2010年公開の、キャサリン・ライアン・ハイドの同名小説を映画化した作品です。
「世界を変えるために自分でできること」という風変わりな学校(ジュニア・ハイスクールの一年生です)の課題に、まともに取り組んだ12歳の少年の戦いを描いています。
彼が考えたのは、自分が三人の人に無償の善意の行動を行えば、それが連鎖的に拡がって、やがては世界が変わるというものです。
それは、彼自身が、アルコール依存症で家庭内暴力(彼自身にではなく彼の母親に対してです)でネグレクトの父親と、アルコール依存症で恋愛依存症(DVの夫にも依存しています)の母親のもとに育ち、この「クソのような」世界を変えたいと思っていたからです。
彼自身は、第一段階(薬物依存上のホームレスの男性を立ち直らせる、父親のDVによって顔や体にひどいやけどを負って女性と交際できない担任の教師(この課題を出した人です)と自分の母親との仲を取り持つ、いじめられている友だちを暴力から守る)をクリアできなくて悪戦苦闘するのですが、彼の知らないところでこの「ペイ・フォワード」運動は広がりを見せます。
一方で、彼自身は、三番目の課題の友人を守ろうとして命を落としてしまいます。
こうした原作のある映画は、上映時間の制限があるので、どうしてもあらすじのようになってしまいますし、観客にうける母親と教師の恋愛が中心になってしまって、「ペイ・フォワード」運動については説明的になっている感はあります。
それでも、アルコール依存症、薬物依存症、DV、ネグレクト、ホームレス、学校内暴力、犯罪など、アメリカが抱える社会問題の根深さを考えさせてくれます。
そして、それらの多くは、現在では日本社会の深刻な問題でもあります。
昭和47年に「路上」16号と17号に掲載された論文で、副題からも分かるように宮沢賢治論(未完)の一部として発表されました。
作品集の中の「どんぐりと山猫」、「烏の北斗七星」、「水仙月の四日」の三作品(それぞれの記事を参照してください)を取り上げ、ふんだんに引用をちりばめながら、特に文章表現と登場人物の心理について、詳しく論じています。
編者の続橋達雄は、「あくまで、氏の感性なり、感覚を武器にして作品世界にわけ入り、作品の声に耳を傾けようとしている。基礎資料などによく目をとおしていることで、恣意的な作品の読みとりや作品の評価から免れているといってよい。」と、評しています。