この短編では、冒頭の短編にも出てきた小学校五年生の女の子が主人公ですが、作品集全体の舞台である「喫茶・食事 ハタナカ」は出てこないで、彼女の学校が舞台です。
「ハタナカ」にやってくる多彩な女性が出てこないせいか、全体に精彩を欠いています。
ドッジボールの時に外野の方が好きで、飼育栽培委員の活動では顧問の先生の目を逃れて古いプランターに苺を植えている主人公は、なかなか魅力的なのですが、作品では十分に生かされていません。
話の展開が、見つからないようにあちこち場所を変えて世話されている苺よりも、教師たちの三角関係の方に収斂されてしまってつまらなくなっています。
アラフォーで、おそらく独身の津村には、働く女性よりも小学校五年の女の子の方が遠い存在だと思われるので、津村自身の過去の経験と想像に頼って書いているように思え、全体の描写に具体性が欠けていて、現代の小学校の女の子からは遊離してしまっているのかもしれません。
ただ、女性群像の中に、大人だけでなく小学生も含めて描いているのは、大人と子どもの共棲が必要な現代においては、重要な試みだと評価できます。
「ハタナカ」にやってくる多彩な女性が出てこないせいか、全体に精彩を欠いています。
ドッジボールの時に外野の方が好きで、飼育栽培委員の活動では顧問の先生の目を逃れて古いプランターに苺を植えている主人公は、なかなか魅力的なのですが、作品では十分に生かされていません。
話の展開が、見つからないようにあちこち場所を変えて世話されている苺よりも、教師たちの三角関係の方に収斂されてしまってつまらなくなっています。
アラフォーで、おそらく独身の津村には、働く女性よりも小学校五年の女の子の方が遠い存在だと思われるので、津村自身の過去の経験と想像に頼って書いているように思え、全体の描写に具体性が欠けていて、現代の小学校の女の子からは遊離してしまっているのかもしれません。
ただ、女性群像の中に、大人だけでなく小学生も含めて描いているのは、大人と子どもの共棲が必要な現代においては、重要な試みだと評価できます。
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