いとうひろしの「おさるのまいにち」(その記事を参照してください)を題材にして、現代児童文学が主要なテーマとしてきた「成長」と「私(主体性と読み替えてもいいかもしれません)」が、90年代に入ってあいまい化される傾向にあることを論じています。
「おさるのまいにち」では、擬人化(擬さる化)の過程において、「主人公はさるか、人間か。読者はさるか、人間か。」があいまいになっていると指摘しています。
これと同様の例としては、工藤直子の少年詩「ライオン」(「てつがくのライオン」所収、その記事を参照してください)をあげています。
著者は、これらの作品では「私の立つ場所がない」と主張しています。
また、「おさるのまいにち」が「成長物語」ではなく「遍歴物語」である(これらの用語については、それらについての石井直人の論文の記事を参照してください)とする宮川健郎や石井直人の意見に疑問を呈しています。
「おさるのまいにち」の文体を詳細に検討して、この作品が「成長物語」か「遍歴物語」かの単純な二元論でくくられるものではなく、ここでもそれらがあいまい化されていると指摘しています。
また、「私(主体)」の居場所がない作品の例として、谷川俊太郎の「わたし」(内容はその記事を参照してください)をあげています。
それに対して、擬人化された幼年童話で「私」が消えずにいる例として、神沢利子の「くまの子ウーフ」(その記事を参照してください)をあげています。
著者本人が認めているように、「「成長」をどの視点から捉えるのか、という問題と、擬人化という手法の中であいまい化される「私」の問題、そしてそれらが絡まりあって、<児童文学のことばの力>が透明な記号のようなことばにとってかわられつつあることへの不安を、うまく構造化して伝えられなかった。」という課題は残ったものの、ここで提示された90年代の児童文学の問題点は多くの示唆を含んでいます。
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おさるのまいにち (どうわがいっぱい) |
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講談社 |