首里城に掲示していた説明によると、
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琉球と中国の交流は1372年から始まり、1879年(明治12年)に沖縄県が設置されるまで約500年間も続きました。琉球で国王が代わるたびに、中国皇帝は使者を遣わし首里城で即位式をおこなわせました。その外交的な式典を冊封(さっぽう)といいます。冊封を通じて琉球は中国との結びつきを深め、貿易や文化交流を順調に進めることができたのです。そして、冊封によって琉球は東アジア世界の一員としての資格を得る事ができたのです。
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と、あった。 そして、傍らに地図があり、北京→揚州→蘇州→杭州→福州を経由して琉球への使者のルートが書かれていた。
当時の中華帝国の巨大さを感じるとともに、琉球・沖縄の本土とは違う中国・日本との歴史を感じた。
さて、琉球王国(正式国名:琉球國)は、沖縄本島を中心に存在した王国で1429年に尚巴志の三山統一により成立。15世紀に明の冊封国となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の付庸国となった。1871年の廃藩置県で鹿児島県下に編入されたが、1872年には琉球藩となる。1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。
なお、大きく広がった中国の冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。
写真は首里城ですが、日本の城の様に防衛のための城ではなく宮殿に近い。そのため薩摩藩が1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させたが城の防衛機能において薩摩藩の攻撃に耐えることができなかった。
外から見た首里城:
首里城を案内していた人:
首里城に咲いていたハイビスカス:
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琉球と中国の交流は1372年から始まり、1879年(明治12年)に沖縄県が設置されるまで約500年間も続きました。琉球で国王が代わるたびに、中国皇帝は使者を遣わし首里城で即位式をおこなわせました。その外交的な式典を冊封(さっぽう)といいます。冊封を通じて琉球は中国との結びつきを深め、貿易や文化交流を順調に進めることができたのです。そして、冊封によって琉球は東アジア世界の一員としての資格を得る事ができたのです。
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と、あった。 そして、傍らに地図があり、北京→揚州→蘇州→杭州→福州を経由して琉球への使者のルートが書かれていた。
当時の中華帝国の巨大さを感じるとともに、琉球・沖縄の本土とは違う中国・日本との歴史を感じた。
さて、琉球王国(正式国名:琉球國)は、沖縄本島を中心に存在した王国で1429年に尚巴志の三山統一により成立。15世紀に明の冊封国となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の付庸国となった。1871年の廃藩置県で鹿児島県下に編入されたが、1872年には琉球藩となる。1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。
なお、大きく広がった中国の冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。
写真は首里城ですが、日本の城の様に防衛のための城ではなく宮殿に近い。そのため薩摩藩が1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させたが城の防衛機能において薩摩藩の攻撃に耐えることができなかった。
外から見た首里城:
首里城を案内していた人:
首里城に咲いていたハイビスカス: