現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学における文学性とエンターテインメント性の両立について

2017-10-08 09:38:07 | 考察
 「現代児童文学(定義などは他の記事を参照してください)」において、もっとも文学性が高まったのは、1980年代から1990年代にかけてでしょう。
 従来アクションとダイアローグを中心に書かれていた児童文学に、描写(情景および心理)を中心にした小説的技法が取り入れられ、作品世界の様子や登場人物の内面などがよりきめ細かく描けるようになり文学性が高まりました。
 当時は児童書出版バブルで出版社に余裕があり、多様な本を出版できたことが、そうした新しい作品の出版を後押ししました。
 また、これらの作品のおかげで、児童文学は新しい読者(若い世代を中心にした大人の女性が主体)を獲得しました。
 その反面、そうした文学性の高い作品についていけない子ども読者(特に高学年の男の子)の児童書離れが深刻になりました。
 児童書出版バブルがはじけた1990年代後半になると、出版する本が売れ筋に絞り込まれて「現代児童文学」が事実上終焉すると、少数派の小学校高学年の男の子向けの本はほとんど出版されなくなり、彼らの児童書離れをますます加速しました。
 そのために、酒学校高学年の男の子たちの物語消費の手段は、従来から主体であった電子ゲームやトレーディング・カード・ゲームやアニメやコミックスに限られてしまいました(中学生以上の男の子たちにはライトノベルがあります)。
 一方、女の子たちの方でも、読書の対象は、ラブコメを中心にしたエンターテインメント作品に偏るようになってきました。
 さらに、この十年間の急速なスマホの普及は、児童書出版社の電子化への対応のまずさもあって、子どもたちの児童書離れを決定的にしました。
 こうした現象による必然の結果として、子どもたちの文学に対する受容力は急速に低下して、文学性の高い(その分、読解力を要求する)作品は読み進めることが困難になっています。
 こうした傾向を少しでも食い止める手段として、他の記事にも書きましたが、エンターテインメント性の高い要素を持った作品(例えば、ファンタジー、ホラー、SF、ユーモア、ミステリーなど)に、文学性の高い表現や文章を散りばめる試みがなされています。
 もちろん、そうした作品を書けるのは、文学性の高い作品とエンターテインメント作品の両方を書ける能力を兼ね備えた書き手に限られます。
 従来は、そうした作家は、文学性の高い作品とエンターテインメント作品を書き分けるのが普通で、初めにとっつきやすいエンターテインメント作品を手にした読者が、同じ作家のより文学性の高い作品へ移行していくのが普通の流れでした。
 しかし、前述したような文学に対する受容力低下の問題が、そうした流れを断ち切ってしまって、文学性の高い作品へ移行できないでいるのが現状です。
 その断絶を再びつなぎ直すためには、書き手にとっては至難の業(へたすると中途半端に終わってしまいます)ですが、文学性とエンターテインメント性を両立させた作品の存在が必要になっています。

夕暮れのマグノリア
クリエーター情報なし
講談社

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