
(万引きだ)
 耕平は直感的にそう思った。
 男の子はその後も、スナックやお菓子を次々にタオルの下に入れた。耕平は買い物をやめて、男の子の後をつけていた。
 男の子は、レジを通らずにそのままスーパーを出ていった。幸か不幸か、店の人には万引きを気づかれなかったようだ。
 耕平は買い物をやめて、とっさに男の子の後に続いて店を出ていった。耕平が買おうと思った品物が入った買い物かごは、カートの上に放置したままだ。
 康平が後をつけているのも気づかずに、男の子は歩いて10分ぐらいの所にある、耕平のうちよりもさらに古びたアパートへ入っていった。
 その後も、耕平は同じスーパーで何度も男の子が万引きするのを見かけた。毎回、せいぜい数百円の物しか盗まない。それも調理しないですぐに食べられるものばかりだった。

 とうとう男の子が、店の人に捕まってしまう。お金を払わずに店を出た所を、保安員に捕まったのだ。どうやら前からマークされていたようだ。
 男の子は、事務所へ連れて行かれる。その子は、お金をぜんぜん持っていなかった。
 店の人が、男の子にいろいろと尋ねた。この子の事情をうすうす気づいたのか、店員はそれほど厳しくはしなかった
 それでも、男の子は何も話さない。
 男の子が捕まったことに気付いた耕平は、事務所へ入っていった。
「君はこの子のおにいさん?」
 店の人に聞かれた。
「違いますけど」
「どうもこの子は何度も万引きをやっているようなので、警察を呼ばないといけない」
と、店の人に言われた。店の人もどういていいか困っているようなのだ。
 耕平がお金を払って代わりに謝った。今日もカップ麺とスナック菓子と飲み物だけだったので、耕平の手持ちのお金でも十分に足りた。
「もう二度とやらせませんから」
 耕平がそう言うと、店の人も相手が小さな子なのでか許してくれた。なんだかホッとしているみたいだった。

 耕平は、男の子と一緒に彼のアパートへ行った。
何もないがらんとした部屋だった。カップ麺やお菓子の袋が散らばっている
 この子も母親と二人暮らしなのだが、最近はあまり家に帰ってこないので、一人で暮らしていたのだ。お金も置いていかないので、母親がいない時は食事ができない。
 この子にとっては、給食だけが唯一の頼りだった。
 でも、その給食費を長いこと払っていない。
 ある日、先生に、みんなの前で給食費を払っていないことを、不用意に言われてしまう。
 それ以来、友だちに、
「お金を払っていないのなら食べるな」
と、言われるようになってしまった。
 そのため、この子は学校にも行かなくなってしまったのだ。だから、この子にとっては命の綱の給食も食べられないようになっていたのだ。それ以来、空腹に耐えられなくなると、万引きをしていたようなのだ。
 耕平は、
「おかあさんが帰ってこない時は、うちに夕食を食べにおいで」
と、その子に言った。自宅の地図を書いて渡しておいた。
 数日後、本当に男の子が耕平の家にやってくる。
 話を聞いていたおかあさんが、男の子の分まで夕食を作ってくれた。
 三人で一緒に食事をする。男の子がうれしそうな笑顔を浮かべた。




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逆走

2020-07-14 10:39:02 | 作品
 ママの運転する車が、駅前の広いロータリーにゆっくりと入っていく。まだ時間が早いせいか、ロータリーにはほとんど他の車はいなかった。客待ちのタクシーが、ポツンと一台止まっているだけだ。
 塾へ行くときには、いつもママが駅まで車で送ってくれる。修平の家から駅まではバスで十分ぐらいだったけれど、この時間帯は本数が少なかった。
「それじゃ、帰りの時間はLINEでね」
 修平が後ろの席のドアを開けたとき、ママが言った。連絡するのはいつもの決まりきったことなのに、ママは必ずこう確認する。帰りは、塾を出たときに、家族のLINEで連絡することになっていた。その時間に合わせてスマホで電車の到着時間を検索して、ママはまたこの駅まで車で迎えに来てくれる。
「わかった。じゃあ、行ってきます」
 これもいつものせりふ。四年生になって塾へ通うようになって以来、こんなママとのやりとりが、ずっと繰り返されている。
 階段を下りる前に、修平は後ろを振り返った。
 ママの車は、ロータリーをまわって大急ぎで引き返していく。これから、にいさんやパパの夕食の準備をするのだろう。
 修平は、ハンバーグとサラダの早めの夕ご飯をすでに食べていた。これから、九時過ぎまで、がんばって勉強をしなければならない。修平が受ける私立中学の入試は、もう五ヵ月後に迫っていた。
 修平修司の第一志望は、東大合格者数一位の中高一貫校だ。二つ年上の兄の優治は、この学校に見事に受かっている。だから、修平はかなりプレッシャーを感じていた。
 優治が六年生の時には、おかあさんは駅ではなく塾まで直接車で送り迎えをしていた。
優治が塾で勉強している間、おかあさんはそばのファミレスで、本を読んだり、スマホを見たりしながら、塾が終わるのを待っていた。この習慣は、優治が志望校に合格するまで続いた。
 でも、修平の場合は、六年生になっても駅までしか送ってくれなかった。これは、おかあさんの二人に対する期待の大きさの違いかもしれない。このことも、修平にとっては、けっこう負担になっていた。
 たしかに、修平は優治よりはだいぶ成績が悪かった。そのために、かなり偏差値の低い滑り止めも含めて全部で五校も受験する予定だった。優治の時は、滑り止めも含めて二校に願書を出しただけだった。
 二人の最終目標は、大学受験の時の東大合格だった。東大はおとうさんの母校だったし、父方の親戚には東大を卒業したり現在通ったりしている人たちが多かった。そのため、優治と修平を東大に入れることは、おかあさんにとっては至上命題だったのだ。そのため、修平は、私立大学の付属校は受けない予定になっていた。

 駅のホームには、修司が乗る上りの方には、もう待っている人がいた。
 でも、反対の下り側にはいつものように誰もいなかった。私立中学生や高校生たちの通学と、逆方向になるからだろう。だから、車内もガラガラのようだった。
 塾の帰りには、通勤客がメインなので、下りの電車もけっこう混み合っていた。塾の勉強でくたびれているのに座れないこともあった。
 もう九月もなかばだというのに、今日は暑い一日だった。修平は、プラスチックのベンチに腰をおろした。
 バッグから、KIOSKで買ったダイエットコークを取り出す。
 シュッ。
 キャップをひねると、炭酸の泡の音がした。
 ゴクゴクとのどを鳴らして、一気に三分の一ぐらいを飲み干す。
「プハーッ」
 冷たさと炭酸とで、のどがキューンとする。いっぺんでかわきがいやされた。
 ホームの時計を見上げると、五時二十二分になっている。発車時刻が近づいているので、まわりに人が増えてきた。
 まだ電車到着を知らせるランプは点いていなかったが、修平はダイエットコークのボトルをまたバッグにしまうと、ベンチから立ち上がった。

 それから、少し時間がたった。
 でも、発車時刻をすぎているのに、上りの電車はなかなか姿を見せなかった。それどころか、電車の到着を知らせるランプさえまだ点いていない。
 待っている人たちが、ザワザワしはじめていた。時計を見ると、もう5分も遅れている。
 みんな、列車の来る方向をながめていた。近くにある高校の生徒なのか、同じ制服の人たちが多い。
 その時、ようやく駅員のアナウンスがホームに流れた。
「……、途中のM駅で人身事故が発生したため、上り電車は運転を見合わせています。お急ぎのところ、まことに申し訳ありませんが、……」
(人身事故かあ)
 アナウンスを聞いて、修平は嫌な気持ちがした。
「人身事故って、本当は飛び込み自殺のことなんだよ」
って、塾で同じクラスのキーちゃんから聞いたことがある。今日も、M駅で誰かが飛び込み自殺をしたのかもしれない。その人はどんな悩みを抱えていたのだろう。
 もし、飛び込み自殺だとしたら、電車のチェックなどでかなり時間がかかるだろう。当分、上り電車は来ないかもしれない。
「あーあ」
 まわりの人たちからもあきらめのようなため息が聞こえてくる。中には電車に乗るのをあきらめたのか、エスカレーターへ乗って上へあがっていく人たちも出始めた。
 アナウンスによると、いつ発車するか見込みがまだ立たないとのことだった。このままだと、塾に遅刻してしまうのは確実だった。
(後から一人で教室に入っていくのか)
 そう思うと、なんだかうんざりした気分だった。
 みんなが一所懸命に勉強している時に、後ろのドアからソッと入っていく。先生は説明を一瞬止めて、修平に静かに席に着くよう促すだろう。何人かの子どもたちは、それに気づいてこちらを振り返るかもしれない。

 と、そのとき、今度は録音されたアナウンスがホームに流れた。
「まもなく下り線に電車が到着します。黄色い線まで、……」
 電車が停まっていたのは上り電車だけで、下りはまだ動いていたのだろう。
 修平は、ホームの反対側にまわった。ホームから体を乗り出して、電車の来る方向をながめた。
 ファーーン。
 運転士が軽く警笛をならした。知らず知らずのうちに黄色いブロックを超えていた修司に対する警告だろう。あわてて体を引いた。こんな所で事故ったら眼もあてられない。
 もし、電車にはねられていたら、やはり「人身事故」として処理されるのだろう。
そして、明日の新聞の地方欄に、
『小学生が飛び込み自殺、中学受験を苦にしてか?』
と、見出しに書かれてしまうかもしれない。
 やがて、ウグイス色の電車がホームにすべり込んできた。だんだんにスピードが落ちていく。それにつれて、なぜか修平の心臓はドキドキしてきた。
(この電車に乗ったら、どうなるのだろう?)
 急に、今日だけは塾へ行きたくなくなった。
 完全に停車すると同時に、電車のドアが開いた。パラパラと、数人の乗客が降りてきたけれど、乗る人はだれもいない。
「まもなく発車します」
 ピリピリピリ。
 ドアが閉まる寸前に、は反射的に電車に飛び乗ってしまった。 

 電車はゆっくりとスピードをあげていく。車内は思ったとおりガラガラで、修平は七人がけの広い座席を独り占めしていた。
 上半身をひねって窓の外を見ると、見慣れぬ風景が流れていく。いつもとは逆走しているわけだ。修平はこちらの方向の電車には、あまり乗ったことがなかった。
 修平は、そのままぼんやりとその風景をながめていた。もう夕方なのにカラフルな洗濯物が干されたままになっているマンションや、ところどころに古い建物があるだけの広い敷地の工場などが続いている。
 電車は、見知らぬ駅にいくつかとまった。腕時計を見ると、六時を過ぎたところだ。塾では、一時間目の授業が始まっているだろう。
 修平はまた、少し薄暗くなり始めた外の風景をながめながら、いつのまにか最近の自分のことを考えていた。
 三ヶ月前に少年野球チームをやめてから、塾での修平の成績は着実に上がっている。野球のために今までは出られなかった火曜と木曜の特進クラスや、土曜や日曜の模擬テストを、受けられるようになったせいかもしれない。
 修平の入っていた少年野球チームは、五月の郡大会で敗れてしまって、夏の県大会への道は閉ざされてしまっていた。それをきっかけにして、修平はチームをやめたのだった。
 本当は、六年生は毎年秋の町の大会まではチームに残ることになっていた。そのため、このときにやめたのは、修平一人だった。修平は、五番でサードという主力選手だったので監督やコーチは残念がっていたが、最後には受験勉強をがんばるようにと励ましてくれた。
 少年野球をやめたおかげか、最近は塾の勉強に百パーセント集中できていた。

 修平の通っている塾では、成績別にクラスが分かれている。全部で七クラスがあってAから始まるアルファベット順になっている。ただし、国立や最難関私立を受験する一番上のクラスだけは、Sクラスと呼ばれていた。もちろん、スペシャルのSだ。
 少年野球をやめるまでは、修平は上から三番目のBクラスか四番目のCクラスにいた。
 それが、今では上から二番目のAクラスまであがっていた。そこは、私立大学の付属校や難関私立向けのクラスだった。
 でも、修平の、いやママのといった方が正しいかもしれないが、第一志望校は、東大合格数一位の最難関私立校だ。そのためには一番上のあのSクラスへ入らなければならない。
 この間の、塾の三者面談では、今の成績ではまだ合格は難しいといわれている。第二、第三志望も、東大に合格者を出している中高一貫校だった。そこだったら、たぶん大丈夫だろうというところまではきていた。
 最近の修平の唯一の息抜きは、一日三十分の携帯ゲームだ。今は、恋愛シミュレーションゲームをやっている。ゲームの中では、仮想のガールフレンドである美月と付き合っていた。画面を通して美月と会話している間だけは、修平はホッとできた。
 塾のクラスに、美月によく似た女の子の薫がいた。修平は前から薫に声をかけたいと思っていたが、大事な受験前なので我慢していた。それに、薫は女子校を、修平は男子校を受けるので、中学になったらどうせお別れなのだ。

 T駅で、たくさんの人たちが乗り込んできた。高校生たちにまじって、サラリーマンやOLも増えている。みんな勤めの帰りなのだろう。そろそろ、帰宅ラッシュの時間に近づいたのかもしれない。
 外はだんだん暗くなり始めている。修平は、もう風景を眺めることもせずに、まっすぐ前を向いて腰をおろしていた。
 電車は、修平が乗った駅からどんどん遠ざかっていく。
 それに連れて、修平は自分の日常生活、特に塾を中心とした生活から離れられたような気がしていた。そう思う少しだけ気分が軽くなった。
 とうとう電車が終点の駅に着いた。大勢の人たちが我先にと降りていく。
 でも、修平はそのまま座っていた。
 電車は車庫に入らすに、折り返し運転になるらしい。修平は、そのままこの電車で引き返すことにした。
 その時、アナウンスが流れた。
「お急ぎのところ、まことに申し訳ありませんが、M駅で発生した人身事故により、上り電車はダイヤが大変乱れております。時間調整のため、しばらく発車を見合わせます。また、状況がわかりしだい、随時お客様にお知らせいたします」
(どのくらい遅れるのだろう。あまり遅くなって、塾が終わる時間を過ぎたらまずいな)
と、思った。おかあさんに、塾をさぼったことを感づかれてしまうかもしれない。

 しばらくして、電車はようやく逆方向に走りだした。修平はホッとした気分だった。
 でも、まだノロノロ運転だ。まあ普通に走ったのでは、自分が降りる駅に早く着き過ぎてしまうので、修平にはちょうど良かったけれど。
 修平はもう一度振り返って外を眺めた。空はもう真っ暗になっていて、建物の明かりが輝いている。
 電車は、また人々を乗せたりおろしたりしながら、ゆっくりと走っていく。修平は、もう外を眺めることなく、ぼんやりと腰を下ろしていた。
 電車は、修平の乗った駅へどんどん近づいていく。それにつれて、修平の気分は、いつもの塾中心の日常のものに戻っていった。
 修平が降りる駅にもうすぐ到着するとき、スマホで時間を見た。うまい具合にちょうど塾が終わる時刻だった。
(迎えに来て)
 修平は、ママ宛てに帰りのLINEを送った。これなら送った場所はわからないから、ママにはどこに行っていたかはわからない。
 電車が修平の降りる駅に着いた。修平はゆっくりとホームへ降り立った。
 ドアが閉まって、電車はまた走り出した。
 修平は、ホームから走り去っていく電車を見送った。
(明日からは、またあの塾に向かう電車に乗るのだろう)
 そう思いながら、修平はゆっくりと階段を登り始めた。

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ネグレクト

2020-07-13 13:58:06 | 作品
「あーあ」
 中学二年生の泰輔が、目を覚ました。
 枕元の時計を見ると、九時過ぎだった。とっくに学校が始まっている。
 でも、泰輔はゆっくりと起き上がると、パジャマ姿のままで部屋を出た。
 泰輔は、かあさんと一緒に市営住宅に二人で住んでいる。でも、かあさんはとっくに仕事に出かけていた。出かける時に泰輔に声をかけるのも、だいぶ前にしなくなっていた。
 泰輔は、二年になってからクラスでいじめにあって、不登校になっていた。学校の先生や教育委員会の職員が、何度も泰輔を訪ねてきたが、なんの解決にもならなかった。だいたい、泰輔のいじめの主張すら彼らは認めていないのだ。
 かあさんが仕事へ行っている間、泰輔は、テレビを見たり本を読んだりして、毎日を過ごしている。本当はオンラインゲームをやりたいのでゲーム用にグレードアップされたパソコンが欲しいのだが、泰輔の家は母子家庭で経済的に苦しいので、「買って欲しい」とかあさんに言えないでいる。スマホも持っていないので、クラスの友だちとは完全に隔離されていた。
 泰輔の両親は、泰輔が幼稚園のころに離婚している。
理由は、父親の不倫だった。そのため、父親は、裁判所の命令でかあさんに慰謝料を払っていた。
 さらに、泰輔の親権はかあさんが持ち、父親は二カ月に一回面会する代わりに、月に五万円の養育費を送ってくることになっていた。
 しかし、その約束はいつの間にかうやむやになり、養育費はまったく振り込まれなくなった。泰輔は、もう五年も父親に会っていない。
 風の便りでは、父親は不倫相手と再婚して、子どももいるという。
 かあさんは、二人の生活を支えるために、二つの仕事を掛け持ちしている。昼間は、清掃の仕事をしていた。そういった仕事を請け負う派遣業者から、特定の会社に派遣されて、広い社内を夕方まで掃除してまわっている。
夕方からは、コンビニのレジ打ちをやっている。そして、本当は廃棄しなければいけないコンビニの期限切れの食べ物を内緒で貰って、九時過ぎに家へ帰ってくる。泰輔の家の遅い夕食は、いつもコンビニの残り物が中心だった。

「わーん、あーん、……」
 突然、隣の部屋から女の子の激しい泣き声が聞こえた。どうも、ベランダに面した掃出し窓が開いているようだ。こちらも窓を開けていたので、泣き声は壁越しでなく外から聞こえてくる。
 泰輔は、居間にまわって掃出し窓からベランダに出てみた。
「おい、どうした?」
 ベランダのはじへ行って、隣との仕切り越しに声をかけてみる。
 泣き声がやんで、女の子もベランダに出てきたようだ。
 女の子は、まだしゃくりあげている。
「どうしたんだ?」
 もう一度聞いた。
「うん、おなかがすいた」
「食べ物がないのか?」
「うん」
「わかった。ちょっと待ってろ」
 泰輔はそう言って、家の中に引っ込んだ。
 泰輔の家の隣に、小さな女の子がいることは前から知っていた。すれ違った時にチラッと見た時には、四、五才に見えた。
 でも、幼稚園にも保育園にも、通っていないようだ。昼間は、泰輔と同様に一人で過ごしていることが多い。
 泰輔の部屋から、時々、今日のように女の子の泣き声が聞こえていた。
 一度だけ、玄関から出てくるのを見たことがある、若い母親はいつも不在がちだ。どこかへ遊びに行っているのか、何日もの間夜も帰ってこないこともあるようだった。

 泰輔は、食卓の上のカップ麺のふたを開けると、ポットからお湯をそそいだ。今日の自分の昼飯だ。
 泰輔は、こちらは朝飯用の鮭とツナマヨのおにぎりを、一個ずつジーンズのポケットに突っ込むと、カップ麺を両手でしっかり持って、玄関に向かった。
 隣の玄関にまわると、チャイムのボタンを押した。
 ピン、ポン。ピン、ポン。
 部屋の中で、チャイムがせわしなくなっている。
 ガチャ、ガチャン。
 鍵を外す音がした。
 ドアが開いて、女の子が顔を現わした。涙の跡が薄汚れている。
 中をのぞくと、ゴミだらけの荒れ果てた部屋が見えた。あきらかに、女の子は母親に放置されていたようだ。
 泰輔は、食器やインスタント食品の殻がうずたかく積もっている食卓に、わずかなスペースを確保した。そこに、自分の昼食であるカップ麺とおにぎりをおいた。
「食えよ」
 まずおにぎりの包みを開けて海苔を巻いて、女の子に差し出した。
「……」
 女の子は手を出さない。
「平気だよ。食えよ」
 泰輔がもう一度言うと、ようやく女の子はおにぎりを両方とも受け取った。そして、がつがつとすごい勢いで食べ始めた。ふたつのおにぎりを両手に持って、交互にかぶりついている。
(すげえ)
 泰輔は、女の子のすごい勢いの食べっぷりに、思わず見とれてしまった。
「名前は、なんていうんだ?」
「アヤちゃん」
「アヤっていうのか?」
「ううん、アヤちゃん」
 女の子はそう言うと、初めてはにかんだような笑顔を見せた。
 どうもアヤちゃんは、母親に育児放棄されているようだ。あまりご飯を食べさせてもらっていないみたいだった。がりがりにやせていて、おなかだけがぽっこりふくらんでいる
 その後も、泰輔はアヤちゃんに食べ物をあげるようになった。昼だけでなく、朝はかあさんがいなくなってすぐに、夜はかあさんが帰ってくる前に、食べ物を持っていった。
 家にある食料だけでは足りなくて、近所のコンビニへ買いに行ったりもした。泰輔が家の外へ出るなんて久しぶりのことだった。さいわい、最近は小遣いをほとんど使っていなかったので、お金はけっこう持っていた。
 アヤちゃんに食べ物をあげていることは、かあさんには秘密だった。

 ある日、隣の家に、児童相談所の職員が訪ねてきた。
 その時は、たまたま母親が家にいる時だった。
近所の人が、放置されているアヤちゃんを見かねて、通知したのかもしれない。
 でも、職員は、母親にえらい剣幕で追い返されてしまった。
 それ以降、母親は家に帰ってこなかくなった。
本格的な育児放棄になったのだ。
 それから数日後、児童相談所の職員が、今度は大勢やってきた。
 どうも、母親が家に帰っていないことが、また通報されたようなのだ。
 今度は、アパートの管理人も一緒だった。
 職員たちは、監視人に部屋の鍵を開けさせると、中へ入っていた。
 もしかすると、すでに母親と児童相談所で話し合いがもたれていたのかもしれない。
 母親が親権を放棄して、アヤちゃんは施設に入ることになったのだろう
 やがて、児童相談所の人に連れられて、車にのせられて連れて行かれる。
 泰輔は、部屋の窓から一人でアヤちゃんを見送った。
(ぼくは、アヤちゃんに何かをしてあげられたのだろうか?)
 泰輔は心の中で思った。



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キャンプなんかに行きたくない!

2020-06-29 14:40:18 | 作品
 机の横のカレンダーに書きこまれた赤いマル。八月七、八、九日がもうすぐやってくる。弘が参加する「夏休みちびっ子キャンプツアー」の日だ。
(嫌だなあ)
 さっきから弘は、何度も横目でカレンダーを見ながら思っていた。
 旅行会社のちらしを見て、キャンプに申し込んだのはおかあさんだった。
「男の子なんだから、アウトドアぐらいできなきゃ」
 学校のプールにも行かないでブラブラしていた弘に、おかあさんはいった。
「男の子は、体力が一番。勉強なんか、いくらできたってだめだ」
 これが、おかあさんの口ぐせだ。そのために、弘をサッカー教室にいれ、スイミングスクールにも通わせている。
 でも、サッカーでは四年生以下のチームで、年下の子たちにねらっていたレギュラーポジションを取られてしまった。スイミングも、四年生の今でもまだ十一級で、小さな子たちとポチャポチャやっている。
 弘は、スポーツが苦手だった。
どういうわけか、弘が好きなのは、家の中でやることばかりだ。
 ゲーム、プラモデル、プログラミング、水彩画、……。
 特に、本を読んだり、日記を書いたりすることは大好きだ。お気にいりのファンタジーかミステリーと、おいしいおやつさえあれば、一日中退屈しない。
 こんなところは、おとうさんに似たのかもしれない。おとうさんもインドア派で、いつも自分の部屋で本を読んだり、何か書き物をしたりしている。日曜日も、おかあさんに引っぱりだされないかぎり、ネットでどこかの人たちと囲碁や将棋をやっているだけだ。
 それに、弘は虫が大の苦手だった。高いお金を払って、クワガタやカブトムシを買う人がいるなんて、とても信じられない。キャンプで山の中にいけば、きっと虫がウジャウジャいるだろう。そう考えただけでも、背中のあたりがむずむずしてくる。

 いよいよ、キャンプに出発する朝がやってきた。玄関の鏡に、完全装備の弘がうつっている。
 大きなつばのキャップに、半袖の綿シャツ。ジーンズのハーフパンツに、おそろいのベスト。大きなリュックを背負い、モスグリーンの水筒と双眼鏡を、タスキがけにしている。
 まるで、アウトドアライフ雑誌のグラビアから抜け出してきたようだ。どれも、おかあさんが、はりきって専門店で買いそろえた物ばかりだった。
 専門店には、弘も一緒に連れて行かれた。
 おかあさんはザックの売り場をキョロキョロと見まわしていた。
「ザックは何リッターのがいいですか?」
おかあさんは、ザックの売り場のおにいさんにたずねた。
「どちらの山に行かれるのですか?」
 おにいさんは、あいそよくおかあさんに答えた。
「いえ、ハイキングなんですけれど」
「お客様がお使いですか?」
「いえ、この子ですけれど」
「なら、そんなに本格的なザックでなくても、お子様用のリュックサックがございますが」
 おにいさんは、笑いながら子供用品コーナーを指差した。
「ええ、まあ、……」
 おかあさんはそのとき、なんだかがっかりしたような顔をしていた。

「ひろちゃん、早くしなさい」
 外から、おかあさんが呼んでいる。自慢の真っ赤なクーペの運転席の窓を下げて、今日も一人ではりきっている。
「それじゃ、行ってくるね」
 弘が声をかけると、おとうさんも部屋から出てきた。
「おっ、いよいよか。大変だな」
 おとうさんもアウトドアが苦手なせいか、なんだかすまなさそうな顔をしている。
「そうそう、これ持っていかないか」
 おとうさんが差し出したのは、手の中にすっぽりと入る小さなハーモニカだった。弘は小さいころに、おとうさんにハーモニカを教わったことがあった。
 でも、学校ではピアニカとリコーダーしか習わないこともあって、最近はあまり吹いていない。
「うん」
 素直に受け取ったものの、
(こんなの吹いてるひまがあるかなあ)
とも、思っていた。
「ほら、キャンプファイヤーなんかで、歌を唄うことがあるんじゃないか。そんなとき、伴奏にでも使えないかと思って」
 そういわれて、ようやく弘は、おしりのポケットにハーモニカをつっこんだ。

 集合場所のバスターミナルは、参加する子どもたちや見送りの親たちでごったがえしていた。
 キャンプ参加者は、小学四年から六年までの、ぜんぶで八十三名もいる。それが、十二班に分かれて行動することになっていた。
「二班、集まってー」
「五班は、こっち」
 各班には、大学生のおにいさんかおねえさんが、インストラクターとしてついている。みんな、大声でメンバーを集めていた。
 弘の班は、全部で七人。男の子が弘をいれて四人と、女の子が三人。
「はーい。ぼくの名前は林賢治。きみたち三班の、インストラクターをやります。よろしく」
 まっ黒に日焼けして眼鏡をかけたおにいさんが、みんなを集めると元気よくあいさつした。
 林さんにうながされて、みんなも自己紹介した。それぞれキャンプへの期待を、楽しそうに話している。
 でも、弘は、ぼそぼそと名前をいっただけだった。
「それじゃあ、みんな、これを読んで」
 林さんが、キャンプのスケジュール表を配ってくれた。
 一日目は、テントの設営、かまど作り、野外料理に、かくし芸大会。
 二日目は、カヌーこぎ、魚釣りに、キャンプファイヤー。
 三日目は、マウンテンバイクとハイキング。
 アウトドア活動のスケジュールが、びっしりと入っている。どれも、弘にとっては、やったことのないことばかりだった。

「じゃあ、ひろちゃん。がんばってね」
 バスに乗った弘に、窓の下からおかあさんが声をかけた。なんだか、急に心配そうな顔をしている。不安でいっぱいの弘の気持ちが、伝染したのかもしれない。
 そんな二人をよそに、まわりの子たちはもうはしゃぎ始めていた。座席にすわらずに歩きまわっている子たちもいる。
「いてっ」
 いきなり何かがぶつかったので、弘は頭を押さえてうめいた。床に、黄色いフリスビーが落ちている。
「あっ、ごめん、ごめん」
 同じ三班の勇太が笑いながらあやまると、すばやくフリスビーをひろいあげた。 どうやらうしろの席の子と、投げ合っていたらしい。バスが急に動きだしたので、手もとがくるったようだ。
(なんで、こんな野蛮な連中と一緒に、キャンプに行かなきゃいけないんだろう)
 弘は、勇太をにらみつけながら、あらためてそう思った。
 窓を開けて外を振り返ると、おかあさんの姿はもうすっかり小さくなっていた。
 でも、こちらにむけて、まだけんめいに手を振っている。
 弘も、おかあさんにむけて手を振り返した。そうすると、なんだかますますさびしくなってきたような気がした。

 川の流れにそって、林の中に木の板を敷きつめた道ができている。
 弘たちは二列にならんで、バスの駐車場からキャンプ場へ向かっていた。
 三班は、先頭が林さんと六年の大地。次が、五年生の美登里と隆宏。そのあとが、四年生の美紀と勇太。最後が、四年の弘と六年の玲於奈だった。
 林の中は、少しうすぐらかった。ところどころにある「マムシに注意!」の看板が、とても不気味だ。弘は、あたりをキョロキョロ見まわしながら、恐る恐る歩いていた。
 やっとの思いで林を抜けると、木でできた大きな水車があった。
 ゴトン、ゴトン、バシャーン。ゴトン、ゴトン、バシャーン。……。
 力強いリズムをきざみながら、水車は勢いよく回っている。
「きゃあー、マムシよお」
 いきなり、隣の玲於奈が悲鳴をあげた。木道のすぐそばを、1メートル以上もある大きなヘビが、すべるようにはっている。薄緑色の体をクネクネさせて、みんなを追い越していく。
 弘は真っ青になって、その場に立ちすくんでしまった。足がブルブルとふるえて、力がぜんぜんはいらない。
「大丈夫、大丈夫。アオダイショウだよ。毒はないから」
 いそいで戻ってきた林さんが、みんなを安心させるようにいった。
「捕まえようぜ」
 勇太と隆宏が、木道を飛び降りて、ヘビを追いかけ始めた。
 それでも、弘の足のふるえは、まだ止まらなかった。キャンプ場には、虫どころかヘビまでが、ウジャウジャいるのかもしれない。これからどんなことが起こるのか、弘の不安な気持ちは、いっそう高まっていた。

 ピリピリピリピリ、……。
 インストラクターたちのホイッスルを合図に、各班はいっせいに作業を開始した。
「テントをはったこと、あるかい?」
「もちろーん!」
 林さんがたずねると、弘以外の男の子三人が、口をそろえて答えた。
「じゃあ、後でチェックに来るから」
 林さんはそういうと、女の子たちのテントの方へむかっていった。
「よーし、始めようぜ」
 大地はみんなに声をかけると、慣れた手つきでテントの包みを広げ始めた。
「四人用にしちゃ、このテント、狭いんじゃないかなあ」
 テントのフレームを組み立てながら、勇太が文句をいっている。 
「場所はこのへんがいいかな」
 隆宏はテントをはる場所をきめながら、地面の小石を拾い上げている。
 忙しく働いている三人の間で、何をしたらいいのかわからずに、弘はうろうろしていた。
「何か、手伝うことない?」
 やっとの思いで、弘は三人にたずねた。
「えっ。うーん、適当に何かやれば」
 勇太が、少し馬鹿にしたようにいった。
「……」
「そうだな。テントの方は三人でOKだから、まきを持ってきて、かまどに火をおこしておいてくれる」
 リーダー格の大地がそういってくれたので、弘はホッとしてその場を離れた。

 しばらくして、まきの束と古新聞を抱えて、弘が戻ってきた。
 針金でたばねられたまきは、けっこう重かった。途中からフーフーいってしまい、何度も下におろして、休まなければならなかった。額からじわじわ出てきた汗が、目にしみてくる。夏の強い陽ざしが、真上からようしゃなく照りつけていた。あごから伝わった汗が、びっくりするほど黒い影の上に、ポタリポタリと落ちていった。
 もうだめかと思ったとき、ようやくテントのそばにたどりついた。そこには、石を積み上げたかまどらしいものがあった。いつも使われているらしく、石も地面も黒く焼け焦げている。弘はそのそばに、ドサリと投げ出すように、まきと古新聞を置いた。
(うーんと、どうやって、火をおこせばいいんだろう)
 どういうわけか、たよりの林さんの姿が見えない。大地たちも、テントの方で忙しくしている。
(えーい。なんとかなるだろう)
 束から何本かまきを引き抜いて、かまどの真ん中におき、上に新聞紙をかぶせた。
 マッチをする指が震える。弘は、今までに一度もマッチをすったことがなかった。
何本かむだにしたあとで、やっと火がついた。
(あつっ!)
 指先がこげるような気がして、あわててマッチを落としてしまった。
 でも、運よく新聞紙の上に落ちたので、すぐにメラメラと燃え出した。
(おっ。やったあ)
と、喜んだのもつかのま、火はまきへは燃え移らずにすぐに消えてしまった。
「おい、何やってんだよお」
 うしろから、あきれたような大地の声が聞こえた。隆宏も勇太も、さもおかしそうにニヤニヤしている。
「だいたい、かまどを作らなきゃだめじゃないか。こんな崩した跡じゃなくって」
(えっ? これって、かまどじゃなかったの?)
 驚いている弘に代わって、大地はすばやく石を積み上げ始めた。かまどを作っているのだろう。
「風はこっちからだな」
 隆宏が、指をしゃぶって上に差し上げ、風向きを確かめている。
「本当に、誰かさんは三班のお荷物だなあ」
 勇太に、馬鹿にしたようにいわれてしまった。
「もう火をおこしてるのお」
 女の子たちも、テントをはり終わったらしく、かまどのそばにやってきた。
「ちょうど、よかった。玲於奈さんも手伝ってよ」
 大地がそういうと、玲於奈は隣に並んで手伝い始めた。
「じゃあ。ぼくたちは、晩ご飯の材料を取りに行こうか」
 隆宏も、同じ五年生の美登里を誘って、一緒に行ってしまった。
「ぼくたちも、水を汲みに行こうよ。」
 勇太も、美紀を誘っている。
「弘くんも、一緒に行かない?」
 そばでうろうろしている弘に、美紀が声をかけてくれた。こちらにむかって、にっこりほほえんでいる。
「いいよ、いいよ。二人で大丈夫だよ。それに、弘くんは、三班の大事なお荷物だし」
 勇太にそういわれて、二人の方に行きかけた弘は、顔を赤くして立ち止まった。
「えっ、お荷物って?」
 美紀は不思議そうな顔をしていたけれど、勇太に連れられて行ってしまった。
 しかたなくかまどに戻ると、大地と玲於奈は、いかにも手慣れた感じで火をおこしている。
 互いに立てかけたまきに、大地が火のついた新聞紙をくべた。玲於奈は、パタパタとうちわであおいで、空気を送り込んでいる。しばらく白い煙が出てから、うまくまきに燃え移って、赤い火がおこりはじめた。
 その間、弘はかまどのまわりをうろうろするだけで、手伝うことを見つけられなかった。
「ちょっと、トイレに行ってきます」
 弘は小さな声でそういうと、そっとその場を離れた。みじめな気持ちだった。

 トイレは、キャンプ場の中ほどの広場のそばにあった。そこでは、今日はかくし芸大会を、二日目にはキャンプファイヤーをやることになっている。
 そのあたりは、キャンプ場の中心地のようだった。まわりには、さっき弘が運んできたまきの置き場や売店、それに、コインシャワーなどもあった。
 テントの近くと違って、大勢の人たちが行きかっている。「夏休みちびっ子キャンプツアー」の他の班の人たちも、それぞれの用事で来ていた。
 でも、ぜんぜん知らないよそのキャンパーたちもいる。どうやら、このキャンプ場はかなり大きいようだ。
 トイレに近づくにつれて、弘はだんだんいやな予感がしてきた。
 なんだか、嫌な臭いがただよってきたのだ。
(やっぱり)
 ドアを開けて、がっくりした。きれいに掃除されてはいたが、和式トイレ、それも汲み取り式なのだ。
 こういうトイレにはいるのは、生まれて初めての経験だった。それに、なんだか、どこからかへびや虫が、出てきそうな気もする。
 きついアンモニアの臭いに、涙をにじませながら、
(ああ、早く家へ帰りたい)
と、弘は思っていた。

 あんなにギラギラしていた太陽も、今は山のかげにかくれている。キャンプ場の夕暮れは、あっけないほど早くやってきた。
 晩ご飯は、おこげご飯と生煮えのじゃがいものカレーライス。
でも、おなかがすいていたせいか、意外においしかった。
といっても、苦手なにんじんとたまねぎは、全部気づかれないようにしてそっと捨ててしまっていたけれど。
 後片付けをすませて、みんなはキャンプ場の中心にあるステージにむかっていた。
「だからさあ。三班はさあ。……」
 前の方で、勇太や隆宏の話し声がする。どうやら、かくし芸大会の出し物を相談しているらしい。
 途中の広場では、よその人たちがキャンプファイヤーをやっていた。井ゲタに積み重ねた太いまきから、真っ赤な炎と黒い煙が吹き出している。強い灯油の臭いが、弘の鼻をツーンとさせた。
「私たちは明日よね。初めてだから、楽しみにしてるんだあ。弘くんは、キャンプファイヤー、やったことある?」
 隣を歩いていた美紀が、話しかけてくれた。
「ううん」
 弘は首を振った。
「今日のご飯、焦がしちゃってごめんね。水加減、間違っちゃった」
 美紀はそういって、ペロリと舌を出した。抜け替わりの歯の隙間が見えて、なんだかちっちゃな子みたいに見えた。美紀もアウトドア活動には慣れているらしく、飯ごうでのご飯炊きを担当していた。
「ううん」
 弘は、また首を振った。

「……。そんな、あほな」
「しっつれいしましたあ」 
 ウワーッ!
 二班がやったコントがうけて、かくし芸大会はすっかり盛り上がってきた。木造の高い天井に取りつけられたライトで、ステージは明るく照らされている。
 一班の歌といい、今のコントといい、みんなはいろいろな芸を器用にこなしている。
(ところで、三班はどうするのだろう?)
 さっき、勇太たちが相談していたけれど、弘は何をやるのかは聞かされていなかった。
「それでは、次は三班の出番です。大きな拍手をどうぞ」
 司会役のインストラクターのおねえさんが、大きく手を広げていった。
「三班は、われらがスーパースター、吉岡弘くんがとっておきの芸をやります」
 横に座っていた大地に、いきなりいわれてしまった。
(えっ!?)
「わーっ、いいぞお」
 隆宏と勇太も大声で叫びながら、弘の両手を取って立ち上がらせた。どうやら、三人ともぐるになっているようだ。
 もじもじしているうちに、弘はステージの上に引っぱりだされてしまった。客席のみんなの目が、じっとこちらにそそがれている。
「それでは、弘くん。かくし芸はなんですか?」
 司会のインスラクターのおねえさんが、ニコニコしながらたずねた。
(かくし芸だなんて)
 何をやったらいいか、ぜんぜん頭に浮かんでこない。歌は苦手だし、ましてコントや物まねなんてできっこない。
(絶体絶命だ)
 そう思ったとき、おしりのポケットに、ハーモニカが入ったままなのを思い出した。取り出してみると、久しぶりのせいか、ずいぶん小さく感じられる。
「あっ、ハーモニカなの。なんだかなつかしいわね」
 司会のおねえさんは、さっさと一人で決めている。弘は握り具合を確かめながら、ハーモニカをハンカチでていねいにふいた。
「弘、がんばれよお」
 林さんの声がきこえた。
「がんばってー」
 美紀の声もきこえる。
「……」
勇太や隆宏たちが、がっかりしたような表情をしているのも、チラリと見えた。そうすると、少しだけ愉快な気分になれた。
「それでは、三班は、弘くんのハーモニカの演奏です」
 司会のおねえさんが、拍手をしながら紹介した。
 パチパチパチ、……。
 客席からも、盛大な拍手がおこる。
 でも、こちらを見ているみんなの目を意識すると、めまいがしてきそうだ。弘はギュッと目を閉じると、ひとつ大きく息を吸い込んだ。
 プァーパパ、プァーププ、プァーパパプー、……。
 目をつぶったまま、いっきにハーモニカを吹き始めた。
 「風に吹かれて」という曲だ。おとうさんに習った中で、一番好きな曲だ。アメリカの古いフォークソングだって、そのときおとうさんはいっていた。
 弘はかたく目を閉じたまま、一所懸命ハーモニカを吹き続けた。初めはぎこちなかったけれど、吹いているうちにだんだん落ち着いてくる。手のひらをこきざみに開いたり閉じたりしながら、音をふるわせる余裕さえ出てきた。
 初めはざわついていたみんなが、だんだん静かになってくる。
 そーっと薄目を開けてみると、みんなはじっと弘のハーモニカに聴き入っていた。
 でも、うっかりみんながこちらを見ているのに気がつくと、またくらくらしてきた。弘は、ふたたびしっかりと目をつぶった。
「きゃあーっ!」
「やだーっ!」
 突然、客席から女の子たちの悲鳴がおこった。
 思わず目を開けると、びっくりするほど大きな白い蛾が、客席の上を飛んでいる。それも1匹や2匹ではない。10匹以上もの巨大な蛾が、客席のあちこちに乱入してきたのだ。
 蛾の動きに合わせて、女の子たちが逃げまどう。
 ここぞとばかりに、いいところを見せようとして、蛾に立ちむかう男の子たち。
 会場は大騒ぎになってしまった。
 ポトッ。
 そのとき、弘の肩に、天井から何かが落ちてきた。
(枯れ枝かな)
と、思った。
 でも、その10センチ以上はある「ムシ」は、長い足をゆっくりと動かし始めた。
「ギエーッ!」
 弘は悲鳴をあげると、けんめいにハーモニカで払い落として逃げ出した。
「あっ、ナナフシだ」
 誰かが、うれしそうにいっているのが聞こえてきた。

 消灯時間が過ぎても、隆宏と大地がおしゃべりしていて、弘はなかなか寝つけなかった。
「うちの班じゃ。やっぱり美登里が、いちばんかわいいんじゃないか」
「あんなのがきだよ。それより、7班に、亜矢って子がいるけど、なかなかいいんじゃない」
「そうそう」
 さかんに、女の子たちのコンテストをやっている。
なんとなくそれを聞いていると、急に美紀の笑顔がうかんできた。ステージからの帰りも、弘は美紀と一緒だった。
「ハーモニカ、とっても良かったね。最後まできけなくって、残念だったけど」
 隙間だらけの前歯を見せて、美紀は笑っていた。
「うん」
 そのときも、弘はただうなずいただけだった。
「それに、男の子だからって、アウトドアが得意でなきゃいけないってことはないよ」
 別れ際に、美紀はそういってはげましてくれた。
 そんなことを考えていると、ますます眠れなくなってくる。それに、チャックを開けたままとはいえ、寝袋の中では狭くて寝返りもうてない。小石はすっかり取り除いたはずなのに、背中に何かがあたるような気もする。
 でも、いつのまにか、弘は眠りに落ちていた。

 ジリジリジリジリ、……。
 いきなりすぐそばで大きな音がしたので、弘は眼をさましてしまった。
 ジリジリジリジリ、……。
 また、目覚ましのような大きな音がした。
「うわーっ」
 弘はびっくりしてはねおきた。
 すぐそばで、何か虫が鳴いている。どうやらテントの中のようだ。
 外でつけたままになっているランタンの明かりで、テントの中もうすぼんやりとは見える。
 弘は、キョロキョロとあたりを見まわした。
 でも、虫の姿はどこにも見あたらない。隣の勇太も、隆宏と大地も、ぐっすり眠っているのか、起き出してこなかった。
 寝袋からはい出て、あたりをひっくり返してみる。
 でも、何も見つからない。
 弘も、おそるおそるまた寝袋に入って、横になった。
 ジリジリジリジリ、……。
 虫は、またすぐに鳴きだした。
すぐそばに虫がいると思うと、弘はなかなか眠れなくなってしまった。

 長く苦しい夜が、ようやく終わりに近づいた。あれから弘はときどきうとうとしただけで、とうとうぐっすりとは眠ることができなかった。やっと眠りかかったと思うと、また虫が鳴き出すのだ。
 ジリジリジリジリ、……。
 夜明けのうすあかりの中で、またまた虫が鳴き出した。ようやく慣れてきたのか、あまり怖くなくなってきている。
 でも、すっかり目がさめてしまった。
 弘は、もう一度虫を探してみることにした。
ジリジリジリジリ、……。
どうやら、隣で寝ている勇太の顔の近くで鳴いているようだ。
(よく平気で寝てられるなあ)
と、思って、しみじみと勇太の顔をながめた。
 ジリジリジリジリ、……。
 また鳴き出したとき、ようやく気がついた。
 ジリジリ虫の正体は、「勇太の歯ぎしり」だったのだ。勇太は、気持ちよさそうな顔をして、歯ぎしりを続けている。
(くそーっ、おかげで、こっちはぐっすり眠ることができなかったじゃないか)
 弘は、そばに脱ぎ捨ててあった勇太のパンツを、そっと顔にかぶせてやった。

 とうとう弘は、眠るのをあきらめてテントを抜け出した。
 川の方へぶらぶら歩いていくと、大きな石がごろごろしている。弘は、川のほとりにあったオムスビのような形の石に腰をおろした。
 寝不足でぼんやりした頭が、朝のひんやりした空気でだんだんはっきりしてくる。起きたころには、あたりを取り巻いていた白いもやも、山の上の方に残っているだけだ。
 弘は、川の流れる音がすごく大きいのにびっくりしていた。
昨日、みんなと一緒のときは、ぜんぜん気づかなかった。まわりに人がいないせいか、今はあたり一面に響き渡っている。
 ペチャクチャ、ペチャクチャ、……。
 まるで終わりのないおしゃべりをしているかのようにして、川は流れていた。弘は、一人で川のおしゃべりに耳をかたむけていた。
 ガサガサ。
 急に物音がして振り返ると、キャンプ場のごみすて場に、何か動物がきている。こげ茶色の背中が見える。
(のら犬かな)
と、思った瞬間、顔を上げた動物と目があって、弘はドキンとした。
(タヌキ!?)
 丸々とした体、頭の上にチョコンとつき出た耳。黒くふちどりされた小さな目で、ゆだんなくこちらの様子をうかがっている。
 弘は石から腰を浮かして、じっとタヌキを見ながら逃げられるように身構えた。
(かみつかれないかな)
と、思って、内心ビクビクだったのだ。
 でも、タヌキは弘から目をはなすと、またゴミすて場の中に顔をつっこんだ。どうやら、夕べの残飯か何かを食べているらしい。
 タヌキが危害を加えないことがわかると、弘もまたオムスビ石に腰をおろした。
 川は相変わらず、ペチャクチャ、ガヤガヤと、騒々しく流れている。
いつのまにか、もやがすっかりはれて、頭の上には真っ青な空が広がっている。今日も暑くなりそうだ。
 川のざわめきをききながら、弘はけんめいに何かを食べているタヌキをながめていた。すると、頭の中がだんだんシーンとして、爽快な気分になってくる。こんなことは、初めての経験だった。
(キャンプも、悪いことばっかりじゃないな)
 弘は、そんなことをぼんやり考え始めていた。




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おねえちゃんの天丼

2020-06-15 09:37:34 | 作品
 地下鉄の駅を出ると、地上はムッとするほどの暑さだった。梅雨明けの太陽は、今までのうっぷんをはらすのように、ギラギラと光っている。
 表通りから二本裏道に入った所に、おねえちゃんが今月から勤め始めた会社はあった。
 ぼくとおかあちゃんは、会社の入ったビルの前で、もう一度ハンカチで汗をぬぐった。
 そのビルは、八階建てぐらいの古い灰色の建物だった。壁の所々に、ひび割れを補修した跡がミミズのようにはっている。
 重いドアを開けて中に入ると、嬉しいことに冷房がよくきいていた。一階は、右手がロマンドという名の喫茶店で、左手は花屋になっている。正面のエレベーターの横には、二階から八階までに、どんな会社が入っているかを示す掲示版がはめ込まれていた。
 おねえちゃんの勤める会社は、他の不動産会社や警備会社と一緒に六階にあった。
 壁の時計は、十二時五分前を示している。おねえちゃんとの約束の時刻は、十二時五分過ぎだ。まだ十分もある。
 ぼくは狭いロビーをぶらぶら歩きながら、喫茶店のショーケースに並べられたケーキを眺めたり、花屋の店先の色とりどりの花束に付けられた名札を読んだりしていた。
 おかあちゃんは、今にもおねえちゃんがそこから出てくるかのように、エレベーターの入り口をジーッとにらんでいる。
(あれ?)
 五分ほどたったとき、思いがけずにビルの外からおねえちゃんが入ってきた。小走りにこちらの方に駆け寄ってくる。
「真由美、どうしたの?」
 おかあちゃんがたずねると、
「ごめん、ごめん。ぎりぎりになって、小包で送る物があってね。急に、郵便局へ行かなきゃならなくなっちゃって」
 急いで来たらしく、まだ息をはずませている。おねえちゃんの額にも、鼻の頭にも、小さな汗がびっしりとついていた。この暑い中を走って行って来たのかもしれない。
「すぐに着替えてくるから」
 そういえば、会社の制服なのか、見慣れない水色のワンピースを着ている。なんだか、急に大人になったようで、ぼくには少しまぶしかった。
「じゃあ、行ってくるね」
 おねえちゃんは、こちらに向かって小さく手を振りながら、エレベーターに飛び乗った。
「急がなくてもいいよ。きちんと仕事を済ませてからでいいからね」
 おかあちゃんが、あわてたようにおねえちゃんにいっていた。

 壁にかけられた大きな時計が、十二時をすぎた。
土曜日の退社時刻になったのか、エレベーターからは勤め帰りの人たちがどんどんと降りてくるようになった。
 みんなはぼくたちの前を通って、足早にビルの外に向かっていく。
 おかあちゃんは、そんな一人ひとりに、ペコペコと頭を下げ出した。
 気づかずに、そのまま通り過ぎていく中年の男の人たち。びっくりした後で、クスクス笑い出した若い女の人たち。
 でも、中には、ていねいにあいさつを返していく人たちもいる。
「お世話様です」
 そんな時は、おかあちゃんはもう一度ていねいにあいさつしていた。
「今の人たち、おねえちゃんの会社の人?」
 エレベーターの扉が閉まって人がとぎれたとき、ぼくはそっとおかあちゃんにたずねた。
「ううん。でも、中に真由美の会社の人たちもいたらいけないと思ってさ」
 おかあちゃんは、いつになく緊張した顔付きで答えた。
 その後も、エレベーターが停まって人が出てくるたびに、おかあちゃんは頭を下げ続けた。
ぽくは、そんなおかあちゃんを、少し離れた所から見ていた。
 チン。
 また、エレベーターが停まった。
 いっせいに、たくさんの人たちがはき出されてくる。おかあちゃんは、また一人ひとりに頭を下げ始めた。
 そのときだ。ようやくおねえちゃんが出てきた。
「おかあさん。何ペコペコしてるの?」
 頭を下げ続けているおかあちゃんを見て、不思議そうな顔をしていた。
「いえね。お前の会社の人がいたらと思ってさ」
 おかあさんが説明すると、
「嫌ねえ。そんなことする必要ないのに。それよりお待たせ。おなかすいたでしょ。早く行こう」
と、おねえちゃんは笑いながらいった。
「ちゃんと仕事は終わったのかい?」
 おかあちゃんが、心配そうにたずねた。
「大丈夫よ。もうやることはないから」
 おねえちゃんが、安心させるように元気にいった。
「さよならあ」
 おねえちゃんは、入り口に立っていたビルの警備員の人に、大きな声であいさつした。
「さよなら、山口さん」
 警備員のおじさんは、きちんと敬礼しておねえちゃんにあいさつを返した。おねえちゃんの名前を、ちゃんと覚えているようだ。おかあちゃんが、少し安心したような表情になった。

 おねえちゃんは、今年の春に高校を卒業したばかりだ。小学校四年生のぼくよりは、九才も年上になる。
 うちのおとうちゃんは、ぼくが赤ちゃんの時に死んでしまっていた。それで、仕事の忙しいおかあちゃんの代わりに、おねえちゃんがぼくの面倒を見てくれていた。
 小学校の保護者会や運動会にも、いつもおかあちゃんの代わりに来てくれていた。
 だから、そそっかしい友だちに、
「おまえんちのおかあさんって、すげえ若いなあ」
って、間違えられたこともある。
 本当は、おねえちゃんは四月から社会人になるはずだった。それが、七月から勤めるようになったのには訳がある。

救急病院から電話があったのは、去年のクリスマスイブのことだった。
「はい、山口ですが、……」
 電話に出たおかあちゃんの顔が、みるみるこわばったのを今でも覚えている。
 友だちの家でのクリスマスパーティーの帰りに、おねえちゃんは自転車に乗っていて車にはねられてしまったのだ。
 おかあちゃんは、電話を切るとすぐに出かける支度を始めた。
「おかあちゃん、ぼくも行く」
 ぼくがそういうと、おかあちゃんは黙ってうなずいた。
 ぼくたちはバス通りまで出て、タクシーをひろった。
「協同病院まで、急いでお願いします」
 おかあちゃんは、必死の形相で運転手に頼んだ。
 ぼくたちが病院に着いたとき、おねえちゃんの手術はまだ続いていた。
 古くてクッションがペチャンコになったソファーに腰を下ろして、ぼくはじっと下を見ていた。廊下のリノリウムの床は、傷で所々タイルが欠けている。
「ううう、……。」
 隣から、低く押し殺したうめき声が聞こえた。
 おかあちゃんだ。
 おかあちゃんは泣きながら、ぼくの左手をギューッとつかんだ。
 ぼくは、両手でしっかりとおかあちゃんの手を握りながら、
(しっかりしなくちゃ、ぼくがしっかりしなくちゃ)
って、心の中でつぶやいていた。
「おとうさん、真由美を助けて、……、真由美を、……」
 おかあちゃんは大粒の涙をポロポロこぼしながら、天国のおとうちゃんに、おねえちゃんのことを何度もお願いしている。
 ぼくはギュッとつぶったおかあちゃんの目じりに、深いしわが何本もあることに初めて気がついた。

 夜中近くになって、ようやく手術室からおねえちゃんが出てきた。移動ベッドに寝かされて、静かに眠っている。白い包帯を、頭にぐるぐる巻きにされていた。
「真由美っ!」
 おかあちゃんが叫んだ。
「大丈夫ですよ。麻酔で眠っているだけですから」
 ベッドを押してきた看護師さんが、優しくいってくれた。
 ぼくはそのうしろで、ぼうぜんとして立ちつくしていた。九才も年下のぼくにとっては、いつも絶対的に強く頼りがいがあったおねえちゃん。そのおねえちゃんが、今は力なくベッドに横たわっている。その事が、どうしても信じられなかった。
看護師さんたちは、移動ベッドを押して突き当りのエレベーターに向かった。ぼくは、おかあちゃんと一緒にその後を追っていった。
「それでは、これから集中治療室にまいりますので、ご家族の方はここまでにお願いします」
看護師さんは、やってきたエレベーターの中に、移動ベッドを入れた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
 おかあちゃんは、深々と頭を下げていた。エレベーターのドアが閉まって、おねえちゃんの姿が見えなくなった。

 全身打撲と頭部裂傷と右足の複雑骨折で、全治六か月の重傷。それが診断結果だった。
 幸い、麻酔から覚めると意識ははっきりしていたので、すぐに集中治療室から一般の病室に移ることができた。
 その後は、若さとバトミントン部で鍛えた体力のおかげか、担当のお医者さんもびっくりするくらいに、おねえちゃんは順調に回復していった。
 入院して四ヶ月足らずの、ゴールデンウィーク前には退院することになった。
 出席日数不足で心配していた高校の卒業も、担任の先生たちが努力してくれたおかげで、なんとか病室で卒業証書を受け取ることができていた。
 でも、せっかく内定をもらっていた銀行への就職は、パーになってしまった。
 その事が決まったときも、おかあちゃんがいる間は、おねえちゃんは明るくふるまっていた。
 でも、後でぼくと二人きりになったときには、
(おかあちゃんにすまない)
って、けがをしてから初めて涙を見せていた。
 退院後のおねえちゃんは、家事をやりながら通院して、毎日リハビリの訓練を受けていた。
 初めは松葉杖を、少し良くなってからはステッキをついて、複雑骨折だった右足を引きずりながら、朝早くでかけていく。
 そんなおねえちゃんのうしろ姿を、ぼくは黙って見送っていた。

 先月になって、おねえちゃんの勤め先が、ようやく見つかった。保険の外交をやっているおかあちゃんが、知り合いの社長さんに頼んでやっと決めてきたのだ。
 会社の名前は吉野ワールドインポート。住所は東京のど真ん中の日本橋。
名前も住所もすごいけれど、本当はぜんぶで二十人ぐらいの小さな会社だ。給料も、内定していた銀行よりは、ずっと少ないらしい。
 それでも、おねえちゃんは、
「おかあさん、ありがとう」
って、とっても喜んでいた。
「七月からで、本当に大丈夫?」
 おかあちゃんは、まだ心配そうだった。
「大丈夫、大丈夫。それまでに、しっかりリハビリするから」
 おねえちゃんは、張り切って七月から勤めることになった。
 七月一日、初出勤の朝。おねえちゃんは、玄関の鏡の前で、頭の手術で刈られてしまい、ようやくまた伸びてきた前髪を何度も何度もブラシでとかしていた。前髪の陰には、手術で縫い合わせた傷跡がまだくっきりと残っている。
「それじゃあ、行ってきまーす。」
 おねえちゃんは大きな声でぼくたちにいうと、元気よく会社へ出かけていった。

 外はますます暑くなっている。
 ビルを出て五分もたたないうちに、またびっしょりと汗をかいてしまった。
 先にたって歩いていくおねえちゃんは、まだ少し右足を引きずっている。
 『天丼の店、村井』
 ここが、おねえちゃんが今日、ぼくたちにお昼ごはんをごちそうしてくれるお店だ。会社よりさらに裏通りにあって、すごく小さかった。
「いらっしゃい」
 中に入ると、元気のいい声が迎えてくれた。十人ぐらいがすわれるカウンターと、四人がけのテーブル席が三つ。奥には、小さなお座敷もあるようだ。
 カウンター席は、お客さんでいっぱいだった。
 でも、テーブルの方はひとつ空いていた。
「良かったあ。今日は土曜日だからまだましだけど、いつもは満員なのよ」
 おねえちゃんは、先にたってテーブル席に腰を下ろした。
 ぼくとおかあちゃんは、反対側に並んで座った。
「ここの天丼。すごーくおいしいんだよ」
 入社した日に、社長さんが、
「体に気を付けてがんばりなさい」
って、ここでごちそうしてくれたんだそうだ。

「何にする?」
 テーブルの端に置かれた『御品書き』を、おねえちゃんはこちら向きに開いた。
 天丼を売り物にしている店らしく、いちばん最初に、並天丼 千円、上天丼 千八百円と、大きく出ている。うしろの方には、てんぷら盛り合せやてんぷらごはんものっていた。
 壁には、お昼どきだけのランチメニューもはってある。ランチ天丼 六百円、ランチてんぷら定食 八百円。こちらの方がずっと安い。
「ランチでいいよ」
 『御品書き』を閉じて、おかあちゃんがいった。テーブルの下でひざをつつかれて、ぼくもあわてて大きくうなずいた。
「何いってんのよ。わざわざ来てもらったのに」
 おねえちゃんは、おこったように大きな声を出した。
「じゃあ、あたしが決めるわよ。二人とも、上天丼でいいわよね」
「散財させちゃって、悪いねえ」
 おかあちゃんが、すまなそうにいった。
「お願いしまーす」
 おねえちゃんは、右手を上げてお店の人に合図をした。
「お決まりですか?」
 眼鏡をかけた女の人が、そばにきてたずねると、
「上天丼ふたつ」
 おねえちゃんは、「御品書き」を指差して元気よくいった。
(えっ、ふたつ?)
「わたしは並でいいわ」
 おねえちゃんは、少し小さな声で続けた。

 お店の人が持ってきた冷たい麦茶をごくごくとおいしそうに飲み干すと、おねえちゃんは元気よく話し出した。
「プレゼントを買うのは、高島屋がいい? それとも三越?」
 初月給で、家族みんなにプレゼントする。この一週間、おねえちゃんはこの事をずっと繰り返しいっていた。
 おかあちゃんには財布。おばあちゃんには肩こりに効くという磁気ネックレス。入院中のおじいちゃんには好きな小説の朗読のCD。
「いいよ、いいよ。おまえがまた元気になってくれただけで、みんなは嬉しいんだから」
 おかあちゃんがそういっても、おねえちゃんはがんとしてプレゼントすると言い張っていた。
 ぼくにも万年筆を買ってくれるそうだ。
 おねえちゃんにいわせると、
「あたしはルックスがいいから勉強しなくてもいいけど、おまえは顔が悪いから頭で勝負しなくちゃだめ。だから、万年筆でしっかり勉強して」
とのことだ。
 パソコンやインターネットの時代に、万年筆と勉強とはまったく関係ないような気もしたが、せっかくだからもらっておくことにしていた。
 ひとしきり話してから、おねえちゃんはハンドバックの中をごそごそと捜し出した。
「はい、これが、あたしの初めてのお給料よ」
 おねえちゃんは、茶色い紙封筒をおかあちゃんに差し出した。封はまだ切られていない。会社でもらったままのようだ。
「ごくろうさま」
 おかあちゃんは、額の上で押し戴くような仕草をして受け取った。
「おかあちゃん、開けてみて。今月だけ現金でもらったの。ちゃんと入っているかなあ。銀行振り込みは、来月からなんだって」
 おねえちゃんは、待ちきれないように身を乗り出している。ずっと、中を見たくて、うずうずしていたのかもしれない。
「ううん。せっかくだから、このまま仏壇のおとうちゃんに見せようよ」
 おかあちゃんは、大事そうに給料袋を持っている。
「でも、そしたら、プレゼント買えなくなっちゃうよ」
 おねえちゃんが文句をいった。
「うん。それは、おかあちゃんが、立て替えておくからさ」
 おかあちゃんは、あくまでも封を開けるつもりはないようだ。
 給料袋には、クリップで小さな白い紙がとめてある。
「これ、なあに?」
 ぼくは、おねえちゃんにたずねた。
「あっ、それ、給与の明細だって。見てもいいよ」
 おかあちゃんは明細を受け取ると、真剣な表情で見ていた。
 ぼくは、その横からそっとのぞきこんだ。
 「所得税」、「健康保険」、「社会保険」など、たくさんの欄がある。細かな数字が、びっしりと書きこまれていた。
 七万八千四百六十二円。
 いろいろ差し引かれて、けっきょくこれだけが、記念すべきおねえちゃんの初給料だった。
「へへっ。一ヵ月分まるまる貰えるのかなと思ったら、今月は二十三日分だけなんだって。それにいろいろ引かれちゃうのね。少し当てがはずれちゃった」
 そういって、ニコッと笑って見せた。
 おねえちゃんは、今月から家に食費も入れるっていっていた。ここのお金を払って、みんなのプレゼントを買ったら、ぜんぶなくなってしまうかもしれない。楽しみにしていた自分の洋服までは、とてもまわりそうになかった。

「おまちどうさまでした」
 天丼が運ばれてきた。
「上天丼の方は?」
 お店の人がたずねた。
「そちら側の二人」
 おねえちゃんが答えた。
 ぼくとおかあちゃんの前におかれた上天丼は、ふたの下から大きな海老のしっぽが二つもはみ出している。
 少し遅れてやってきたおねえちゃんの並天丼は、ふたがピッタリ閉まっていた。
「早く食べて、食べて」
 おねえちゃんは、ぼくたちをせかせるように、自分のふたをすぐに取った。
 続いて、おかあちゃんとぼくがふたを取った。
 ファーッと、うまそうな湯気が立ち上った。
 中には、丼からはみ出している大きな海老が二本と、かき揚げ、野菜、魚などのてんぷらが、押し合いへし合いしている。
 すごくおいしそうだ。
 チラッとおねえちゃんの丼の中をのぞくと、海老は一本だけで、かき揚げもぼくたちのよりずっと小さかった。
 それでも、おねえちゃんは、満足そうにニコニコしていた。
「おいしそうねえ」
 おかあちゃんは嬉しそうにいいながら、自分の丼から海老を一匹つまみあげた。
「でも、わたしにはちょっと多いから」
 おかあちゃんは、その海老をおねえちゃんの丼に載せようとした。
「だめだめ。おかあちゃん、食べて」
 おねえちゃんは、怒ったような声でいった。そして、両手で丼にふたをするようにおおって、海老が置かれるのを防いだ。
「……、そうお」
 おかあちゃんは、しばらく海老を宙に浮かしたままだった。 
 でも、やがて自分の丼の端にそれを下ろした。
「いっただきまーす」
 おねえちゃんは大きな声を出すと、真っ先に天丼を食べ始めた。
「いただきます」
 ぼくは、おかあちゃんと声を合わせていいながら、大きな海老のてんぷらをガブッとかじった。
 てんぷらは、おねえちゃんが自慢したとおりにおいしかった。
 でも、続いてかきこんだごはんは、ちょっとだけしょっぱい味がした。




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さよなら、シュウチ

2020-06-01 09:44:25 | 作品
 両手でパッパッと砂を払うと、ぼくはアスファルトの道路に耳を押し当てて横になった。
 向こうから自動車が走ってくる。4WDのバギー、オフロード専用のやつだ。
 バギーは、ぐんぐんスピードを上げて近づいてくる。
「わーっ!」
 そばにいた男の子たちが、叫び声をあげる。
 ぶつかると思った瞬間、ぼくは思わず目をつぶってしまった。
でも、バギーは鋭く左にカーブして、ぼくの頭すれすれをかすめて走り去っていく。幅広のタイヤが巻き上げた砂埃が、鼻をツーンと刺激した。
「ほーっ!」
 みんなの声が、今度は感心したようなため息に変わった。
「ミッタン、だいじょうぶかあ!」
 向こうから、修司が大声を出しながら走ってきた。手には、RC(ラジコン)のコントローラーを握りしめている。
そう、さっきのバギーはRCの模型だったのだ。
「ああ。でも、ギリギリだったぜ」
 ぼくは道路から跳ね起きると、ニッコリしながら答えた。

今度は、ぼくの番だ。愛車のサンドホッパーⅡを手に、二十メートル先のスタート地点に向かった。
 RCによる腕試し。これは、ぼくと修司がみんなの前でよくやるデモンストレーションだ。うまくいけば観衆をアッと言わせることができる。
 スタート地点に立った時、ぼくの心臓はドキドキしてきた。もし、失敗して、修司の顔や頭に激突させたら、いくら模型とはいえけがをさせてしまうかもしれない。
そう思うと、何度やってもスタート前は緊張してしまう。
 それに引き替え、目標になっている時はまったく平気だった。修司のRCの腕前に、絶対の信頼をおいているからだ。
「シュウチ、いくぞ」
 さっきの地点に横になった修司に、声をかけた。
シュウチというのは、修司の呼び名だ。ぼくたちは、お互いを「シュウチ」、「ミッタン(ぼくの名前が道隆だからだ)」と、呼び合っている。
 ぼくは、コントローラーを操作して、サンドホッパーⅡをスタートさせた。
 すぐに全速力になった。ぐんぐん修司に近づいていく。
「わあーっ!」
 また観衆から歓声があがった。
 次の瞬間、サンドホッパーⅡは、修司のだいぶ手前でカーブしてしまっていた。

 かあさんによると、修司に初めて出会ったのは、二人とも一才になる前のことだという。
 近くの公園の砂場に、双方のおかあさんにバギーに乗せられてやってきていたのだ。
 それ以来、修司とはずっと一緒だった。
 居間の壁に、ベタベタとはってあるぼくのいろいろな写真。そのほとんどに、修司も写っている。
 若葉幼稚園の入園式、運動会、遠足、雪ん子発表会、……。
 いつも、修司と一緒だった。
 年中のナデシコ組でも、年長のバラ組でも同じクラスだったから、たっぷり二年分の写真がある。
 それから、そろって若葉小学校へ。ここでも、一年の時からずっと同じクラスだった。
 入学式。運動会。遠足、学芸会、……。
 もううんざりするほど一緒の写真がある。
 スイミングスクールに入ったのも一緒。1級になって辞めたのさえ同じ時だった。
 今、ぼくたちは小学校六年生になったところだから、もう十年以上の付き合いになる。
 RCにのめり込むようになったのは、ぼくの方が一週間ほど早かった。二年前に、従兄の健太にいちゃんから、二台のRCをもらったのだ。
「ミッタン、これあげるよ。もう使わないから」
 健太にいちゃんは、照れくさそうに笑いながら言った。
「えっ?」
 ぼくは、びっくりしてしまった。これらのRCを、健太にいちゃんがどんなに大事にしていたか、よく知っていたからだ。勝手に触って、プロレス技をかけられてこっぴどく痛めつけられたこともある。
「どうして? もう使わないの?」
 ぼくは、健太にいちゃんにたずねた。
「うん。中学に入ったら、本格的にサッカーをやるんだ。毎日、夕方遅くまで練習があるし、土日も試合なんだ」
「ふーん」
 サッカーをやるからって、どうしてRCをやめてしまうのかよくわからなかった。
でも、とりあえず納得したような顔をしておいた。だって、RCをもらったのが、うれしくてたまらなかったんだもの。
 その時、ぼくもRCを持っていた。だけど、それは、健太にいちゃんのやつに比べれば、まったくチャチなオモチャみたいのだった。家の中でならなんとかなるけれど、外で走らせると、砂や障害物なんかですぐに止まってしまう。だから、今まではあまりRCに熱中していなかった。
「おにいちゃん、ありがとう」
 ぼくがいうと、健太にいちゃんはまた照れくさそうに笑っていた。
(あっ!) 
ぼくは初めて気がついた。いつもはくりくり坊主頭だった健太にいちゃんが、前髪を少し伸ばしていることに。ひたいの上のところが、ひさしのように少しとがっている。スポーツ刈りってやつだろう。それにいつのまにか、背もすごく高くなっている。もしかすると、うちのかあさんよりも大きいかもしれない。ぼくには、なんだか健太にいちゃんが見知らぬ大人になってしまったかのように、まぶしく感じられた。

 もらった二台のRCのうち一台は、一週間後に修司にあげた。ただし、古い方のやつだけど。
こういうことは、一人で遊ぶより仲間がいた方がだんぜん面白い。
「ほんとにもらっちゃって、いいの?」
 修司は、こういった時にいつも浮かべる、はにかんだような笑顔になった。こうして、ぼくも修司も本格的なRCを手に入れたってわけだ。
 すぐに、ぼくはRCに熱中するようになった。
毎月のこずかい、クリスマスプレゼント、お年玉などを、すべてRCにつぎこんだ。本体以外にも、バッテリー、チューンアップ(改造して性能を上げること)部品など、けっこうお金がかかるのだ。それに、RCの知識をつけるために雑誌や専門書も買わなければならない。そのために、コミックスやゲームソフトなどは、すべて友だちから借りるだけでがまんすることにした。
 修司も、ぼくと同様にRCに熱中するようになった。
 でも、違っていたのは、ぼくが二年間に四回も新しいRCを買ったのに、修司は二回だけだったことだ。
 高性能の新製品が出るたびに、ぼくはついついそれを買ってしまう。ところが、修司の方は、いちど手にしたRCを、徹底的にチューンアップして使い込むのだ。
 今、修司が使っているグラスブラスターは、ぼくのサンドホッパーⅡより一世代古いマシンだ。
でも、公園などで競走させてみると、どうもぼくの方が、少し分が悪かった。

 ルルルー、ルルルー、……。
「はい」
 修司のおかあさんが電話にでた。
「あの、石川ですが、シュウチいますか?」
 今週のRCの大会について、相談するつもりだった。
「あら、ミッタン。今、修司はいないのよ。今日は塾の日だから」
「えっ、塾?」
 思わずびっくりして、修司のおかあさんに聞き返してしまった。ぼくも修司も、今まで塾なんかに通ったことはなかった。
「あら、修司から聞いてない? 急に塾に通いたいって言い出して、今週から行ってるのよ。そういえば、珍しくミッタンとは一緒じゃないって、言ってたけど」
 修司のおかあさんも、意外そうな感じだった。
 でも、もっと驚かされたのはこっちの方だ。そんなこと、ぜんぜん聞いていなかった。
「そうですか、わかりました」
受話器を置いてからも、ぼくはなんだかモヤモヤした気持ちだった。
(シュウチの奴、塾へ通うなんて、どういう風の吹きまわしだろう。それに、ぼくに内緒だなんて)

 翌日、学校で会った時に、ぼくはすぐに修司にたずねた。
「シュウチ、塾に通っているんだって?」
「えっ、ああ、ちょっとね」
 修司は、少しあわてたように答えた。
「どうして、急にそんな気になったんだい?」
「うん、私立を受けようかと思っているんだ」
 修司は、さりげなさそうに答えた。
「えっ、私立だって!」
 ぼくの方は、またびっくりさせられてしまった。
ぼくたちの学校では、女子にはけっこう私立中学を受ける子もいたけれど、男子で受験するのは少数派だった。修司も、ぼくと同じように地元の公立中学にすすむのだと思っていた。
「どうしたんだよ。親に受けろって、言われたのか?」
「いや、そうじゃないんだけど」
 修司は、ちょっと困ったような表情を浮かべていた。
「じゃあ、どうしてなんだよ」
 ぼくが重ねてたずねても、とうとう最後まで、修司ははっきりした理由は答えなかった。

 それから、数日後のことだった。
その日、ぼくは自転車を飛ばして、駅前の模型店へRCのパーツを買いに行っていた。
 店を出たとき、ロータリーの向こう側の公園に修司がいることに気がついた。
(シュウチ!)
 すんでのところで、声をかけるのを思いとどまった。誰かと一緒だったからだ。
よく見ると、3組の村越香奈枝さんだった。二人は、楽しそうに何かを話している。
 ぼくは、離れたところからじっと二人をながめていた。
 しばらくして、二人は並んで公園から出てきた。
(あっ!)
 そのとき、ぼくは気づいてしまったのだ。二人が手をつないでいることを。
 その時、前から犬を連れた女の人がやって来た。二人は、パッと手を離して少し距離をおいた。
 でも、女の人が通り過ぎると、二人はまた寄り添いながら手をつないだ。
 ぼくは思わずコソコソと、また模型店の中に戻ってしまった。とても修司に声なんかかけられない。関係ないのに、なんだかぼくの方が照れてしまう。
 二人はこちらに向かって歩いてきて、駅のそばのビルまでくると、またつないでいた手を離した。そして、そのままビルの中に入っていた。
その時になって初めて、そのビルに修司が行っているという進学塾があることに気づいた。

(シュウチに彼女がいたなんて!)
 自転車をゆっくり走らせながら、ぼくはまだ驚いていた。そういえば、修司はいつもバレンタインチョコもたくさんもらっていた。クラスの男子でも、もてるほうだと思う。その点は、せいぜい隣の席の女の子から義理チョコをもらうだけのぼくとはぜんぜん違う。
 でも、付き合っている彼女がいるなんて、今までぜんぜん気がつかなかった。もしかしたら、塾に入ったのも彼女がいたからかもしれない。
(チェッ、女の子とでれでれしやがって)
 なんだか、無性に腹が立ってきた。
 家に戻ると、すぐに情報通のケンちゃんに電話した。
「なんだ、ミッタン、知らなかったのか。3組の女子の間では、もう有名な話だぜ」
 やっぱり、バレンタインデーのチョコがきっかけだったようだ。そのときに、香奈枝さんの方から告白されて、修司もOKしたらしい。
「もてる奴は、いいよなあ」
 ケンちゃんは、うらやましそうな声を出していた。
さらに、ケンちゃんの情報では、修司は彼女と同じ私立を受けるのだという。そのために、塾へ通いだしたに違いない。
(それならそうと、なんでぼくに話してくれないんだろう)
 ぼくは、まだモヤモヤした気分のまま電話をきった。

「よおっ」
 バス停のところで、先にきていた修司にいつものように声をかけた。
「やあっ」
 修司もすぐに返事をかえした。こちらもいつもと変わりはない。昨日、香奈枝さんと一緒だったところを見られたとは思っていないのだろう。ぼくの方も、二人を見たことは、修司に黙っていようと思っていた。
 修司も、ぼくと同じようなナップザックをせおっている。中には、RCやコントローラー、それに調整用の工具などがぎっしりとつまっていた。これから、二人でRCの大会に出場しにいくのだ。
 今日の大会は、あちこちで開かれている草レースとはわけがちがう。大手模型メーカーが主催している全国大会の予選だった。今日の県大会で上位に入れば、関東ブロックへ。そして、そこでも上位に入れば、東京で開かれる全国大会に出場できる。
すでに始まっている各地の大会での入賞者は、まんが雑誌に写真入りで紹介されていた。全国大会は、テレビ中継までおこなわれる予定になっている。
 会場は、ターミナル駅にあるデパートだ。家からは、バスと電車を乗り継いで一時間近くもかかる。こんな本格的な大会に参加するのは、二人とも初めてだった。
「わくわくするなあ」
 ぼくは、いささか興奮気味だった。昨日の夜は遅くまで寝付けなかった。
「うん」
 それにひきかえ、修司の様子はいつもと変わらないようだった。

 大会の会場になったデパートの屋上には、すでにたくさんの小学生たちが集まっていた。みんな、それぞれチューンアップをかさねた、じまんの愛車を手にしている。
 会場のまんなかには、すでに今日のレースの舞台になる特設コースが作られていた。
直線とカーブを組み合わせた一周五十メートルのコース。レースは、このコースを五周してあらそわれる。コースのところどころには、木やタイヤで作った障害物がおかれている。ベニヤ板のジャンプ台も二か所あった。
 ぼくと修司は、たんねんにコースを下見した。
「どうだ?」
 ぼくは、修司にきいてみた。
「ジャンプのあとに、すぐ右カーブするところがあるだろ。あそこが要注意だな」
「うん。それと、木でデコボコになってるところが、けっこうむずかしいんじゃないか?」
「そうだな。ギアはローに落としたほうがいいよ」
 ぼくたちは、会場のはじに荷物をおろすと、ウォーミングアップをはじめた。
それぞれの愛車にバッテリーを装着して、軽く走らせてみる。裏返しにして、サスペンションやハンドル、ブレーキなどをチェックする。
そうやって準備をしていると、だんだん大会への興奮が高まってきた。
 今日の大会には、ぜんぶで二百人以上も出場するらしい。一レースは四台ずつ。予選、準々決勝、準決勝、決勝と、優勝するまでには、四レースも戦わなければならない。優勝できなくても、決勝戦まですすんだ四人は、全員が関東大会に出場できる。
 しかし、決勝まで残るためには、それまでの三レースを、すべて一位でクリアしなければならないのだ。
 本部になっているテントの前には、上位入賞者に贈られるトロフィーや盾などがならべられていた。そのそばには、予選出場者の組み合わせ表もはられている。それによると、ぼくと修司は決勝まですすまないと、レースで顔をあわせることはないようだ。
「シュウチ、決勝であおうぜ」
 ぼくは、修司にVサインを送った。
「ああ、ミッタンもがんばれよ」
 修司も、にっこりしてそう答えた。

 バーン。
スターターのピストルで、四台のRCがいっせいにスタートした。ぼくのサンドホッパーⅡは、ちょっと出遅れて三番手になっている。
はじめのカーブで少しふくらんで、コースの外壁にぶつかった。
 でも、すぐにバックできりかえして、先行する二台を追っかける。ヘアピン、S字は、なんなく突破した。
 問題の木で作られたデコボコ道にさしかかる。ここも、修司のアドバイスどおりにギアをローにして、しんちょうにクリアした。
 いよいよ最初のジャンプ。サンドホッパーⅡを、いきおいよくジャンプ台へつっこませた。
着地して、すぐに右カーブ。
(しまった!)
 完全に着地する前にハンドルを切ってしまったのか、サンドホッパーⅡははげしく横転してしまった。一回転半して裏返しに。後輪だけがむなしくまわっている。
 コースぞいに立っていた係りのおにいさんが、すぐに車体をおこしてくれた。急いで再スタートさせる。さいわい、故障はしていないようだ。
 しかし、その間にもう一台ぬかれて、とうとう最下位になってしまっている。
(くそーっ!)
 ぼくはくちびるを強くかみしめると、必死に先行する三台を追いかけはじめた。

 修司のレースが始まった。
ぼくはコースの横の最前列に立って、修司の愛車、グラスブラスターを応援していた。
 けっきょく、ぼくのサンドホッパーⅡは、後半の追い上げで一台抜いたものの、残念ながら三位で予選落ちしてしまっていた。
(シュウチ、がんばれよ)
 せめて修司には、予選だけでも突破してほしかった。
 グラスブラスターは好スタートをきると、快調に二位をキープしていた。先行するグリーンのシャドーランナーとも、わずか1、2メートル差だ。
 修司はいつものように、おちついてコントロールしていた。カーブやデコボコ道では、あせらずにスピードダウンして確実にクリア。ストレートコースやジャンプ台では、一気に加速している。
 二周目のコーナーで、とうとうチャンスがきた。先行していたシャドーランナーが、カーブでふくらんで外壁に接触しスピンしてしまったのだ。
グラスブラスターは、すばやくその横をすりぬけて先頭にたった。
「やったあ、シュウチ」
 ぼくは、おもわず大声を出してしまった。
 でも、修司はニコリともせずに、グラスブラスターをコントロールしていた。

 レースは四周目に入った。いぜんとしてグラスブラスターが先頭。二位の車とは、1/4周近く差がついている。
 ジャンプ台のところで、グラスブラスターは最下位の周回おくれの車に追いついた。黄色のロードビートだ。
外にふくらんだこの車をさけて、修司はインコースからぬこうとしている。
 ほとんど同時にジャンプ。
「あーっ!」
 観客からどよめきがおこった。
 ロードビートが着地と同時にスピンして、内側へつっこんだのだ。グラスブラスターは、ロードビートと内壁の間にサンドイッチになってしまった。
 バーン。
グラスブラスターが、大きくはねあがった。そしておしりからもろに地面へ激突してしまった。
 バリーン。
大きな音がしてリアウイングがわれて、遠くにふっとんだ。
「あーああっ」
 観客の声がためいきにかわる。
 ぼくはあわてて、そのそばにかけよっていった。
すぐに係りのおにいさんが、グラスブラスターをおこしてくれた。
 ところが、なかなか再スタートできない。
 スタート地点にいる修司を見ると、必死にコントローラーを操作している。
 でも、グラスブラスターはピクリとも動かなかった。どうやらモーターのあたりで、断線でもしてしまったらしい。
 とうとう係りのおにいさんが、両腕でバッテンを作った。リタイヤのサインだ。
修司は、残念そうにうなずいている。
ぼくは係りのおにいさんから、修司のかわりにグラスブラスターを受け取った。リアウイングがかけただけでなく、シャーシにも大きくひびがはいっている。地面にぶつかったときの衝撃が、いかに大きかったかわかる。
 コントローラーを手に、すぐに修司がやってきた。表情がすっかりこわばっている。思わぬ敗戦と愛車の大破で、さすがの修司もショックをうけているらしい。
 バーン。
うしろでピストルがなった。どうやら一位の車がゴールインしたらしい。
「わーっ!」
 観客からあがった大きな歓声を背に、ぼくは修司と一緒にその場を立ち去った。

「ふーっ」
 Lサイズのコーラを半分ぐらい一気にのみほすと、ぼくは大きなためいきをついた。修司はハンバーガーを手にして、まだぼんやりしているようだった。ぼくたちは会場をはなれて、屋上のはずれにあったハンバーガーショップに入っていた。
「わーっ!」
 ここからでも、レース場の歓声がはっきりときこえる。
「ちえっ、あのロードビートのやつ、シュウチにあやまったかあ?」
「ううん」
「あとでとっつかまえて、ぶんなぐってやろうか?」
「よせよ、あいつだって、わざとやったんじゃないし」
 修司は、急に真顔になってとめた。ぼくが手の早いことは、よく知っているのだ。
「そりゃ、そうだけど、おもしろくねえなあ」
 ぼくはやけくそ気味に、ダブルバーガーにかぶりついた。
「あーあ、ついてねえなあ。まあ、おれの予選落ちは実力かもしれないけど、シュウチの方は絶対に勝てたのに」
 ダブルバーガーを食べ終わったとき、ぼくはもういちどためいきをついた。
「いや、ちがうよ」
 思いがけず、修司がハッキリした声で言った。
「えっ?」
 ぼくはおどろいて、修司の顔を見た。
「ああいう事故にあうのは、やっぱり実力がないからだよ。二位とは充分に差があったんだから、あそこで無理して周回遅れのロードビートをぬくことはなかったんだよ」
 修司はきっぱりと言った。
「うん、まあ、そうかもしれないけどさ」
 ぼくはコップに残っていた氷を口にほうりこんで、いすから立ち上がった。

「わーっ!」
 コースの方では、あいかわらず熱戦が続いている。
 でも、こちらから見ていると、もう別世界のようだ。五月の風が、汗ばんだ額に気もちがよかった。
 ずっと楽しみにしてきたRCの大会。それが、あっというまに終わってしまったのだ。なんだか、すっかり気がぬけていた。
「シュウチ、来月さあ、マミヤの大会があるけど、出てみないか」
 なんとか気をふるいおこして、修司にいってみた。
「……」
 返事がなかった。
「だからさあ、もういちど練習して、マミヤの大会に出てみようよ」
 ぼくはテーブルにもどって、もういちどいった。
「いや、おれはもうやめるよ」
 いきなり修司がポツリといった。
「えっ?」
「もうRCのレースに出るのを、やめようとおもうんだ」
「どうして、あのくらいの故障なら、シャーシをぜんぶかえなくてもなおせるよ」
「……」
「もし金がないんなら、修理代を貸してもいいぜ。こないだ、おじいちゃんのところで芝刈りのバイトをやったから」
「ううん、そんなことじゃないんだ」
「じゃあ、どうしてだよ」
 ぼくがいきおいこんでたずねても、修司はそれ以上はっきりとした理由を答えようとしなかった。

 帰りの電車の中で、ぼくたちはほとんど口をきかなかった。つり皮につかまりながら、ぼくはチラチラッと修司の横顔をながめていた。
(こいつ、みんなの前ではじをかいたからって、いやになったんじゃねえだろうな)
 もしそうなら、そんないくじなしとはこっちから絶交だ。ぼくは目玉に力をこめて、修司の横顔をにらんでやった。
 でも、修司はそんなことには少しも気づかないかのように、すずしい顔をして立っている。どう見ても、あんなことでまいってしまうような、ヤワなやつには見えない。
 と、その時、ふいにぼくは、修司がいつのまにか背がすごくのびていることに気づいた。
 つり皮につかまったぼくの腕よりも、修司の方がたっぷりと余裕があるのだ。どうやら二、三センチは、ぼくより身長が高くなっている。
 ぼくは軽いショックを受けてしまった。小さいときからずっと、ぼくの方が体は大きかったのだ。ぼくは六月生れで修司は一月生れだから、赤んぼの時にぼくが大きいのはあたりまえだ。
でも、その後もずっと少しだけリードしていた。
  ぼくの家の居間の壁には、古くなった身長計がある。ぼくの二才の誕生日に、とうさんが買ってきてくれたらしい。そして、毎年、誕生日に、ひとりむすこのぼくの身長を記入するのが、わが家の習慣になっている。
 二才の時のぼくの身長は、たった八十四センチしかなかった。去年、十一才の誕生日の時は、百五十三センチ。九年間で倍近くになったわけだ。
 五才の時からは、ぼくだけでなく同じ日の修司の身長も記録されている。修司がいつも一緒にはかりたがったからだ。その記録は、いつも二、三センチぼくより低かった。
 来月の十八日に、またぼくの誕生日がやってくる。
でも、その身長計はもう使えない。だって、目もりが百六十センチまでしかないからだ。ぼくたちの身長は、もうそれをこえてしまっていた。
 修司の横顔をもういちどながめながら、二年前に健太にいちゃんがいったことばを思い出していた。
(これ、あげるよ。もう使わないから)
 RCで遊ばなくなる日が来る。今のぼくには、まだそんなことはとても考えられなかった。
あの時、健太にいちゃんがいっていた「サッカー」のような何かを、ぼくはまだ見つけていなかった。
もしかすると、修司はぼくより一歩先に、その「何か」を見つけてしまったのかもしれない。

 駅前から、「若葉町住宅」行きのバスにのった。昼すぎの車内は、ガラガラだった。
ぼくたちは通路をはさんで、はなれた席にすわっていた。
修司は、ずっと窓の外をながめている。そんな姿を、ぼくは横目でチラチラ見ながら考えていた。
(修司の「何か」って、私立受験なのか、香奈枝さんなのか。それとも、別の「何か」を見つけたのか)
 ぼくには、まだよくわからなかった。
でも、とにかく修司が、「何か」を見つけたことだけは確かなようだった。
 そして、きっとぼくにも、「何か」を見つける日が来るのだろうなと思った。なんだか、それはそんなに遠い日ではないような気がしてきていた。
 バスが、ぼくたちの停留所についた。
「じゃあな」
 バスからおりると、修司はかるく手をあげてぼくにあいさつした。
「うん、じゃあな」
 ぼくも手をあげて返事をした。
 修司は、反対方向へすぐに大またで歩いていった。
 ぼくも肩のバッグをゆすりあげると、家へむかって歩き出した。
 でも、すぐに立ちどまってふり返った。
修司のうしろすがたは、ぐんぐん遠ざかっていく。なんだか、いつもの見慣れた修司とは別人のように見えた。
「さよなら、シュウチ」
 ぼくは、口の中で小さくつぶやいてみた。

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