千葉大学教育学部研究紀要第三五巻一部に、1987年に発表された論文です。
石井直人の「児童文学における<成長物語>と<遍歴物語>の二つのタイプについて」(『日本児童文学学会会報』第十五号所収、その記事を参照してください)をもとに、日本の幼年童話の「成長」と「遍歴」について考察しています。
初期の長編幼年童話であるいぬいとみこの「ながいながいペンギンの話」や「北極のムーシカミーシカ」は、「成長物語」の典型的な構造を備えているとしています。
また、瀬田貞二の「幼い子の文学」(その記事を参照してください)で指摘されている「生きて帰りし物語」は、「成長物語」の構造を備えているととらえています。
この「生きて帰りし物語」という枠に当てはまる作品として、寺村輝夫の「ぼくは王さま」、中川李枝子の「いやいやえん」、小沢正の「目をさませトラゴロウ」、神沢利子「くまの子ウーフ」などの短編連作の作品群をあげています。
そして、個々の短編は「成長物語」であるが、短編集全体としては「遍歴物語」の様相を呈していると指摘しています。
それは、短編のひとつずつの小さな「成長」が次の短編につながるような書き方をすれば、A・A・ミルンの「プー横丁にたった家」のラストシーンで、クリストファー・ロビンが物語世界に別れを告げたように、「幼年時代」から脱却しなければならないからです。
しかし、このような「成長」と「遍歴」の二項対立に対して、異なるアプローチをした幼年童話シリーズに、松谷みよ子の「「モモちゃんとアカネちゃんの本」シリーズがあるとしています。
著者は、「ちいさいモモちゃん(1964年)」、「モモちゃんとプー(1970年)」、「モモちゃんとアカネちゃん(1975年)」、「ちいさいアカネちゃん(1978年)」、「アカネちゃんとお客さんのパパ(1983年)」という二十年にわたり書き継がれた全5作を丹念に読むことにより、その構造を明らかにしていきます。
まず、「ちいさいモモちゃん」は、モモちゃんが誕生してから三歳過ぎまでの文字通り「成長物語」として書かれていることを検証しています。
次に、「モモちゃんとプー」は、同じように「成長物語」として、モモちゃんの小学校入学前までが描かれていますが、そのままだと「幼年物語」としてのこのシリーズは終わってしまうので、終わり近くで新しい「幼児」であるアカネちゃんを誕生させています。
第3作の「モモちゃんとアカネちゃん」からは、作品世界の中心はアカネちゃんに移っていきますが、アカネちゃんはあまり成長せず(1歳7か月まで)に幼さをひきずっていきます。
次の第4作の「ちいさいアカネちゃん」でも、アカネちゃんは1歳9か月から3歳の百日前(2歳9か月)までとゆっくり成長します。
そして、第5作の「アカネちゃんとお客さんのパパ」の第1話では、アカネちゃんは2歳7か月に戻ってしまいます。
第5作「アカネちゃんとお客さんのパパ」で、アカネちゃんは3歳と4歳の誕生日を迎えますが、5歳の誕生日に関してはあいまいなままでだんだん年齢不詳化されていきます。
こうしたシリーズ全体の「成長物語」から「遍歴物語」への移行は、このシリーズが二十年という長い期間に書かれたことと、非常な人気を得て幼児のみならず小学生や母親たちまでを含んだ広範な読者を獲得していったことが原因と思われます。
読者には、モモちゃんやアカネちゃんの「成長」を喜びながらも、この物語世界にいつまでも留まりたい(「遍歴」したい)という欲求があり、作者がそれにこたえていったことが、モモちゃんとアカネちゃんの成長の違いに現れているのでしょう。
こういったことは、漫画やアニメでは常套手段として使われています。
例えば、サザエさんでは、タラちゃんの成長に伴い幼児性を代償する存在としてイクラちゃんを登場させています。
最近の例では、読売新聞の「コボちゃん」も、コボちゃんが小学校に上がる代償として、妹のミホちゃんを誕生させています。
このように、好評を得て長く続いたシリーズ物では、「成長物語」と「遍歴物語」の二項対立ではなく、その間で微妙なバランスを取った作品群が生まれてくるのでしょう。
これは、いつまでもこのシリーズを読み続けたいという読者の欲求(書き続けたいという作者の欲求でもあります)から生じるものだと思われます。
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