現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

藤田のぼる「僕の「現代児童文学史ノート」日本児童文学1984年3月号所収

2017-07-08 09:57:36 | 参考文献
 日本児童文学2013年1-2月号から「現代児童文学史ノート」を三回連載した藤田のぼるには、30年前に同じ様なタイトルの論文を同じ日本児童文学に発表しています。
 そこでは、主として六十年代と七十年代の現代児童文学について、藤田がどのように考えるかが、執拗に追及されています。
 作品からの引用が多かったり、未整理な点がありますが、藤田がこの時代の現代児童文学についてどのように考えるかが繰り返し語られています。
 紙数の違いはありますが、2013年の連載でも、もっと藤田の見方を前面に出した書き方にしてもらいたかったと思いました。
 1980年代から1990年代に、主として日本児童文学誌上において、盛んに評論を発表したり座談会をしていた当時の若手評論家たち(佐藤宗子、宮川健郎、石井直人、村中李恵など)は、その後大学教授などの収まる所へ収まってしまい(そのころは児童文学関連の講座を開設する大学が増えていました)、佐藤を除くと最近はほとんど論文を書かなくなってしまいました。
 その後の世代は、今度は常勤の大学教員などの仕事が得られずに(少子化や文学・教育関連の学部の縮小によります)、生活のためにより仕事が得やすい英米文学や近代文学へ流れています。
 また、日本児童文学誌自体も、かつての月刊で一般の書店にも並んでいた時代から、隔月刊で児童文学者協会の周辺の人たち向けの機関誌という本来の状態へ縮小されてしまいました。
 当時から、一貫して日本児童文学者協会で働いている藤田には、より当事者意識を発揮して、現在の会員たちを啓蒙してもらいたいと思っています。



日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌]
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佐藤宗子「<脱成長>時代の児童文学(第二回)「共有」という現実」」

2017-07-08 09:53:02 | 参考文献
 日本児童文学者協会の機関誌「日本児童文学」に、三回にわたって連載される評論の二回目(2015年3・4月号掲載)です。
 ここでいう「共有」とは、児童文学が子どもだけのものでなく、子どもと大人とで共有される文学であることを意味します。
 この論文ではいろいろな形態で「共有化」がすすんでいることが例示されていますが、児童文学が子どもだけのものではないことは今に始まったことではありません。
 1930年代に活躍した児童文学者で詩人のエーリヒ・ケストナーは「8才から80才」までの「子ども」を対象にしていることを明言していますし、宮沢賢治も「注文の多い料理店」の新刊案内(その記事を参照してください)の中で、読者対象を「アドレッセンス(男子は14才から25才まで、女子は12才から21才まで)中葉(男子は20才前、女子は17才前後)(男女差があるのは女性の方が精神的成長が早いためです)」と規定していました。
 佐藤もそのことは十分に承知していて、「現代児童文学」だけが大人が子どもに手渡す形で書かれていた特異な存在であると主張しています。
 たしかに「現代児童文学」は、小川未明に代表される「近代童話」が子ども不在の自己表現に重きが置かれていたことを批判してスタートしました。
 しかし、「現代児童文学」もまた、優れた作品は初めから子どもと大人に共有されていました。
 現に、「現代児童文学」の出発を飾ったと言われる二つの小人ファンタジー(佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」といぬいとみこの「木かげの家の小人たち」)もまた、現在に至るまで子どもと大人に共有される児童文学作品として読み継がれています。
 むしろ、現在の「共有」は、子どもと大人といっても、男性はほとんど排除されていて、女性だけ(それもごく一部の文学少女とその成長形)に偏している異様な状態が進んでいるのではないでしょうか。
 また、児童文庫(女の子中心)やライトノベル(男の子中心)といった「大人」とあまり共有されていない「児童文学」の領域がどんどん拡大している(書店での本の置かれているスペースを見れば一目瞭然です)のを全く無視しているのも、実情から目を逸らしているように感じられました。

日本児童文学 2015年 04 月号 [雑誌]
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日本児童文学者協会編「作家117人が語る私の児童文学」

2017-07-08 09:49:42 | 参考文献
 日本児童文学者協会が、「日本児童文学」の別冊として1983年4月10日に発行した、主としてこれまで発表された多くの作家、画家の自作についての発言を編集した本です。
 編集委員は、安藤美紀夫、桜井信夫、砂田弘、宮川ひろの四人です。
 「こどもの本」「親子読書」「びわの実学校」「子どもの本棚」「日本児童文学」「ほるぷ新聞」などの紙誌および教科書関係の刊行物などに、編集員が目をとおしてピックアップされています。
 この特集のために書かれたものではありませんし、もとの原稿が書かれた時期もバラバラなので、いつもの日本児童文学者協会の本と違って、現代児童文学に限定されていません。
 近代童話の大御所である坪田譲治を初めとして、少年倶楽部などに発表されたいわゆる大衆児童文学、プロレタリア児童文学、少女小説などの書き手の発言もあって興味深いです。
 ただ、今まで紹介してきた児童文学者協会の本とは違ってブックガイドではありませんので、どちらかというと作家論や児童文学論に興味がある人たちのための基礎資料的な性格が強いです。
 本は「『敵中横断三百里』の頃」、「私の処女作」、「絵が語る―絵本作家の発言」、「教科書の中の児童文学」、「自作を語る」の五部構成になっています。
 「『敵中横断三百里』の頃」では、山中峯太郎、池田宣政、高垣眸、江戸川乱歩、吉屋信子の文章を紹介しています。
 「私の処女作」では、関英雄、猪野省三、巽聖歌、小出正吾、早船ちよ、椋鳩十、石森延男、与田準一、佐藤さとる、坪田譲治、宮脇紀雄、斎藤隆介、柴野民三、久保喬、筒井敬介、今西祐行、神戸淳吉、前川康男、小暮正夫、小林純一、鶴見正夫、まど・みちお、阪田寛夫の文章を紹介しています。
 「絵が語る―絵本作家の発言」では、かこさとし、赤羽末吉、梶山俊夫、安野光雅、遠藤てるよ、田畑精一、こさかしげる、西巻芽子、味戸ケイコ、瀬名恵子、馬場のぼる、村上勉、滝平二郎、久米宏一、東君平の文章や発言が紹介されています。
 「教科書の中の児童文学」では、今西祐行、松谷みよ子、神沢利子、土家由岐雄、灰谷健次郎、あまんきみこ、椋鳩十、安房直子、いぬいとみこ、杉みき子の文章を紹介しています。
 「自作を語る」では、国分一太郎、須藤克三、しかた・しん、砂田弘、上野瞭、韓丘庸、久保喬、佐々木赫子、生原寺美子、今江祥智、後藤竜二、高木あきこ、奥田継夫、与田準一、吉本直志郎、岩瀬成子、関英雄、藤田圭雄、野長瀬正夫、松谷みよ子、中川季枝子、山口勇子、山下夕美子、西村滋、松谷みよ子、宮川ひろ、岡野薫子、香川茂、高橋宏幸、かつおきんや、石川光男、かつおきんや、谷真介、早乙女勝元、赤座憲久、山本和夫、赤木由子、神沢利子、北川幸比古、福島正実、舟崎克彦、小沢正、那須正幹、上崎美恵子、わたりむつこ、たかしよいち、あまんきみこ、来栖良夫、岩崎京子、岸武雄、菊池正、前川康男、鈴木実、北村けんじ、川村たかし、和田登、浜野卓也、竹崎有斐、鈴木喜代春、加藤多一、おおえひで、安藤美紀夫、庄野英二、平塚武二、長崎源之助、乙骨淑子、古田足日、渡辺茂男、大石真、那須田稔、立原えりか、宮口しずえ、川崎大治、三木卓、高橋健の文章や発言が紹介されています。
 それぞれ立場は違っても、子どもと子どもの本に対する情熱は共通して感じられ、児童文学を志す者としては励まされます。

日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌]
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グードルン・パウゼヴァング「おとぎ話の時間」そこに僕らは居合わせた所収

2017-07-08 09:46:59 | 作品論
 担任の先生は、いつも「おとぎ話の時間」に、お話をしたり本を読んでくれました。
 ある日、先生は恐ろしいユダヤ人の歯医者が、私たちとおなじぐらいの年の女の子を襲う(強姦とか婦女暴行を想像させました)話をしました。
 この話は、私たちにユダヤ人の恐ろしさを植え付けました。
 戦後何十年もたって、ドイツ中で同様の話が子どもたちにされたことを私は知り、教育の影響の恐ろしさに気づかされます。
 戦争中に日本でも、「鬼畜米英」という形で徹底的に敵国の残酷さを教え込まれました。
 当時の児童文学作家たちも、そのお先棒を担ぐような仕事をした人たちもたくさんいました。
 またこれらは過去のことではなく、「仮想敵国」に対して誇張した憎しみを持たせるためのプロバガンダは、ネット上などで今でも世界中のあらゆる国で行われています。
 日本でも韓国や中国との間で、お互いにこのようなプロバガンダが、ネットだけでなくメディアや書籍などでもなされていることはご存じのとおりです。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
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みすず書房
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シンポジウム 「児童文学の境界」

2017-07-08 09:26:07 | 参考情報
 日本児童文学学会の第51回研究大会における全体シンポジウムで、百名弱の参加者がありました。
 横川寿美子(敬称略、以下同様)の司会で、四人のパネリストがそれぞれの分野から「児童文学の境界」についての発言がありました。
 府川源一郎は、「教育と文学の境界」について発言しました。
 まず最初に、「文学はどこに生まれるか?」という問題提起がありました。
 そして、「日本ではお話し(ストーリー)を教訓にかぶせる必要があり、そこから児童文学が生まれてきた。」という歴史認識が示されました。
 「児童や文学という概念は近代になって作られたもので、現在はそれらは揺らいでいる。」という現状認識が提示された後で、「国語と修身と児童文学は一緒じゃないか。」という挑発的な発言がなされました。
 目黒強は、「児童文庫にみる児童文学の境界」について発言しました。
 「児童文学は知識教育学的な観点で語られてきたが、そこに収まらないエンターテインメントの分野が伸長している。」と指摘しました。
 「エンターテインメント作品を語るときに、「まんがのような」という表現がよくつかわれるが、ここでまんがのようにとはどういうことか。」と問題提起して、「ワンピースのノベライズ」のような作品に対しては、他分野との共同研究が必要である。」と提案されました。
 灰島かりは、「現代英米絵本はパロディの花ざかりなのに、なぜ日本の絵本はパロディが嫌いか?」を豊富な実例を示しながら語りました。
 そして、「絵本の買い手である母親が毒のあるものは選ばない。」と推測し、媒介者の問題であると指摘しました。
 また、「日本の児童文学の賞にパロディが入ったことはない。」と、日本の児童文学界の体質も批判しました。
 川勝泰介は、「児童文学研究の境界」について発言しました。
 「日本児童文学学会の会員がピークの400人台から300人台へ減少している」ことを指摘し、「児童文学研究の衰退、多様化への不適合があるのではないか」と推測しました。
 「大学でも文学関係の学部が減っている」とも発言し、研究者の絶対数の減少と職業として成立することの困難性を指摘しました。
 「2000年に「21世紀に児童文学は消滅するか?」と本田和子(雑誌「日本児童文学」において。その記事を参照してください)が予言したことが当たるかもしれない。」と警鐘を鳴らしました。
 それを回避するためには、「児童文学の境界も(研究対象として)取り込んでいかなければならない。」と提案しました。
 ここでいったん休憩に入り、聴衆に配られていた質問票を回収し仕分けしました。
 質疑では、司会者の好みなのか関連質問が多かったのかわかりませんが、テーマであった「児童文学の境界」から離れて、「なぜ日本ではパロディが受け入れられないのか」に偏ってしまいました。
 目黒は、「皮肉が社会に受け入れられるかどうかであり、若い人たちには受け入れやすいのではないでしょうか。」と発言していました。
 府川は、「教科書には載らないだろうが、教師がパロディを教室に持ち込むことはあってもいいのではないか。ただし、人権その他の偏見につながることには歯止めはかけなければならないと思う。テキストだけを使うのが授業ではない。当然、声などの身体性が加わる形になる。」と、教育現場での可能性と限界について述べました
 議論の発端を作った灰島は、「日本にはパロディの伝統はあるが、絵本では出版社や研究者によって除外されている。」と、現状の問題を指摘しました。
 川勝は、「子どもが良くても親が納得しないと買ってもらえない。パパとママでは選ぶ本が違う。パロディはママに選ばれにくいかもしれない。」と、媒介者の問題を指摘しました。
 府川は、「現在、国が読書運動を進めているが、かえって選択の幅が狭くなっている。」と危惧していました。
 目黒も、「読書活動の推進にはプラスとマイナスの面がある。エンターテインメント系の作品も読書運動に取り込まれている。何がパロディとして認められやすいのか。例えば二次創作は若い人ではやっている。」と、教育界や出版界と、実際の若い人たちのアクションとの遊離を指摘しました。
 話がここでややとんで、灰島が「日本には言葉狩りとかタブーがある。」と発言しました。
 川勝も「大人はいいが、子供はダメという制限がある。」と児童文学としての限界について述べました。
 府川も、「言葉を均質化する方向に進んでいる。」と、教育、出版の方向性に対する問題意識を示しました。
 会場と自由に質疑をしたり、パネラー同士が議論するような場面もなく、シンポジウムとしてはまとまりはよかったものの、物足りなさは残りました。
 また、司会者の独断で、質疑がテーマの「児童文学の境界」からそれていったのは不満でした。
 ただし、「児童文学の境界」というと、一般文学との境界しか頭になかったので、いろいろな境界が存在することを知ったのは収穫でした。
 シンポジウム終了後、パネラーの目黒と少し話ができましたが、「いわゆる児童文学作品とエンターテインメント作品とまんが」の境界については、「媒介者である大人に、まんがよりは{まんが的に読まれている)エンターテインメント作品の方が許容されやすい」程度の認識で、まだ研究は進んでいないとのことでした。

児童文学事典
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創立五十周年記念 日本児童文学学会第51回研究大会

2017-07-08 09:22:18 | 参考情報
 2012年10月27日、28日の両日、千葉大学で標記の学会が行われました。
 大会では、研究発表が14件(もっとも2会場で並行して行われたので7発表しか聞けません)、全体でのシンポジウム、ラウンドテーブルが2件(これも2会場で行われたので一つしか参加できません)、学会賞と五十周年記念論文の表彰式、総会、懇親会が行われました。
 発表やシンポジウム、ラウンドテーブルについては、必要に応じてそれぞれの記事で個別に紹介していますので、ここでは全体の感想を述べます。
 発表・ラウンドテーブル、シンポジウム・表彰式・総会、懇親会はそれぞれ教室で行われ、昼食は各自持参、千葉大の学生さんたちがスタッフをしてくれるなど、手作り感満載の質素な学会で、非常に好感が持てました。
 特に、学会賞特別表彰では、学会員ではないご高齢(76歳と86歳)の研究者の方々の労作に贈られて、私もまだ20年から30年は研究できるかもしれないと大変励まされました。
 また、総会で報告された会計報告などでも、いかに費用を抑えて会費の値上げを回避するか苦心がみられて共感できました。
 ただ、改善できそうな点がいくつかありましたので、それも書いておきます。
 まず、今回は首都圏で行われたので参加者が多くて盛り上がったそうなのですが、例年、日本各地の大学で持ち回りになっていて(2013年は広島経済大学)、地方の場合は参加者が少ないようです。
 大学関係者が多いのでその人たちは公務出張として学会に参加できるのですが、民間の人たちは地方では参加が難しいのでしょう。
 やはり、大会は総会もあるのですから、原則として会員の多い首都圏でやった方がいいと思います(もちろん、定期的に地方へ行くことは地方会員のために必要です)。
 次に、会員が最大のときに比べて百人も減っているとのことなので、若い会員を増やすために、発表内容の中にエンターテインメントやライトノベルなど、児童文学の新しい分野も取り入れるべきでしょう(今回は研究発表では皆無で、シンポジウムやラウンドテーブルで一部取り上げられただけでした)。
 最後に、会員同士が「××先生」、「○○先生」と呼び合っているのが気になりました。
 これは大学に限らず小学校や中学校の教員でも同様に行われていることですが、今は民間企業では「課長」とか「部長」とか肩書きで呼ぶことは減っています(私のいた会社は外資系なので私が入社した40年前から社長でも「さんづけ」でした)。
 最近はジェンダーフリーが進んで学校では男の子も「さん」づけで呼ばれるところが増えているそうですから、先生たちもそろそろ「先生」でなく「さん」で呼び合うようにしてはどうかなと思いました。
 こんなところも学会の閉鎖性につながって、若い人たちが入ってこない原因になっているかもしれません。

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
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ばんひろこ「まいにちいちねんせい」

2017-07-08 09:15:57 | 作品論
 1年2組のゆきとたつやを主人公にした連作短編集です。
 この本は3作の短編で構成されているのですが、まず全体の本のつくりから見てみたいと思います。
 定価は900円で、最近の本の値段としては抑えられていると思います。
 図書館で手にするというよりは、本屋さんの店頭で実際に子どもに手にしてもらい、おかあさんなどの媒介者(子どもに本を手渡す人のことです)に買ってもらうのには手ごろな値段設定です。
 おなじみの長谷川知子の表紙絵も、二人の主人公の魅力を十分に伝えています
 初版の発行部数は何部でしょうか?
 十分に書店に行きわたる数だけ刷って、平積みに置かれているとすれば、ちょうど入学の時期に出版されたので、かなりの一年生たち(特に女の子)が手にしてくれたかもしれません。
 帯の惹句は、「いちねんせいの まいにちは、ドキドキすることがいっぱい!!」とあり、まさに読者たちにとってはタイムリーです。
 媒介者用には「1年生の毎日を元気にえがいた心あたたまる物語」と購入の後押しをしています
 帯の裏には、「まいにちいちねんせい」には、3つのおはなしが入っています!」とあって、目次の機能を備えています。
・いちねんせいの ランドセルは、ピッカピカ?
・いちねんせいの 口は、あけられない?
・いちねんせいにも、ひみつは ある
 魅力的なタイトルが並んでいると思いますが、できれは「いちねんせいの……?」で統一できれば、もっと良かったかもしれません。
「つづけて読んでも、ひとつひとつ読んでも、楽しめます☆」
と、読書ガイドがついているのは、最近の小学生の読書力の低下に伴い、「長いのはどうも、…」と敬遠する子どもたちへの配慮でしょう。
 帯の裏側の漢字にはすべてルビがふってあり、子どもたちが自分で購入を希望できるように工夫されています。
 もし平積みにならなかった場合は、タイトルの「まいにちいちねんせい」と可愛い子猫の絵と帯の「低学年向け」という文字だけが目に入るのですが、ややインパクトに欠けて他の本に埋没しないか、少し心配です。
 以上のように、タイトルが素直すぎることを除くと、この本を買ってもらうための工夫はうまくなされているのですが、この本が子どもたちに長く読み続けられるための工夫は足りないように思いました。
 一番の不満は、本体に目次がないことです。
 本の帯(特に児童書では)は、購入後なくなってしまうことが多いと思います。
 図書館や学校で手にした場合には、最初から帯はないでしょう。
 その時に、この本ではいっさい目次がなく不便です。
 気に入った短編ができた時に、そこだけを読み直す(子どもの読書としては一般的だと思います)ことが簡単にできません。
 また、最後の短編が終わってすぐに本が終わってしまうのも、なんだか味気ない感じです。
 「あとがき」やシリーズの他の本の紹介などは、読書後の余韻のために必要だと思います。
 あるいは経費削減のためにこれらをカットしたのかもしれませんが、そのわずかな節約が自分で自分の首をしめることにならなければよいがと思いました。
 つまり、編集者の目が購入時のみにいっていて、この本を長く愛してもらいたいという方には向いていないのです。
 こういった姿勢は、この本をシリーズ化して育てていこうという姿勢がないからだと思います。
 たとえ嘘でもいいから、ゆきとたつやとまた別の本で出会えるかもしれないと、読者に期待を持たせてほしかったと思いました。

まいにちいちねんせい (ポプラちいさなおはなし)
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