現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

高村有「Sビル3号室」百物語3嘆きの恐怖所収

2023-06-17 09:19:09 | 作品論

 怖いお話のアンソロジーに入っている短編です。

 入居した人々が次々と行方不明になる部屋の謎に迫ります。

 巧妙に伏線が張られていて、読者の恐怖をそそります。

 

 

 

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最上一平「ようかい村のようかいばあちゃん」

2023-01-14 11:18:26 | 作品論

 主人公の女の子と、そのひいばあちゃんであるようかいばあちゃんとの交流を描いたシリーズの三作目です(他の本については、それぞれの記事を参照してください)。

 今回は、雪に閉ざされたようかい村(ようかいばあちゃんが一人で暮らしている山奥の集落)での暮らしの様子が描かれています。

 いろりや雪の坂道などで、三世代を超えて交流する二人の様子が楽しく紹介されています。

 こうした雪国での暮らしや、昔の暮らしについて、主人公だけでなく読者たちも、興味津々にしてくれます。

 

 

 

 

 

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丘修三「ぼくのお姉さん」

2022-10-29 12:39:12 | 作品論

 偶然、この本が2015年の神奈川県の読書感想文コンクールの課題図書になったことを知り、再読したくなりました。
 こうしたいろいろな読書感想文の課題図書は、純文学的な「現代児童文学」をたくさん売るほとんど唯一の方法です。
 どういういきさつで、1986年に初版が出たこの本が30年近くたった2015年の神奈川県の課題図書になったかは知りませんが、今でも苦労しながら(時には自費出版で)「現代児童文学」の創作を続けていらっしゃる作者のために素直に喜びたいと思いました。
 この本の冒頭には、以下のような「はじめに」という文章があります。
「人生は、たのしいもの。
 けれども、くるしいことや、
 かなしいことや、心をなやますことも
 また、たくさんあります。
 人は、そのようなさまざまなことを
 体験しながら、ほんとうの<人間>
 になるのだと思います。
 ひとの心のいたみがわかる
 <人間>に。」
 30年の間に、子どもたちが読書に求めるものは大きく変化し、たんなる一時の暇つぶし的な娯楽にすぎない場合が多くなっています(大人たちも同様ですが)。
 しかし、時には本書に載っているような作品群を読むことは、今の時代だからこそ大切なことなのではないでしょうか。

ぼくのお姉さん (偕成社の創作)
クリエーター情報なし
偕成社
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リンダ・ニューベリー「おもちゃ屋のねこ」

2022-08-14 15:59:54 | 作品論

 2009年にイギリスで書かれた、不思議な味わいを持った中編です。

 主人公のハティは小学生ぐらいの女の子です。

 ハティは、放課後、おかあさんが仕事を終えるまでの間、大叔父さんのやっているおもちゃ屋「テディとメイ」の手伝いをしています。

 テオ(テディ)おじさんは、メイ大叔母さんが亡くなった後、一人でお店をやっているのです。

 そんな「テディとメイ」に一匹の猫クルリンがやってきて、居ついてしまいます。

 それ以来、お店は、おおにぎわいになります。

 そうです。

 クルリンは、まさに福をよぶ招き猫だったのです。

 その猫を中心に、いくつかの小さな事件(怪しい老年のカップルが、お店に謎の箱を置いていきます。ハティがクルリンを家にもらったために、お店の商売がうまくいかなくなります)が起こり、やがて収まるところに収まってハッピーエンドを迎えます。

 登場人物はみんないい人ばかりなのですが、中でもテオおじさんが魅力的です。

 商売は下手(お金を取りはぐれてばかりです)なのですが、おもちゃと子どもたちが大好きで、こんなテオおじさんだからこそ、クルリンのような福をよぶ猫が居ついたのでしょう。

 この作品はファンタジーではないのですが、不思議な魅力に富んでいます。

 

 

 

 

 

 

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森 忠明「末弱記者」

2022-08-13 11:33:53 | 作品論

 作者にとっては、数十年ぶりの新刊です。

 掲載されている作品と発表年度は、以下の通りです。

 末弱記者 2021年

 兄よ銃をとれ 1990年

 三月の湖 1992年

 花笛 1992年

 わせだだいがく 1993年

 死にっかす 1994年

 迫田明の美しい十代 2006年

 どれも作者らしい、人生の負の部分に目を向けた短編になっています。

 その他に、2010年代に発表された詩が三編、合わせて掲載されています。

 作者は、この数十年の間、ほとんど現役を退いているわけですが、それでもこうして本を出そうという熱烈なファン(お弟子?)はいるわけで、また、その本を買う一定数の読者(私自身も含めて)が存在するのです。

 作者やその作品に関しては、関連する記事を参照してください。

 

 

 

 

 

 

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最上一平・文 黒井健・絵「すずばあちゃんのおくりもの」

2022-06-11 10:57:57 | 作品論

 すずばあちゃんは、村のあちこちに花の種をまきます。

 そのおかげで、村のあちこちに花が咲きます。

 そんな花々を、村の人たちは「すずばあちゃんのおくりもの」と呼んでいます。

 すずばあちゃんが、種をまくのには訳があります。

 戦争が終わって満州から引き揚げてくるときに、幼い赤ん坊を亡くして野端に埋めてきたからです。

 そして、そこに野菊を供えてきたのです。

 すずばあちゃんにとって、村に咲く花たちはその時の花の子孫のように感じられたのです。

 すずばあちゃんのまく花の種には、戦争のない世界への祈りが込められていたのでした。

 最上一平の抑制された美しい文章に、黒井健の描く花たちが幻想的に描かれていて、この絵本自体が読者へのおくりもののように感じられます。

 

 

 

 

 

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神沢利子「いないいないばあや」いないいないばあや所収

2022-06-08 18:38:39 | 作品論

 1978年11月に刊行された、作者が自分の幼少期(あとがきによると、二、三歳から五歳まで、1928年前後)をふり返って書いた自伝的な作品です。
 そういう意味では、その二年前に書かれた「流れのほとり」(その記事を参照してください)と同じ系列の作品です。
 幼い主人公が、ばあやと「いないいないばあ」の遊びを繰り返すうちに、いるとか、いないとかというのはどういうことかに思い至り、怖くなる様子を通して、幼児の世界の恐れや不安を日常の生活や遊びの中に描き出しています。
 幼児が主人公で、児童文学の体裁で出版されていますが、描き方も文体も当時五十代であった作者のレベルに合わせて書かれていて、完全な純文学だと思われます。
 刊行当時はいざ知らず、現在の子どもたちの読書力では手に余ると思いますが、幼児体験や児童文学に関心のある大人の読者にとっては、今も古びることなく読める作品です。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
クリエーター情報なし
岩波書店
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高田由紀子「ハッピー・クローバー」

2022-05-22 06:34:39 | 作品論

 近所に越してきた同じクラスの女の子とそのダウン症のお姉ちゃん(六年生で同じ学校の支援学級に通っています)と友達になる、小学四年生の女の子が主人公の物語です。

 最初は同じクラスになった女の子と友達になりたかっただけなのですが、次第にそのお姉ちゃんとも仲良くなっていきます。

 その過程で、初めは全然知らなかった、ダウン症についても理解(病気のことだけでなく、時には差別されることがあることも含めて)を深めていきます。

 といっても、過剰に深刻にならずに、明るいタッチで描けています。

 書きにくいことも、あえてはっきりと書く力強さのようなものも感じました。

 また、障害のことだけでなく、誰しもがいろいろな問題(親から勉強を強要されている男の子が登場します)やコンプレックス(主人公は背が高いのがコンプレックスで、母親にボーイッシュなヘアスタイルにしたいと言えない悩みも抱えています。主人公と仲良しの男の子は逆に背が低いことが悩みです)を抱えていることも描いているのが、特に優れている点です。

 そのため、一人一人が違っていていいんだという、多様性を認め合うラストが、中学年の読者にもしっくりと読み取れます。

 パン作りやクッキー作りなどの女の子が中心の場面も出てきますが、その一方でサッカーのリフティングのシーンなどで男の子たちも出てきてバランスが取れています。

 

 

 

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那須正幹「六年目のクラス会」六年目のクラス会所収

2022-05-19 13:29:28 | 作品論

 1984年11月初版の、作者がそれまでに同人誌に発表した短編を集めた作品集の表題作です。
 本にしたのははズッコケシリーズと同じ出版社なので、バーター的に出された本なのかもしれません。
 小学校を卒業した春に、めぐみ幼稚園ふじ組の卒業生たちがクラス会で六年ぶりに集まります。
 担任だった国松先生も出席して、みんなで幼稚園時代の話をしているうちに、彼らは、ノリくんこと、鈴木則夫のことを思い出します。
 クラスのみんなが、陰気でおもらしの常習犯の則夫を、真冬に裸にして水をかけたことがだんだんに明らかになっていきます。
 則夫は、次の日から幼稚園に来なくなり、やがて死んだのです。
「則夫くんは、<中略>心臓に病気があったの。あなたたちが、そんないたずらをしたの、ちっとも知らなかったけれど、それとこれは関係ないと思うわ。」
と、先生はいいます。
 しかし、実態はクラスの女王様の川口ひとみが、みんなに命令して起こったいじめだったのでした。
 そのひとみが、平然と先生に言い返します。
「でも、則夫くんのことを、きらっていたのは、わたしだけじゃないわ。先生、先生も則夫くんのこと、いやだったんでしょ」
「先生だって、あの朝、わたしたちが則夫くんをはだかにして水をかけたの、知ってましたよねえ。教室の窓から、ずっと見てらっしゃったの、わたし知ってたんです。<中略>もし、あのことで則夫くんが死んだんなら、先生。先生も、わたしたちとおなじですよね。」
 ひとみはそう言うと、白い八重歯を見せて笑いました。
 実はこのクラス会は、則夫の霊が、みんなに事件のことを思い出させようとして開かせたものだということが最後にわかります。
 そして、六年ごとにクラス会を開かせて、いつまでもみんなに事件のことを忘れさせないという則夫の怨念を暗示して物語は終わります。
 児童文学研究者の宮川健郎は、「「児童文学」という概念消滅保険の売り出しについて」(「現代児童文学の語るもの」所収)において、この作品について以下のように述べています。
「子どもは無垢で、大人はけがれている。子どもが成長するにしたがって、悪意もまた成長する。――私たちは、そう考えていたのではなかったか。そうした成長のイメージは、ここでは、逆転させられてしまう。クラス会にあつまった子どもたちの会話によって進行する「六年目のクラス会」で、だんだん浮びあがってくるのは、幼稚園児たちのなかにあった、どすぐらいまでの悪意だ。川口ひとみの悪意は、先生がかかえていた悪意をあばき出す。則夫へのいじめを思い出して、斎藤さんは泣き出し、岸本くんは青い顔をする。六年後の子どもたちは、むしろ、幼児のころの悪意をうすめているように見える。」
 そして、宮川は、この作品を「反=成長物語」と規定しています。
 しかし、この論には大きな疑問があります。
 子どもたちがいつも無垢な存在でなく、時として残酷な存在になるということはうなずけますが、これもけっして新しい発見ではありません。
 詩人で小説家で児童文学作家のエーリヒ・ケストナーは、1920年代に出版した「感情の行商」という詩集の中に「卑劣の発生」という詩を残しています。
「これだけは、どんな時どんな日にも心にとまる――
 子供はかわいく素直で善良だ
 だが大人はまったく我慢できない
 時としてこれが僕らすべての意気を沮喪させる

 悪いみにくい老人どもも
 子供のときには立派であった
 すぐれた愛すべき今日の子供も
 後にはちっぽけに、そして大きくなるのだろう

 どうしてそんなことがありうるのか それはどういう意味なのか
 子供もやっぱり、蠅の羽を
 むしるときだけが本物なのか
 子供もやっぱり既に不良なのか

 すべての性格は二で割りうる
 善と悪とが同居しているからだ
 だが悪は医やしえず
 善は子供のときに死んでしまう」
 ケストナーは、以上のように子どもの中にも悪が存在することを認識していて、1930年ごろに書いた児童文学としての代表作の「エーミールの探偵たち」にも、「飛ぶ教室」にも、「点子ちゃんとアントン」にも、「卑劣な子どもたち」を登場させています。
 そして、引用した宮川の文の最後の「幼児のころの悪意をうすめているように見える」には、まったく賛成できません。
 則夫くんへのいじめは、川口ひとみ以外は悪意というよりは、ケストナーも指摘している「子どもの残酷性」を示しているにすぎません。
 この作品の悪意の核はクラスの女王様の川口ひとみにあるので、引用文にあるように彼女の悪意は六年後にますます「成長」していて、平然と大人である先生の悪意をあばいて自分の行為を正当化しています。
 つまりこの作品は、宮川の言うような「反=成長物語」ではなく、むしろ現代児童文学ではオーソドックスな「成長物語」だと思われます。
 ただし、この場合は、「善」ではなく、「悪」が成長したわけですが。
 しかし、作者にとっては、この作品が「反=成長物語」と読まれようが、「成長物語」と読まれようが、まったく関係ないでしょう。
 おそらく作者は、この作品をその後児童文学の世界ではやった「怪談物」あるいは「ホラー物」のはしりとして書いたのでしょう。
 発達心理学の観点からみると、幼稚園児の認識や記憶力という点ではかなり設定に無理があると思われますが、後のエンターテインメント作品の名手としての才気は十分にうかがえます。

六年目のクラス会―那須正幹作品集 (創作こども文学 (1))
クリエーター情報なし
ポプラ社



現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会





 

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那須正幹「ねんどの神さま」

2022-05-10 13:12:29 | 作品論

 1992年12月に初版が出た、黒を基調とした武田美穂の絵が重厚な雰囲気を出している物語絵本です。
「太平洋戦争がおわって、ちょうど一年がすぎた九月のことだった。」
 物語が始まる前に、1946年という時代設定が明示されています。
 主人公の健一は、村の学校で、戦争を起こす人間をこらしめるねんど細工の神さまを作ります。
 健一の父親は、五年前に中国で戦死していました。
 母親や兄弟は、昨年の春に空襲でみんな死んでしまい、この村のおばあさんのもとに疎開していた健一だけが生き残っています。
 校長先生は「この作品は、子どもの戦争にたいするすなおなにくしみが表現されておる。」といたく気に入り、ねんどの神さまを校長室の棚に飾ります。
 健一は、翌年、都会に住むおじさんに引き取られて引っ越してしまい、その後学校も廃校になって、ねんどの神さまも倉庫で長い間眠っていました。
 それから四十年以上の時間がたち、このねんどの神さまが、突然、身長百メートルを超えるような巨大な怪物になります。
 そして、廃校のある山村から東京を目指します。
 首都の破壊を恐れた人間によって、自衛隊に攻撃されますが、怪物はびくともしません。
 最後には、周辺住民の犠牲も承知の上で、化学兵器や核兵器までが使われますが、怪物は平気で東京へ向かいます。
 やがて、東京にたどり着いた怪物は、ビルの一室に目指す男を発見します。
 その男は、今は兵器会社の社長になっていた健一でした。
 殺されることを覚悟していた男に、怪物はこう言います。
「ぼくは、ケンちゃんのつくった神さまなんだよ。ぼくにケンちゃんを殺せるわけないじゃないか。ぼくはね、ケンちゃんにおしえてもらいたくって、やってきたんだよ。ねえ、ケンちゃん。もう、ぼくは、いなくなったほうがいいのかなあ。ケンちゃんは、むかしみたいに、戦争がきらいじゃないみたいだからね。」
 それに対して、男はこう答えます。
「わたしは、子どものころとかわりないよ。戦争をにくむ気もちは、いまだにもっている。ただね、戦争というやつは、にくんでいるだけじゃあなくならない。かえって強力な兵器で武装していたほうが、よその国から戦争をしかけられることもない。つまり平和をたもつことができるのさ。わたしの事業は、平和のための事業なんだよ」
 ラストシーンで、男は怪物に土下座をして頼み込み、小さなねんど細工に戻った神さまを破壊します。
「これで、いい。この数十年、心のすみにひっかかっていたトゲのようなものが、きれいになくなってしまった。
 あとは、もう、自分の思うように事業をすすめることができる。
 男は、晴ればれとした気もちで、ゆっくりと自分の会社のなかへもどっていった。」
 このあらすじを読んで、何かしっくりとこない思いをした方もいらっしゃることと思います。
 作者の技術が未熟で、完成度の低い作品を作ってしまったのでしょうか?
 私はそう思いません。
 ご存知のように、「ズッコケ三人組」シリーズで有名な那須正幹は、エンターテインメントからシリアスな作品まで自在に書き分ける、児童文学作家でもプロ中のプロです。
 そんなへまはしません。
 作者は、この作品において、従来の現代児童文学の作品にはないいくつもの実験をしています。
 一つ目は、子ども読者および子どもの登場人物の不在です。
 物語絵本にもかかわらず、作者はこの作品で用語(漢字にはルビはふってありますが)、表現、内容のすべてにおいて、かなりグレードを高く設定しています。
 子ども読者は、読んだその時には理解できなくても構わないと、割り切って作品を書いています。 
 また、冒頭の部分で健一がねんどの神さまを作るシーンでは教室での子どもたちが描かれていますが、その後はいっさい子どもは登場しません。
 次に、ストーリーの飛躍があります。
 ねんどの神さまが突然怪物に変身したことについては、理由も合理的な説明もいっさいありません。
 また、戦争を憎んでいた健一が、兵器会社の社長になった過程も全く書かれていません。
 児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学の条件(研究 日本の児童文学4 現代児童文学の可能性所収)」(その記事を参照してください)の中で、以下のように述べています。
「一見、完成度に問題がありそうである。どうして、ねんどの神さまをつくった男の子は兵器会社の社長になったのだろうか。説明がない。中間のプロセスが省略されてしまっている。が、これは、欠点ではない。むしろ、読者に想像力を働かせよと呼びかける空所の一種なのだ。「空所が結合を保留し、読者の想像活動を刺激する」のである。昔、どんな神様かと聞かれて、「戦争をおこしたり、戦争で金もうけするような、わるいやつをやっつけます」と答えた男の言葉。今、巨大化したねんどの神さまにむかって、「わたしの事業は、平和のための事業なんだよ」と答える男の言葉。読者は、二つの言葉を口にした人間が同一人物だといわれて、両者をつなげようとする。と、とたんになにかがぐにゃりとゆがむ。それは、五十年間の戦後史という「大きな物語」かもしれない。「ダブルスタンダード」で生活している私自身のアイデンティティかもしれない。」
 ここで五十年間の戦後史という「大きな物語」を感じるのも、「ダブルスタンダード(注:戦争反対とか世界平和を唱えながら、自衛隊や在留米軍の軍事的庇護のもとにいることを指しているのでしょう)」で生活しているのも、「子どもたち」ではなく那須や石井(もちろん私自身も)も含めた「大人たち」なのです。
 そして、ラストシーンでの反語表現が、おそらくこの作品の最大の実験だと思われます。
 この部分については、石井は前掲の論文で次のように言っています。
「おそらく、読者は、とまどうだろう。たしかに作者は、晴ればれしたといっている。けれども、ほんとうに作者は、晴ればれしたといいたいのだろうか、と。ところが、このくだりを文字通りの意味にとればいいのか逆の意味にとればいいのかは、決定することができない。なぜなら、反語という方法は、「意味の反転を発生させることば」だからである。正の意味と逆の意味とがおたがいの「残像効果」によって打ち消しあい、読者は、二つの意味の間の往復運動をやめることができないのである。」
 こうして、この作品は、普通の書き方で書かれたいわゆる「戦争児童文学」よりも、読後に「よくわからないけど何かわりきれないもの」を読者に残すことに成功しています。
 那須はこの作品が書かれる前の1989年に、児童文学研究者で翻訳家の神宮輝夫との対談(現代児童文学作家対談5所収)で、戦争児童文学について以下のように述べています。
「いままでの戦争児童文学というのは、つねに自分たちの体験を伝えているわけです。それは大人の世界のことであって、いまの子どもたちからみれば、四十年まえにあった戦争なわけです。作品に描かれる世界は悲惨ですから、読者は読むときには泣きますよ。ところが、読んだあと、ああ私たちは戦争のなかった日本に生まれてよかったなで終わってしまう。ぼくは戦争を伝える文学として、それじゃ少しおかしいんじゃないかと思います。いまの子どもが、ひょっとしたらいまの日本だっていつ戦争になるかわからないんだという、一種の認識というか、核のボタンがいつ押されるかわからないんだということを認識するような作品を書かなくちゃならないんじゃないかという思いがあるわけです。」
 この作品は、この発言に対する那須の作家としての回答だったのかもしれません。
 しかしながら、こういった実験的な作品の出版が許されるのは、那須が「ズッコケ三人組」という超ベストセラーシリーズの作者で、出版社(この本は「ズッコケ三人組」シリーズと同じ出版社からでています)に対して無理が言える立場にいたということも、指摘しておきたいと思います。
 この本が出版されてから、さらに二十年がたった戦後七十年の節目の年に、自民党や公明党などにより、安保法案が成立しました。
 那須の時代に対する先見性は、ますます評価されるべきでしょう。


ねんどの神さま (えほんはともだち (27))
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J.D.サリンジャー「ハプワース16,一九二四」サリンジャー選集別巻1所収

2022-05-08 15:07:31 | 作品論

 1965年に発表された、サリンジャーが公開した最後の作品です。
 いわゆるグラス家サーガのうちの一篇ですが、時代設定は一番古い1924年で、七人兄妹のうち下の二人はまだ生まれてもいません。
 私がサリンジャーを読み始めた1970年代初頭においても、まさかこの作品が最後だとは誰にも思われていなくて、「沈黙期間がいやに長いなあ」とか、「グラス家サーガのこれからの展開に苦戦しているのか?」とか、考えられていたように思います。
 しかし、今回、数十年ぶりにサリンジャーの作品を順に読み直してみると、この作品がグラス家サーガの最終作品であり、シーモァの遺書であると共に、サリンジャーの読者への惜別の書であることが強く感じられました。
 この作品では、1924年に当時7歳であったシーモァが、弟のバディと二人で参加していたサマーキャンプから、家族に宛てた非常に長い手紙(キャンプで怪我をして、ずっと一人でベッドに残されている時に書いた、という設定になっています)という形式をとっています。
 手紙には、全編、家族への愛が満ち溢れています。
 特に、二歳年下のバディ(この作品は、作家になったバディ(1965年当時46歳で、サリンジャーの分身だと言われています)がこの手書きだった手紙をタイプするという形で紹介されています)には、繰り返し最高級の賛辞を惜しまず、将来大作家になると予言しています(サリンジャー自身だと考えると、大ベストセラー作家になってしまった自分への皮肉だと考えることもできます)。
 両親(成功した芸能人(ボードビリアン)ペアで、母親は当時二十代の若さで引退を考えているようです)と兄妹(この当時、ズーイとフラニーはまだ生まれていないので、三歳年下の妹のブー=ブー、四歳年下の双子の弟、ウォルトとウェイカー)への愛情に満ちた真剣な助言が、痛切に心に響きます。
 また、キャンプ場の大人たちへの鋭く厳しい批評には、通俗的で儲け主義で思考力を持たない人々へのシーモァ(サリンジャー)の軽蔑が強く感じられます(さぞ、敵が多くて生きづらかっただろうなあと思ってしまいます)。
 一方で、普段異常なほど利用していた図書館の関係者には、ここでも批判的な視点はあるものの、彼らのサポートや助言に対する感謝と尊敬の念は示されています。
 最後に、彼らにキャンプへ送ってもらうように家族に頼んだ膨大なブックリストは、その理由も詳細に書いてあって、サリンジャー自身の読書リストだと考えると興味深いです。
 手紙の中には、シーモァ自身の人生が約30年(実際は31歳で自殺しています)であることや、この手紙の二年後に両親とシ-モァとバディが参加する重大なパーティ(このパーティ(これがきっかけでシーモァとバディ、その後他の兄妹たちも全員、がラジオ番組の「これは賢い子」に出演することになったのではないかと言われています。この番組への出演が、彼らの人生に大きな影響を与えることになります)についてバディが作品を執筆中であり、そのためにこの手紙を母親から送ってもらってタイプしているという設定になっています)に対する予言めいたことが出てきて、シーモァと同様の天才少年で予知能力を持つ「テディ」(その記事を参照してください)との共通性が感じられます。
 また、バディは、「バナナ魚にもってこいの日」、「テディ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」らしき作品(それらの記事を参照してください)の作者であることが「シーモァ ― 序論」(その記事を参照してください)でほのめかされています。
 そう考えると、従来は、グラス家サーガに含まれる作品は、「バナナ魚にもってこいの日」、「コネチカットのグラグラカカ父さん」、「フラニー」、「ズーイ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」、「シーモァ ― 序論」、そしてこの「ハプワース16,一九二四」の7作品と考えられていましたが、「テディ」も含めた8作品で考えた方がいいかもしれません。
 つまり、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が世界中で大ベストセラーになった騒動以降に発表された作品全部ということになります。
 この作品を批判する時に、いくら主人公が天才だと言っても、とても7歳とは思えないと言われることがあります。
 それは当然で、ここでのシーモァはただの7歳ではなく、7歳の時の体験(実際にサリンジャーが、こうしたサマーキャンプを体験したのはを11歳の時のようですが)を48歳になったシーモァ(正確に言うと、シーモァ自身は31歳で亡くなってしまったので、この時46歳のバディ(サリンジャー)の力を借りて)が描いているのです。
 こうした、「主人公が子どもらしくない」とか、「大人の視点が入っている」というのは、児童文学の世界では作品をけなす(作品評や合評会などで)常套句なのですが(私もしょっちゅう言われましたし、もしかすると何度か言ったかもしれません(自分の痛みはいつまでも覚えていても、他人の痛みはすぐに忘れてしまうものです))、この作品のような一般文学だけでなく、児童文学でも作品によってはこうした書き方も有効だと考えています(一番成功している例は、神沢利子の「いないいないばあや」(その記事を参照してください)でしょう)。
 この作品の最後は、こう締めくくられています。
「再び、バンガロー七号のあなたたちを愛する二人の無気味な厄介者より五万回のキスを。」
 そして、それに続く署名はS・G(シーモァ・グラスのことです)と並んで、なぜかバディ・グラスではなくJ・D・サリンジャーになっています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「テディ」九つの物語所収

2022-05-07 11:29:30 | 作品論

 10歳で霊的な能力(予言など)を持つ天才少年(どうやら6歳の妹も、同様の能力を持っているようです)の話です。
 彼の能力については、アメリカだけでなくヨーロッパでも有名になっていて、あちこちの大学の先生たちと議論するために渡欧して客船で帰米する途中でした。
 ここでも、船上のひなたっぼこ用のデッキチェアで、彼を訪ねてきたニコルソン教授と、感情、論理、瞑想、神、死、予言、転生、教育などについて議論します。
 そして、その中で、自分自身の死についても予言して、ラストでは実際に予言通りの事が起こったことが暗示されています。
 転生を信じているテディの死自体は悲劇でもなんでもないのですが、それよりも彼が悲劇的だったのは、前半部分での全く噛みあわない、そして、彼の事を理解しない(あるいは、理解しようとしない)で、彼を「人間じゃない」と思っている両親との会話でしょう。
 彼が自分の両親について語る以下の言葉は、どんな児童文学の作品よりも、両親に対する愛情と絶望が、痛切なほど満ち溢れています。
「あのふたりにはね、生きているあいだは楽しく暮らしてもらいたいと思うな、だってふたりとも、楽しく暮らすのが好きなんだもの……。だけど、あのふたりはぼくとブーバのこと――これ妹なんだけど――そんなふうに愛してくれてないや。つまり、ありのままのぼくらを愛することはできないみたいなんだね。たえずぼくらを少しずつ変えつづけることができないかぎりは、ぼくらを愛することはできないらしいんだね。ふたりとも、ぼくらを愛するのとおんなじくらい、ぼくらを愛する理由を愛しているんだし、たいていは、ぼくら以上に愛してる。(後略)」
 この作品では、芭蕉の俳句が引用されていることもあって、東洋思想と結びつけて考えられることが多いのですが、思想そのものはそんなに深い物ではなく(門外漢の私でも理解できる程度)、それよりは俳句の持つ「写生」の力にサリンジャーが強く魅かれていることが、非常に客観的で詳細な情景描写によく表れています。
 また、この「ナイン・ストーリーズ」という短編集が、シーモアの死で始まり(「バナナ魚にはもってこいの日」(その記事を参照してください))、テディの死で終わることで、サリンジャーと死について議論されることが多いのですが、サリンジャー自身は死自体(特に自殺)にはそれほど関心はなく(実際に91歳まで長生きしました)、「自分を理解しない他者」との関わりを断つ生き方(作品を対外的には発表せず、公の場には姿を見せない)の方が、はるかに彼らしいし、他者はどう思おうとそれで十分に幸せだったんだと思います。


 

 

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安田夏菜「むこう岸」

2022-05-01 17:19:32 | 作品論

 第59回の日本児童文学者協会賞を受賞した作品です。

 男女二人の中学三年生が主人公で、二人が交代してそれぞれの視点で物語を語っていきます。

 男子は、東大合格で有名な中高一貫校の勉強についていけず、中学二年末で自主退学して公立中学(地元ではドロップアウトしたことがばれてしまうので、わざわざ電車で離れたところにある学校に通っています)に転校してきました。

 女子は、父親がなくなり母親が精神的な病気で働けないので、生活保護を受けています。

 彼女は、生活保護を受けていることがみんなに知られて差別されますが、ガッツがあるのでそのことには負けていません。

 ただし、高校へ行ってからもバイトやそれを進学のために貯金することができない(その分が支給から減らされる)し、大学や専門学校へ進学できない(彼女は看護師志望です)と知らされて(実はいろいろな例外や裏技があってどちらも可能なのですが、制度が複雑なためにケースワーカーから正しくサポートされていない)、やる気を失っています。

 ひょんなことから、二人は知り合って、女子が面倒を見ている中一のアフリカ人を父に持つ巨漢の男子生徒(勉強から完全に落ちこぼれ、みんなと口もききません(筆談をしています))を、男子がボランティアの家庭教師をすることになります。

 さまざまなトラブル(男子と中一の男の子が酔っ払いにからまれる。その酔っ払いに三人がマスターの好意で居場所にしていたカフェーを放火される。学歴至上主義で無理解な男子の父親とそれに黙従している母親。すべての家事や妹の面倒などだけでなく精神的にも女子にもたれかかって生きている母親など)を切り抜けながら、二人は徐々に生活保護についての知識を深め、女子の将来の展望(バイトでお金をためて、高卒後も進学ができる)が開けてきます。

 それに伴って、受験勉強によって失われていた、「知りたい」「そして、その知識を誰かの役に立てたい」という真の勉強への情熱を、男子も取り戻します。

 正直言って、物語づくりはあまりうまくなく、男子の両親や女子の母親も定型化されていますが、この物語を通して貧困やヤングケアラーの問題を取り上げ、特に生活保護への偏見を取り除いていこうとする作者の情熱は強く感じられました。

 

 

 

 

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石川宏千花「拝啓パンクスノットデッド様」

2022-04-30 18:09:31 | 作品論

 第61回日本児童文学者協会賞を受賞した作品です。

 シングルマザーの母親(父親はもともと不明)から半ばネグレクトされていて(最低限の生活費は送られてきています)、バイトを掛け持ち(飲食店と個人経営の百均)して、中2の弟(こちらも父親は不明。主人公の父親とは違うかもしれない)の面倒をみている高1の少年が主人公です。

 彼の唯一の夢は、いつの日か弟とパンクのバンドを組むことです。

 本人はベースがけっこう弾けて、弟はボーカルができます。

 後は、ギターとドラムのメンバーが必要です。

 ひょんなことから、軽音部の紹介で、野外音楽会に出場できることになります。

 一緒に出場するメンバーを探していた主人公は、バイト先の大学生の紹介で、彼の属するサークルのバンドでベースを弾く代わりに、ギターとドラムのメンバーを得られます。

 クライマックスは当然音楽会での演奏ですが、それまでのいろいろなトラブル(母親が弟だけを引き取りにくる。親代わりに面倒を見てくれていた母親のバンド仲間の男性との行き違い。ギターを担当してくれることになっていた女子大生との関係(彼女はコミュニケーションが苦手で、実はバンド経験がまったくなくて、一緒に演奏するのは無理だった。そんな彼女に、主人公は淡い恋心を抱いていた)など)を経験する中で、主人公が成長していく姿を巧みに描いています。

 作者はもともとエンタメ系の書き手だったようで、ストーリーの盛り上げ方や、キャラの立て方などが非常にうまく、読者を飽きさせません。

 そうしたエンタメ性の強いストーリーの中で、ネグレクトやコミュニケーション障害などの今日的なテーマをしっかり描いています。

 また、パンクやバンドなどの知識が豊富で深いようで(私はパンクにはそれほど詳しくないので、すべてを正しく評価できませんが)、ストーリーのリアリティを保証しています。

 

 

 

 

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J.D.サリンジャー「バナナ魚にはもってこいの日」九つの物語所収

2022-02-13 13:25:20 | 作品論

 サリンジャーは、彼が創造したグラス家の七人兄弟姉妹のそれぞれについて、繰り返し作品に書いていますが、この短編がすべての始まりであり、また終わりでもあります。
 この短編の最後で、グラス家の長男であるシーモアは、フロリダのリゾート地のホテルでピストル自殺します。
 作中でも、第二次世界大戦後に戦場から帰還したシーモアが、精神的に病んでいたことが明示されていますが、その真相についてはほとんど語られていません。
 グラス家の兄弟姉妹を描いた様々な作品は、ある意味、「なぜ、シーモア(15歳で大学に入学し、18歳で博士号を取り、21歳で大学教授になった早熟な天才)は死ななければならなかったか?」といった命題に対して、様々な見解を提示しているともいえます。
 それらについては、それぞれの作品についての記事で言及していますが、この作品においては二人の典型的な女性によっては彼の魂は救済されなかったことだけが明らかになっています。
 一人はシーモアの妻のミュリエルで、当時の典型的な世俗的な女性で、シーモアの内面など理解しようにもできない存在として描かれています。
 もう一人は、浜辺でシーモアと遊ぶ幼女(四歳ぐらいか?)のシビルです。
 一般的に、幼い子どもは無垢な魂の象徴として描かれることが多い(サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に出てくる主人公のホールデンの妹や弟もそれに近いです)のですが、シビルは赤裸々なほど女性性の醜い面(同性への嫉妬、限りない欲望、欲求不満、男性への要求など)の象徴として描かれています。
 こうした典型的な人物が、シーモアの死と対比的に描かれなければならなかったのか。
 そうした疑問と、自分自身の経験を彼女たちに重ね合わせた時に生じる一種の畏怖を感じざるを得ません。
 そういった意味では、同じように戦争体験で精神を病んだ飛行士が、同じく不幸な境遇にいる少女の無垢な魂によって救済された映画「シベールの日曜日」(その記事を参照してください)の方が、ラストで周囲の大人たちの無理解によって悲劇的な結末になったとしても、まだ救いがあります。

 

 

 

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