雷鳴が轟いています。
67年前の今日、横浜は大空襲に見舞われました。
今日は、私のブログでは珍しいことを記したいと思います。
横浜大空襲のことは、実はあまりよく知らずに育ちました。
もちろん、大空襲があったことは、学校の授業や地域の方から聞いて知ってはいましたが
そういうことがあった、ということを知っている程度というぐらいでした。
なぜだか、その当時子供だった、親戚の伯父や伯母など
身の周りの大人たちは、あまり語りたがらなかったような印象がありました。
それがどうしてなのか、最近になって、まだ何となくですが
分かるような気がします。
大空襲の話や当時のことは、それを目の当たりにした人にとって
今でも鮮明に思い出されるほどの出来事だったのでしょう。
当時、子供だった伯父、伯母の目には、どのように映ったのか・・・
それが昨年の大震災を経験して、少し分かったような気がしたのです。
ただ、震災と戦争は大きな違いがあります。
でも、ある日当然、日常を奪われ、生活が、全てが変わってしまうこと。
家族、近所の人や、友人・・・多くの人が亡くなられたこと。
原因の違いはあれど、犠牲になるものはすべて、そこに生きる人の命なのです。
今は桜の名所の大岡川周辺が、地獄絵図だったこと。
山手の高台から下は、火の海だったこと。
横浜の高台にあった私の家からは、工業地帯の赤い明かりに照らされた
夜空がよく見えました。
マリンタワーの灯台の明かりも、通りに出れば見れたのですが、
67年前の今日・・・
炎で空が赤く染まり、爆撃機の照明が街を照らす光景は
想像に絶します。
戦争・・・
多くの犠牲を前にしても、未だなくならないことが悲しくて、悔しくて仕方がありません。
今朝の新聞に、当時の街の地図を、記憶を頼りに作られた方の記事がありました。
今も昔も華やかな街の代名詞だった、関内。
当時の街にも、パン屋さんや洋品店、帽子屋さん・・・
賑やかな生活の足音が窺えます。
川沿いの桜が見事なことや、美しい街並みを再生させた関内。
街を、生活を、どんな思いで取り戻されたのか・・・
その思いを、決して忘れてはいけないと思うのです。
母の実家の裏山には、防空壕があったのを憶えています。
そこには悲しい出来事があったそうです。
多くを語れない方の思いが、67年もたった今でも続いていることは
改めて、戦争の恐ろしさ、悲惨さが伝わってきます。
大空襲で亡くなられた、多くの方のご冥福をお祈り申し上げます。