1960年11月に、「四次元」121号に掲載された論文です。
「注文の多い料理店」の目次には、作品の制作年月日が以下のように記載されています。
どんぐりと山猫 1921年9月19日
狼森と笊森、盗森 1921年11月
注文の多い料理店 1921年11月10日
烏の北斗七星 1921年12月21日
水仙月の四日 1922年1月19日
山男の四月 1922年4月7日
かしはばやしの夜 1921年8月25日
月夜のでんしんばしら 1921年9月14日
鹿踊のはじまり 1921年9月15日
しかし、この論文が書かれたころは、最後の3作品の制作年月日は誤植だとして、1921年ではなく1922年であるとするのが一般的で、その頃までの全集の年譜にもこの3作品は1922年に創作されたことになっていました。
その理由としては、先行して出版された詩集「春と修羅」が制作年月日順に掲載されており、「注文の多い料理店」も最後の3作品を1922年作とすると制作年月日順になることがあげられていました。
著者は、当時の賢治の生活、特に1921年に東京に8ヶ月滞在していた時期の生活や創作意欲、特に「春と修羅」の詩作との関連を丹念に調査して、これらは誤植ではなく、掲載された制作年月日が正しいことを証明しました。
そして、そのことを、賢治の全集の編集で中心的な役割を果たしていた実弟の清六氏に知らせて、本人の了承を得たことも記しています。
当時の賢治研究者の熱意を感じるとともに、事実を再確認して自分の誤りを潔く認めて訂正した清六氏にも、共に賢治研究を推し進めていこうとする姿勢が感じられて感銘を受けました。
清六氏の言葉通りに、その後賢治の年譜は改められ、私の持っている筑摩書房の校本「宮澤賢治全集」第十四巻(1977年10月30日発行)の年譜でも、この3作品は1921年作になっています。
それにしても、かしわばやしの夜(1921年8月25日)から「どんぐりと山猫」(1921年9月19日)までの、怒涛のような創作意欲の高まり(3週間に4作。特に、最後は6日間で3作)はどうでしょうか。
著者は、これらの4作が東京滞在中に書かれた作品で、8ヶ月の滞在の成果として、一般に言われているような敗北(当時の童話の世界で作品が認められなかった)ではなく、彼の文学の再出発点(都会の退廃を見限って、郷土の自然に理想郷を構築する)としていますが、全く同感です。
特に、巻頭に「どんぐりと山猫]を持ってきたことは、ここに賢治の重要な人間観である「でくのぼう」が明示されて、それ以降の賢治の創作の方向性を指し示していて非常に重要です。