「近代文学」1959年7月号から12月号に掲載された児童文学時評です。
1959年は、一般的には「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)がスタートした記念すべき年と言われていますが、この時評を読む限りでは児童文学を取り巻く状況はいまだに混乱状態のようです。
7月号(児童文学及び児童文学者の変質)
再話、読物ばかりで創作児童文学を書かない既成の児童文学作家、生け花でも習う感覚で「童話」を書き始めるしろうと(主婦)作家とそれを是として推進しようとしている日本児童文学者協会を批判しています。
8月号(通俗児童文学の底に)
当時の通俗児童文学(今で言えばエンターテインメントにあたります)は古臭くて、同じ通俗でも少年マンガの方に新しさがあると批判しています。
9月号(安保条約と児童文学)
児童文学者協会の総会に政治的な課題を持ち込もうとした筆者たちを批判した、雑誌「新潮」8月号に反論しています。
雑誌や同人誌などに発表された作品の問題点を指摘しつつも、そこに新しい児童文学の可能性があることを示唆しています。
10月号(戦中戦後の体験と児童文学)
「現代児童文学」の出発点の一つとされている佐藤さとる(当時は暁)「だれも知らない小さな国」を、その優れた散文性、戦争体験の象徴性、物語作りの方法の新しさなどを評価しつつも、その思想の脆弱性(実感にとどまっていて理論化されていない)を批判しています(ちなみに、「現代児童文学」のもうひとつの出発点とされるいぬいとみこ「木かげの家の小人たち」は、この時評を通して触れられていません)。
やっと戦中戦後の体験の意味を考える作品が登場してきたとして、そのことを推進してこなかった児童文学者協会を批判しています。
11月号(作品中の自分)
「だれも知らない小さな国」の評価(石井桃子、いぬいとみこ、鳥越信)を紹介しつつ、疎開児童文学の代表作と言われている柴田道子「谷間の底から」と比較して、作品の中に「自分」がいると評価しています。
12月号(『荒野の魂』と民族問題)
アイヌ民族を描いた斉藤了一「荒野の魂」を、問題点を指摘しつつも、民族の課題に真正面から取り組んだ作品の登場を評価しています。
全体的に、新しい児童文学の方向性についての論争や模索、児童文学者協会などを舞台にした従来の価値観を持った既成の児童文学者との主導権争いなどで、依然として混迷した状態が続いていることを示しています。
そういった意味では、「現代児童文学」の方向性が定まったのは60年代に入ってからなのでしょう。
私は、こうした混迷期まで含めて「現代児童文学」の時代だと考えているので、この論争が始まった1953年を「現代児童文学」のスタートとする立場です(その記事を参照してください)。
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児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) |
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