カーン。
いきおいのよいゴロが、一塁ベースよりにきた。芳樹は、ダッシュしながらボールをキャッチしようとした。
(あっ!)
グローブを出すのが一瞬遅れて、ボールを大きくうしろにはじいてしまった。芳樹は、あわててボールの後を追いかけた。
「よっちゃん、あんまり突っ込んでくるな。あわてなくても、守備位置はセカンドなんだから、待ってても一塁は充分間に合うよ」
ゴロをノックしてくれたおとうさんが、向こうで叫んでいる。
今まで芳樹はサードを守っていたので、どうしても前にダッシュしてボールをキャッチしようとする癖が抜けきらない。一塁ベースから遠い三塁の守備位置からでは、そうしないと送球が間に合わなかった。
芳樹は、勢いがゆるくなるようにワンバウンドさせて返球した。おとうさんはバットを右手に持ったまま、ボールを素手の左手でワンハンドキャッチした。
「もう一回、お願いしまーす」
芳樹は、右手をあげてさけんだ。
おとうさんが体を左に傾けながら、また速いゴロをノックしてくれた。
今度は、正面にボールが来た。芳樹はボールが来るのを待ってから、慎重にキャッチした。そして、すばやく一塁に送球。
ところが、今度は送球が左に大きくそれてしまった。
「うわーっ」
ファーストを守る兄の正樹のグラブをかすめて、ボールは公園の外に飛び出していく。
「あわてて投げすぎだよ。こんな近くでそんなに急いで投げるなよ」
正樹はブツブツ文句をいいながら、道路におりてボールをひろいにいっている。
「よっちゃーん、リラックス、リラックス。キャッチしてから、少し待って投げるくらいでいいから」
向こうで、おとうさんが手を上げている。
芳樹は、緊張をほぐすために、右手をグルグルと大きくまわした。
「おーい、いくぞお」
正樹が、道路の方から声をかけてきた。
やまなりのボールが、こちらにむかって飛んできた。芳樹はそのボールをキャッチすると、すぐにおとうさんにワンバウンドで返球した。
「今度はしっかり投げろよ」
正樹が、道路からかけあがってきた。
「うん、わかった」
芳樹はグローブをポンポンとたたきながら、守備のかまえにはいった。
「いくぞお」
おとうさんが、今度は一塁寄りに速いゴロを打ってきた。芳樹は、左にすばやく移動してキャッチ。
「にいちゃん」
声をかけながら、ファーストにトスした。
「OK]
今度は、正樹がしっかりと取ってくれた。
今日から毎日、おとうさんが会社へ行く前に、近くの公園の広場で朝練をしてくれることになった。
ウォーミングアップには、少しだけキャッチボールをする。その後で、おとうさんがゴロだけをノックしてくれた。だから、守備位置がセカンドに変わったばかりの芳樹にとっては、かっこうの練習になっている。
中一の兄の正樹も、気が向けば練習に付き合ってくれるといってくれた。正樹は左利きだったから、ファースト役にはもってこいだった。きちょうめんな性格の正樹は、地面に靴のつま先で、きちんとファーストベースを描いた。セカンドを守る芳樹との間も、実際のグランドと同じ距離に保っている。
「おーい、みんなあ。時間よお」
公園の外から、おかあさんが声をかけてくれた。
「よし、今日はここまでにしよう」
おとうさんは、バットを肩にかついで先に歩き出した。
「ほれ」
追いついてきた正樹が、山なりのボールを芳樹にトスした。芳樹たちは、軽くボールを投げ合いながら家に戻り始めた。
五年生になったばかりの芳樹は、最初からチームの中心選手だった。去年の秋に新チームを組んだときなどは、上級生たちをさしおいて、キャッチャーと二番手ピッチャーといった、要のポジションをまかされていたほどだ。
去年の秋、新チームになってすぐの新人戦のころは、芳樹ははりきってプレーをしていた。
「しまっていこー!」
毎回、守備位置についたとき、芳樹はキャッチャーマスクを頭の上にあげて大声で叫んだ。
「おーっ!」
みんなが返事をしてくれると、自分がチームをひきいているみたいで、気持ちが良かった。
しかし、その後、監督の方針で、新チームのキャプテン(六年生)に、チームをリードするキャッチャーの座をゆずることになってしまった。
そのため、守備位置はファーストにまわることになった。
ここでも、キャッチングに自信があった芳樹は、丈の長いファーストミットをうまくあやつって、無難にこなしていた。
ところが、新学年になると、背が高いけれど不器用でサードを失格になった六年生のために、ファーストのポジションをゆずらなくてはならなくなった。ファーストは、高い球も取らなくてはならないので、背が高い子には向いているのだ。
芳樹の守備位置は、今度はサードに変わった。
どうやら監督は、芳樹のことを、どこをやらせても器用にこなせる選手だと、思っていたみたいだった。
そのため、チーム事情にあわせて、あちこちの守備位置をやらされるはめになってしまったのだ。
芳樹は、キャッチングには自信があった。だから、本当は、キャッチャーかファーストをやりたかった。
でも、そんな本人の希望は、六年生たちを一人前にするのにかかりきりの監督には、完全に無視されてしまった。
そのためか、五年生になってから、芳樹は急激にやる気がなくなった。自主練をさぼるようになり、正式練習でも気合が入らなくっていた。
でも、六年生たちで手一杯な監督やコーチたちは、そんな芳樹の様子に気づいていないようだった。
練習の成果というのは、正直なものだ。監督の特訓でしだいに力をつけてきた六年生たちに、芳樹は実力でも追い抜かれ始めていた。
そして、けっきょく二番手ピッチャーも、サードも、監督に失格の烙印を押されてしまったのだ。
そして、郡大会を目前にして、今度はセカンドにまわされることになった。
ところが、芳樹は、いつのまにか別人みたいに不器用になってしまっていた。そのため、セカンドの守備になかなか慣れることができなかった。
今まで順調すぎるほどだった芳樹の野球人生において、初めて訪れた試練だったかもしれない。すっかり調子を落としてしまった芳樹を見かねて、おとうさんが朝錬をやってくれるようになったのだ。
次の土曜日、芳樹の入っている少年野球チーム、ヤングリーブスの練習の時だった。
監督が、シートノック(レギュラーが定位置に着いてやる守備練習)をしていた。
カーン。
速いゴロが、セカンドベース寄りに飛んだ。
芳樹はすばやく横に移動すると、逆シングルでボールをキャッチした。
体を反転させて、一塁へ送球。
「ナイスキャッチ。やっぱり、キャッチングは芳樹が一番だな」
監督が、大声で芳樹をほめた。
セカンドとしての体の動かし方が、ようやく身に付いてきた。さっそく、朝錬の成果が出たようだ。
「次、ショート」
監督は、次の球をノックした。
章吾が、三遊間寄りのゴロを素早くさばいて、ファーストに送球した。
「章吾、ナイス。次は、6、4、3な」
監督が章吾にセカンドベース寄りのボールをノックした。
章吾ががっちりキャッチすると、セカンドベースに入った芳樹にトス。
芳樹はベースを踏みながら、ファーストへボールを投げた。
「よし、ダブルプレー成功」
監督が機嫌よさそうに叫んだ。
郡大会に向けて、チームの練習には熱が入っている。
「バッチ(バッターのこと)、こーい」
「バッチ、こーい」
守備についていても、みんなから良く声が出ている。
セカンドの芳樹が安定してきたので、ようやくレギュラーの守備位置が固まってきた。
外野の守備にはやや不安が残っていたが、内野はなかなか堅い守備を誇っていた。
サードは四年生の康平。肩も強いし、ボールをぜんぜん怖がらないので、強い打球にも逃げずに食らいついていた。
ショートは、同じく四年生の章吾。レギュラーでは一番の小柄だったが、一年生の時からチームに入っていた野球を良く知っている選手だった。
ファーストは、六年生の広斗。キャッチングには少し難があったが、長身なので高い球に強くファーストにはぴったりだった。
ピッチャーは、六年生の智美。監督ご自慢の郡でただ一人の女子エースだ。ピッチングだけでなくフィールディングもうまかった。
キャッチャーは、六年生でキャプテンの直輝。小柄で肩がやや弱かったが、ファイト満々でチームを引っ張っていた。
そして、セカンドを守るのが、ようやくこのポジションに慣れてきた五年生の芳樹だった。
少年野球の郡大会が始まった。郡内の四町から十八チームが参加している。
この大会で準々決勝に勝ってベストフォーに残れば、自動的に県大会に出場できた。
県大会は、いろいろなスポンサーが主催している四つの大会がある。だから、郡大会でベストフォーに残れば、県大会に出場できた。
この一年間、ヤングリーブスは県大会出場を目指して、猛練習を続けてきた。いよいよその大会が始まるのだ。
キャプテン会議での抽選の結果、ヤングリーブスは一回戦が不戦勝になり、二回戦からの出場になった。チームのくじ運はまあまあかもしれない。二回戦と準々決勝の二試合を勝てば県大会に出場できた。
二回戦の対戦相手は、相模湖イーグルスだった。去年の練習試合では、10対1で楽勝している。もっとも、その時は、芳樹の兄の正樹たちが六年生だった時の、去年のチーム同士だったのでぜんぜん参考にならない。去年のヤングリーブスはレギュラーが全員六年生だったので、今年のチームの選手は誰も出場していなかった。
一回の表、先攻のヤングリーブスは、相手ピッチャーの制球難と守備陣の乱れをついて、早々と四点を先行した。今日は六番に入っている芳樹も、相手のエラーで出塁し、二盗、三盗を決めて、足で相手チームをかき回している。
その裏、ヤングリーブスの守りが始まった。
ピッチャーの智美が振りかぶった。
「ストライークッ!」
第一球は、低めに速球が決まった。上々の立ち上がりだ。
ガッ。
いきなりセカンドゴロがきた。
芳樹は、じっくりボールを待ってしっかりキャッチした。ファーストの広斗へ送球する。
「アウト」
一塁の審判が叫んだ。
芳樹は、最初の打球を無事に処理して、ホッとしていた。
その後も、試合はヤングリーブスペースで進んだ。着々と得点を重ねてリードを広げている。
ピッチャーの智美も、打たせて取るピッチングがさえている。バックの守備陣もがっちり守って相手の得点を最小に抑えている。
けっきょく、ヤングリーブスが9対3で快勝した。これで、来週の準々決勝に勝てば、県大会出場が決まる。
セカンドの芳樹も、ゴロ三つフライ一つをノーエラーでさばいて、無事に責任を果たした。ショートの章吾とのコンビで、ダブルプレーもひとつ決めている。
イーグルスとの試合が終わるとすぐに、ホームグラウンドの校庭に戻った。来週の準々決勝に備えて、さっそく練習をするためだ。
こんな時、大会が地元若葉町の横山グラウンドで行われているので、すぐに練習に戻れて有利だ。監督にいわせると、これもホームタウンアドバンテージ(地元のチームが有利)のひとつだということになる。それ以外にも、近いので応援団が多いなどいろいろな利点があった。
来週の土曜日の準々決勝の対戦相手は、同じ町の城山ジャガーズだった。チームのレギュラーは六年生ばかりで強打で有名だ。
先月行われた町の春季大会では、外野のうしろにボカスカ打たれて、13対0で四回コールド負けをきっしている。その大会の優勝もジャガーズだった。
練習の前のミーティングの時に、監督がいった。
「ジャガーズ戦だけ、芳樹を外野にコンバート(守備位置変更)しようと思う。今日から、その守備位置で練習をやろう」
芳樹の外野へのコンバージョンは、強打のジャガーズ対策の秘密兵器だった。ジャガーズ戦では、外野への飛球が圧倒的に多い。芳樹は足も速いし、キャッチングもうまい。その芳樹を外野にコンバージョンして、ジャガーズの強打線の打球に備えようというのだ。
センターにはすでにチーム一の俊足で、六年生の徹がいた。徹は守備範囲も広いし、肩も強かった。だから、芳樹が守るとしたらレフトかライトだ。
そこに、もうひとつの秘策ともいうべき監督のアイデアがあった。
さっそく、芳樹を外野に入れた守備位置での秘密練習が始まった。
「また、守備位置が変わったんだ」
その日の夕食の時に、芳樹がいうと、
「えっ、今度はどこ?」
おとうさんは、びっくりしたような声を出していた。
「外野」
「えっ、そうなの。やっとセカンドに慣れてきたのに」
おとうさんの声が心配そうになる。
「うん。でも、セカンドがだめだってわけじゃないんだ。次の試合だけの戦術的なコンバートなんだって」
「戦術的コンバート?」
「うん、監督がそういってた。ぼくの足の速さとキャッチングのうまさをいかしたいんだって」
「で、外野のどこを守るんだ?」
「レフトとライト」
「えっ、どういう意味?」
「右バッターの時はレフトで、左バッターの時はライトなんだって」
これが対ジャガーズ戦用の監督の秘策だった。ジャガーズの打線は強打者揃いなので、ヤングリーブスのピッチャーの智美の球速では必ず引っ張られて、右バッターはレフト方向へ、左バッターはライト方向へ大きな打球が飛ぶのだ。
「ええーっ!」
この秘策というよりは奇策に、さすがにおとうさんも驚いていた。
「じゃあ、今日からは、朝錬もフライキャッチの練習にするからね」
芳樹とおとうさんは、公園の広場の対角に位置した。そのちょうど中間に、正樹が今日はセカンドベースを描いた。セカンドとショートの役をやってくれるのだ。芳樹がライトの時はショートが、レフトの時はセカンドが内野への返球をキャッチするからだ。
「ライト」
おとうさんの声とともに、芳樹は左側に動いてライトの守備位置についた。同時に、正樹は右に動いてショートの位置についた。
カーン。
浅いフライが上がった。芳樹は一、二歩前進すると、なんなくキャッチ。
「バックセカン」
正樹が声をかけると、芳樹はすばやくセカンドに返球した。
カーン。
今度はやや大きめなフライがセンターよりに飛んだ。芳樹は素早く落下地点を見定めると、やや下がりながらランニングキャッチした。
「バック」
芳樹は、今度もいい球を正樹に返した。
「よっちゃん、フライは大丈夫なようだね」
おとうさんが満足そうに声をかけた。もともとキャッチングに自信のある芳樹は、監督がにらんだ通り外野ならなんなくこなせそうだ。
「じゃあ、今度はレフト」
おとうさんにいわれて、芳樹は守備位置を右側に変更した。正樹も、今度は左側のセカンドの位置に移動している。
カーン。
おとうさんがフライをノックして、練習が再開された。
翌週の土曜日、城山ジャガーズとの準々決勝が行われた。ここで勝てばベストフォー進出で、県大会出場が決まる。まさに、今シーズン一番の大勝負だった。
一回の表、ヤングリーブスが守りについた。城山ジャガーズの一番バッターは、左バッターだったので、芳樹はライトを守っている。
ピッチャーの智美が第一球を投げた。
「ストライク」
審判が叫ぶ。外角低めに速球が決まった。智美は好調を維持しているようだ。
二球目。ボールがやや高めに浮いた。
カーン。
思い切りよく引っ張った打球が、ライトを襲う。
しかし、あらかじめ深めに守っていた芳樹が、背走してランニングキャッチした。
「いいぞ、よっちゃん」
応援席から、おとうさんの声が聞こえてきた。
「ワンアウトよお」
芳樹は人差し指を一本立てて、チームメイトに叫んだ。
「おーっ」
みんなもそれにこたえた。
次の打者は、右バッターだった。
監督はベンチから出ると、
「守備交代をお願いします。ライトがレフト、レフトがライト」
芳樹は、今度はレフトに向かって走り出した。観客席は、思いがけない守備交代にざわめいていた。
最終回(少年野球の場合は七回)の裏、3対2とヤングリーブスが1点リードしていた。芳樹をレフトとライトにコンバートした監督の奇策があたって、相手チームの打線を抑えている。芳樹は、フライをレフトで五つ、ライトで四つと、合計九つもキャッチして、しかもノーエラーだった。この数は、六回までのジャガーズの全アウト数の、ちょうど半分にあたっていた。
しかし、この回、智美がコントロールを乱して、相手打線に捕まってしまった。
ワンアウト満塁。ヒットが出れば逆転サヨナラ負けのピンチだ。
次のバッターは、左バッターだった。
すかさず監督がベンチから出てきた。
「守備位置、変更します。ライトがレフト、レフトがライト」
主審に守備の交代を告げる。
今日の試合で、いったい何回目だろう。おそらく十回以上にもなる
芳樹は、レフトの守備位置から、小走りにライトに向かった。
ライトからは、四年生の慧(けい)がこちらに走ってくる。
「ハーイ」
ちょうど中間地点ですれ違った時、二人はグローブでハイタッチをした。
相手バッターは四番の強打者だ。芳樹は大きな当たりに備えて、深めに守った。
カーーン。
智美が投げ込んだ初球を、相手のバッターが思い切り引っ張った。
鋭いライナーが、芳樹に代わってセカンドに入っている佳之の頭の上を越えてくる。このまま右中間を抜かれたら、逆転サヨナラだ。
芳樹は、けんめいに右中間へ走っていった。
打球は、地面すれすれにまで落ちてきていた。
芳樹は、全身を前に投げ出すようにしてダイビングした。
キャッチ!
芳樹がけんめいに差し出したグローブに、ボールがすっぽりと入っていた。
(やったあ!)
芳樹は、グローブを差し上げてノーバウンドでキャッチしたことを、二塁の審判に示した。そして、すぐに跳ね起きて、二塁の方を見た。
打球が外野の間を抜けると思った二塁ランナーは、大きく飛び出している。
「よっちゃん、バックセカンド」
ショートの章吾がベースカバーに入ってくる。
芳樹は、すばやく章吾に返球した。
「アウトッ」
ダブルプレーで一気にチェンジになった。ヤングリーブスは、3対2でぎりぎり逃げ切った。これで、県大会出場が決定したのだ。
「ワーッ!」
チームのみんなが歓声をあげながら、ホームベースへかけていく。芳樹も、泥だらけになったユニフォームのままけんめいに走っていった。
いきおいのよいゴロが、一塁ベースよりにきた。芳樹は、ダッシュしながらボールをキャッチしようとした。
(あっ!)
グローブを出すのが一瞬遅れて、ボールを大きくうしろにはじいてしまった。芳樹は、あわててボールの後を追いかけた。
「よっちゃん、あんまり突っ込んでくるな。あわてなくても、守備位置はセカンドなんだから、待ってても一塁は充分間に合うよ」
ゴロをノックしてくれたおとうさんが、向こうで叫んでいる。
今まで芳樹はサードを守っていたので、どうしても前にダッシュしてボールをキャッチしようとする癖が抜けきらない。一塁ベースから遠い三塁の守備位置からでは、そうしないと送球が間に合わなかった。
芳樹は、勢いがゆるくなるようにワンバウンドさせて返球した。おとうさんはバットを右手に持ったまま、ボールを素手の左手でワンハンドキャッチした。
「もう一回、お願いしまーす」
芳樹は、右手をあげてさけんだ。
おとうさんが体を左に傾けながら、また速いゴロをノックしてくれた。
今度は、正面にボールが来た。芳樹はボールが来るのを待ってから、慎重にキャッチした。そして、すばやく一塁に送球。
ところが、今度は送球が左に大きくそれてしまった。
「うわーっ」
ファーストを守る兄の正樹のグラブをかすめて、ボールは公園の外に飛び出していく。
「あわてて投げすぎだよ。こんな近くでそんなに急いで投げるなよ」
正樹はブツブツ文句をいいながら、道路におりてボールをひろいにいっている。
「よっちゃーん、リラックス、リラックス。キャッチしてから、少し待って投げるくらいでいいから」
向こうで、おとうさんが手を上げている。
芳樹は、緊張をほぐすために、右手をグルグルと大きくまわした。
「おーい、いくぞお」
正樹が、道路の方から声をかけてきた。
やまなりのボールが、こちらにむかって飛んできた。芳樹はそのボールをキャッチすると、すぐにおとうさんにワンバウンドで返球した。
「今度はしっかり投げろよ」
正樹が、道路からかけあがってきた。
「うん、わかった」
芳樹はグローブをポンポンとたたきながら、守備のかまえにはいった。
「いくぞお」
おとうさんが、今度は一塁寄りに速いゴロを打ってきた。芳樹は、左にすばやく移動してキャッチ。
「にいちゃん」
声をかけながら、ファーストにトスした。
「OK]
今度は、正樹がしっかりと取ってくれた。
今日から毎日、おとうさんが会社へ行く前に、近くの公園の広場で朝練をしてくれることになった。
ウォーミングアップには、少しだけキャッチボールをする。その後で、おとうさんがゴロだけをノックしてくれた。だから、守備位置がセカンドに変わったばかりの芳樹にとっては、かっこうの練習になっている。
中一の兄の正樹も、気が向けば練習に付き合ってくれるといってくれた。正樹は左利きだったから、ファースト役にはもってこいだった。きちょうめんな性格の正樹は、地面に靴のつま先で、きちんとファーストベースを描いた。セカンドを守る芳樹との間も、実際のグランドと同じ距離に保っている。
「おーい、みんなあ。時間よお」
公園の外から、おかあさんが声をかけてくれた。
「よし、今日はここまでにしよう」
おとうさんは、バットを肩にかついで先に歩き出した。
「ほれ」
追いついてきた正樹が、山なりのボールを芳樹にトスした。芳樹たちは、軽くボールを投げ合いながら家に戻り始めた。
五年生になったばかりの芳樹は、最初からチームの中心選手だった。去年の秋に新チームを組んだときなどは、上級生たちをさしおいて、キャッチャーと二番手ピッチャーといった、要のポジションをまかされていたほどだ。
去年の秋、新チームになってすぐの新人戦のころは、芳樹ははりきってプレーをしていた。
「しまっていこー!」
毎回、守備位置についたとき、芳樹はキャッチャーマスクを頭の上にあげて大声で叫んだ。
「おーっ!」
みんなが返事をしてくれると、自分がチームをひきいているみたいで、気持ちが良かった。
しかし、その後、監督の方針で、新チームのキャプテン(六年生)に、チームをリードするキャッチャーの座をゆずることになってしまった。
そのため、守備位置はファーストにまわることになった。
ここでも、キャッチングに自信があった芳樹は、丈の長いファーストミットをうまくあやつって、無難にこなしていた。
ところが、新学年になると、背が高いけれど不器用でサードを失格になった六年生のために、ファーストのポジションをゆずらなくてはならなくなった。ファーストは、高い球も取らなくてはならないので、背が高い子には向いているのだ。
芳樹の守備位置は、今度はサードに変わった。
どうやら監督は、芳樹のことを、どこをやらせても器用にこなせる選手だと、思っていたみたいだった。
そのため、チーム事情にあわせて、あちこちの守備位置をやらされるはめになってしまったのだ。
芳樹は、キャッチングには自信があった。だから、本当は、キャッチャーかファーストをやりたかった。
でも、そんな本人の希望は、六年生たちを一人前にするのにかかりきりの監督には、完全に無視されてしまった。
そのためか、五年生になってから、芳樹は急激にやる気がなくなった。自主練をさぼるようになり、正式練習でも気合が入らなくっていた。
でも、六年生たちで手一杯な監督やコーチたちは、そんな芳樹の様子に気づいていないようだった。
練習の成果というのは、正直なものだ。監督の特訓でしだいに力をつけてきた六年生たちに、芳樹は実力でも追い抜かれ始めていた。
そして、けっきょく二番手ピッチャーも、サードも、監督に失格の烙印を押されてしまったのだ。
そして、郡大会を目前にして、今度はセカンドにまわされることになった。
ところが、芳樹は、いつのまにか別人みたいに不器用になってしまっていた。そのため、セカンドの守備になかなか慣れることができなかった。
今まで順調すぎるほどだった芳樹の野球人生において、初めて訪れた試練だったかもしれない。すっかり調子を落としてしまった芳樹を見かねて、おとうさんが朝錬をやってくれるようになったのだ。
次の土曜日、芳樹の入っている少年野球チーム、ヤングリーブスの練習の時だった。
監督が、シートノック(レギュラーが定位置に着いてやる守備練習)をしていた。
カーン。
速いゴロが、セカンドベース寄りに飛んだ。
芳樹はすばやく横に移動すると、逆シングルでボールをキャッチした。
体を反転させて、一塁へ送球。
「ナイスキャッチ。やっぱり、キャッチングは芳樹が一番だな」
監督が、大声で芳樹をほめた。
セカンドとしての体の動かし方が、ようやく身に付いてきた。さっそく、朝錬の成果が出たようだ。
「次、ショート」
監督は、次の球をノックした。
章吾が、三遊間寄りのゴロを素早くさばいて、ファーストに送球した。
「章吾、ナイス。次は、6、4、3な」
監督が章吾にセカンドベース寄りのボールをノックした。
章吾ががっちりキャッチすると、セカンドベースに入った芳樹にトス。
芳樹はベースを踏みながら、ファーストへボールを投げた。
「よし、ダブルプレー成功」
監督が機嫌よさそうに叫んだ。
郡大会に向けて、チームの練習には熱が入っている。
「バッチ(バッターのこと)、こーい」
「バッチ、こーい」
守備についていても、みんなから良く声が出ている。
セカンドの芳樹が安定してきたので、ようやくレギュラーの守備位置が固まってきた。
外野の守備にはやや不安が残っていたが、内野はなかなか堅い守備を誇っていた。
サードは四年生の康平。肩も強いし、ボールをぜんぜん怖がらないので、強い打球にも逃げずに食らいついていた。
ショートは、同じく四年生の章吾。レギュラーでは一番の小柄だったが、一年生の時からチームに入っていた野球を良く知っている選手だった。
ファーストは、六年生の広斗。キャッチングには少し難があったが、長身なので高い球に強くファーストにはぴったりだった。
ピッチャーは、六年生の智美。監督ご自慢の郡でただ一人の女子エースだ。ピッチングだけでなくフィールディングもうまかった。
キャッチャーは、六年生でキャプテンの直輝。小柄で肩がやや弱かったが、ファイト満々でチームを引っ張っていた。
そして、セカンドを守るのが、ようやくこのポジションに慣れてきた五年生の芳樹だった。
少年野球の郡大会が始まった。郡内の四町から十八チームが参加している。
この大会で準々決勝に勝ってベストフォーに残れば、自動的に県大会に出場できた。
県大会は、いろいろなスポンサーが主催している四つの大会がある。だから、郡大会でベストフォーに残れば、県大会に出場できた。
この一年間、ヤングリーブスは県大会出場を目指して、猛練習を続けてきた。いよいよその大会が始まるのだ。
キャプテン会議での抽選の結果、ヤングリーブスは一回戦が不戦勝になり、二回戦からの出場になった。チームのくじ運はまあまあかもしれない。二回戦と準々決勝の二試合を勝てば県大会に出場できた。
二回戦の対戦相手は、相模湖イーグルスだった。去年の練習試合では、10対1で楽勝している。もっとも、その時は、芳樹の兄の正樹たちが六年生だった時の、去年のチーム同士だったのでぜんぜん参考にならない。去年のヤングリーブスはレギュラーが全員六年生だったので、今年のチームの選手は誰も出場していなかった。
一回の表、先攻のヤングリーブスは、相手ピッチャーの制球難と守備陣の乱れをついて、早々と四点を先行した。今日は六番に入っている芳樹も、相手のエラーで出塁し、二盗、三盗を決めて、足で相手チームをかき回している。
その裏、ヤングリーブスの守りが始まった。
ピッチャーの智美が振りかぶった。
「ストライークッ!」
第一球は、低めに速球が決まった。上々の立ち上がりだ。
ガッ。
いきなりセカンドゴロがきた。
芳樹は、じっくりボールを待ってしっかりキャッチした。ファーストの広斗へ送球する。
「アウト」
一塁の審判が叫んだ。
芳樹は、最初の打球を無事に処理して、ホッとしていた。
その後も、試合はヤングリーブスペースで進んだ。着々と得点を重ねてリードを広げている。
ピッチャーの智美も、打たせて取るピッチングがさえている。バックの守備陣もがっちり守って相手の得点を最小に抑えている。
けっきょく、ヤングリーブスが9対3で快勝した。これで、来週の準々決勝に勝てば、県大会出場が決まる。
セカンドの芳樹も、ゴロ三つフライ一つをノーエラーでさばいて、無事に責任を果たした。ショートの章吾とのコンビで、ダブルプレーもひとつ決めている。
イーグルスとの試合が終わるとすぐに、ホームグラウンドの校庭に戻った。来週の準々決勝に備えて、さっそく練習をするためだ。
こんな時、大会が地元若葉町の横山グラウンドで行われているので、すぐに練習に戻れて有利だ。監督にいわせると、これもホームタウンアドバンテージ(地元のチームが有利)のひとつだということになる。それ以外にも、近いので応援団が多いなどいろいろな利点があった。
来週の土曜日の準々決勝の対戦相手は、同じ町の城山ジャガーズだった。チームのレギュラーは六年生ばかりで強打で有名だ。
先月行われた町の春季大会では、外野のうしろにボカスカ打たれて、13対0で四回コールド負けをきっしている。その大会の優勝もジャガーズだった。
練習の前のミーティングの時に、監督がいった。
「ジャガーズ戦だけ、芳樹を外野にコンバート(守備位置変更)しようと思う。今日から、その守備位置で練習をやろう」
芳樹の外野へのコンバージョンは、強打のジャガーズ対策の秘密兵器だった。ジャガーズ戦では、外野への飛球が圧倒的に多い。芳樹は足も速いし、キャッチングもうまい。その芳樹を外野にコンバージョンして、ジャガーズの強打線の打球に備えようというのだ。
センターにはすでにチーム一の俊足で、六年生の徹がいた。徹は守備範囲も広いし、肩も強かった。だから、芳樹が守るとしたらレフトかライトだ。
そこに、もうひとつの秘策ともいうべき監督のアイデアがあった。
さっそく、芳樹を外野に入れた守備位置での秘密練習が始まった。
「また、守備位置が変わったんだ」
その日の夕食の時に、芳樹がいうと、
「えっ、今度はどこ?」
おとうさんは、びっくりしたような声を出していた。
「外野」
「えっ、そうなの。やっとセカンドに慣れてきたのに」
おとうさんの声が心配そうになる。
「うん。でも、セカンドがだめだってわけじゃないんだ。次の試合だけの戦術的なコンバートなんだって」
「戦術的コンバート?」
「うん、監督がそういってた。ぼくの足の速さとキャッチングのうまさをいかしたいんだって」
「で、外野のどこを守るんだ?」
「レフトとライト」
「えっ、どういう意味?」
「右バッターの時はレフトで、左バッターの時はライトなんだって」
これが対ジャガーズ戦用の監督の秘策だった。ジャガーズの打線は強打者揃いなので、ヤングリーブスのピッチャーの智美の球速では必ず引っ張られて、右バッターはレフト方向へ、左バッターはライト方向へ大きな打球が飛ぶのだ。
「ええーっ!」
この秘策というよりは奇策に、さすがにおとうさんも驚いていた。
「じゃあ、今日からは、朝錬もフライキャッチの練習にするからね」
芳樹とおとうさんは、公園の広場の対角に位置した。そのちょうど中間に、正樹が今日はセカンドベースを描いた。セカンドとショートの役をやってくれるのだ。芳樹がライトの時はショートが、レフトの時はセカンドが内野への返球をキャッチするからだ。
「ライト」
おとうさんの声とともに、芳樹は左側に動いてライトの守備位置についた。同時に、正樹は右に動いてショートの位置についた。
カーン。
浅いフライが上がった。芳樹は一、二歩前進すると、なんなくキャッチ。
「バックセカン」
正樹が声をかけると、芳樹はすばやくセカンドに返球した。
カーン。
今度はやや大きめなフライがセンターよりに飛んだ。芳樹は素早く落下地点を見定めると、やや下がりながらランニングキャッチした。
「バック」
芳樹は、今度もいい球を正樹に返した。
「よっちゃん、フライは大丈夫なようだね」
おとうさんが満足そうに声をかけた。もともとキャッチングに自信のある芳樹は、監督がにらんだ通り外野ならなんなくこなせそうだ。
「じゃあ、今度はレフト」
おとうさんにいわれて、芳樹は守備位置を右側に変更した。正樹も、今度は左側のセカンドの位置に移動している。
カーン。
おとうさんがフライをノックして、練習が再開された。
翌週の土曜日、城山ジャガーズとの準々決勝が行われた。ここで勝てばベストフォー進出で、県大会出場が決まる。まさに、今シーズン一番の大勝負だった。
一回の表、ヤングリーブスが守りについた。城山ジャガーズの一番バッターは、左バッターだったので、芳樹はライトを守っている。
ピッチャーの智美が第一球を投げた。
「ストライク」
審判が叫ぶ。外角低めに速球が決まった。智美は好調を維持しているようだ。
二球目。ボールがやや高めに浮いた。
カーン。
思い切りよく引っ張った打球が、ライトを襲う。
しかし、あらかじめ深めに守っていた芳樹が、背走してランニングキャッチした。
「いいぞ、よっちゃん」
応援席から、おとうさんの声が聞こえてきた。
「ワンアウトよお」
芳樹は人差し指を一本立てて、チームメイトに叫んだ。
「おーっ」
みんなもそれにこたえた。
次の打者は、右バッターだった。
監督はベンチから出ると、
「守備交代をお願いします。ライトがレフト、レフトがライト」
芳樹は、今度はレフトに向かって走り出した。観客席は、思いがけない守備交代にざわめいていた。
最終回(少年野球の場合は七回)の裏、3対2とヤングリーブスが1点リードしていた。芳樹をレフトとライトにコンバートした監督の奇策があたって、相手チームの打線を抑えている。芳樹は、フライをレフトで五つ、ライトで四つと、合計九つもキャッチして、しかもノーエラーだった。この数は、六回までのジャガーズの全アウト数の、ちょうど半分にあたっていた。
しかし、この回、智美がコントロールを乱して、相手打線に捕まってしまった。
ワンアウト満塁。ヒットが出れば逆転サヨナラ負けのピンチだ。
次のバッターは、左バッターだった。
すかさず監督がベンチから出てきた。
「守備位置、変更します。ライトがレフト、レフトがライト」
主審に守備の交代を告げる。
今日の試合で、いったい何回目だろう。おそらく十回以上にもなる
芳樹は、レフトの守備位置から、小走りにライトに向かった。
ライトからは、四年生の慧(けい)がこちらに走ってくる。
「ハーイ」
ちょうど中間地点ですれ違った時、二人はグローブでハイタッチをした。
相手バッターは四番の強打者だ。芳樹は大きな当たりに備えて、深めに守った。
カーーン。
智美が投げ込んだ初球を、相手のバッターが思い切り引っ張った。
鋭いライナーが、芳樹に代わってセカンドに入っている佳之の頭の上を越えてくる。このまま右中間を抜かれたら、逆転サヨナラだ。
芳樹は、けんめいに右中間へ走っていった。
打球は、地面すれすれにまで落ちてきていた。
芳樹は、全身を前に投げ出すようにしてダイビングした。
キャッチ!
芳樹がけんめいに差し出したグローブに、ボールがすっぽりと入っていた。
(やったあ!)
芳樹は、グローブを差し上げてノーバウンドでキャッチしたことを、二塁の審判に示した。そして、すぐに跳ね起きて、二塁の方を見た。
打球が外野の間を抜けると思った二塁ランナーは、大きく飛び出している。
「よっちゃん、バックセカンド」
ショートの章吾がベースカバーに入ってくる。
芳樹は、すばやく章吾に返球した。
「アウトッ」
ダブルプレーで一気にチェンジになった。ヤングリーブスは、3対2でぎりぎり逃げ切った。これで、県大会出場が決定したのだ。
「ワーッ!」
チームのみんなが歓声をあげながら、ホームベースへかけていく。芳樹も、泥だらけになったユニフォームのままけんめいに走っていった。