孫文さんの“多摩たまの隠れ部屋”ブログ編

「孫文さんの“北京の隠れ部屋”」を「孫文さんの“多摩たまの隠れ部屋”」に変更しました。

重要航空遺産 一式双発高等練習機

2021年11月28日 12時22分22秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)

重要航空遺産  一式双発高等練習機

この写真は、会場のパネル展示の写真を撮影したものです。

1943年9月27日、能代飛行場を離陸し少年航空兵が操縦した一式双発高等練習機がエンジントラブルで青森県十和田湖に不時着水没した。2012年に引き揚げられ、青森県三沢航空科学館に展示されていた一式双発高等練習機が立川に里帰りした。2021 年11月24日から28日まで立飛ホールディングスで一般公開されましたので見学してきました。この機体は、重要航空遺産として認定されています。初日に見学だったので係員が熱心に説明していて約1時間貴重な話を聞くことができました。

冷たい十和田湖の湖底に長く眠っていた機体の塗装は当時のまま、当時の日の丸がこの色です。

リベット打ちの正確さ、高ジェラルミンで作られ軽量化された機体、1時間ほど穴のあくほど(すでに穴あいていましたが)機体を眺めてきました。

 

一式双発高等練習機のスペックは下記 (Wikipedia)

試作名称:キ54    全長: 11.94m     全幅: 17.9 m

全高: 3.58 m       主翼面積: 40m2  自重: 3,120 kg

全備重量: 4,080 kg 

エンジン: 日立ハ13甲 空冷9気筒エンジン515HP×2

最大速度: 367km/h  航続距離: 960km   実用上昇限度: 7180 m

総生産機数は1,342機

 

現存する機体は、日本国内にはこれしかなく、胴体の一部が北京の航空航天博物館、オーストラリアにあると説明を聞きました。北京の航空航天博物館は見学したことあるけど、この飛行機には気がつかなかったなぁ。。。

北京の航空航天博物館に胴体の一部があるという事は、第2次世界大戦以降には中国の人民解放軍が使用していたという事でしょうか。戦後の中国人民解放軍は、九九式高等練習機や一式戦闘機(隼)が創立時の所有機だったので、輸送にも使えて使いやすい機体の一式双発高等練習機が使われていてもおかしくないはず。これらの機体、いずれも当時、日本で4番目に大きな航空機製造会社だった立川飛行機(当時の従業員約43000名)製造の可能性がある。なんて因縁を感じながら、下記に記述の一式戦闘機“隼”のエンジンをながめました。

展示会場に入ると、まず引き上げ時の様子を写したビデオを視聴します。

周囲をよく見ると、なんと展示会場は、昭和12年に建てられた倉庫の中です。 当時の飛行機を展示するために、当時の建物を使うという立川ホールディングスの配慮に感激です。まるで、古い学校の講堂にいるような雰囲気で、倉庫の木造の梁に時代を感じます。

さて、一式双発高等練習機の展示の前に、一式戦闘機“隼”のエンジン(ハ25型)が展示されていました。 隼のエンジンはゼロ戦のエンジンと同じで、陸軍と海軍の呼称の違いですが、隼用のエンジンを見たのは初めてです。 話はそれますが、Wikipediaで調べたら、一式戦闘機“隼”は中島飛行機設計ですが、実際は外注委託され、ここ立川飛行機で2型の後期と3型を生産していました。そして海軍のゼロ戦も、三菱よりも中島飛行機の方が生産機数は多いというのがWikipediaを読んだ驚きです。

展示会場には、引き上げられた一式双発高等練習機の機体や多くの部品類が展示されています。最初に引き上げられた部品が、ピトー管との事でした。

ピトー管

操縦席のパネル

 

信号灯は、新品で今でも光りそうな感じがして、とても戦争中に作られたものとは思えません。

操縦席

現代のフライバイワイヤー方式ではないので、操縦桿って重かったろうなぁ…

引き上げられた一式双発高等練習機の機体です。 長く水没していたことによる損傷はありますが、不時着時の影響と思える機体の損傷は殆どありません。 プロペラが曲がっていて、不時着のすごさを感じますが、少年飛行兵の操縦が非常に適切であったことを物語っています。

機体はリベットが正確に打たれていて、作業のミスを感じません。

また、外壁は1㎜以下(0.5~0.7mm)のペラペラですが、これが(材料は高ジェラルミン)軽量化に貢献しています。

機体の中を覗くと、第一印象は狭い!!

操縦席は2人座ると動けないくらいの狭さではなかったでしょうか、また胴体部も決して広く高くはないので、機内での移動は大変だったのではと感じます。当時の引き上げられた当時のままの姿なので、内装が無いことで暖房の配管を見ることができました。

 

両側に1名づつ座れますが、中央の歩く隙間ってあまりないのでは? 結構狭さを感じました。 そして、分かりにくいですが、機体下部の床部分に暖房の配管があります。上昇すれば気温は下がるので、暖房は必要だったのでしょう。

 

本体と主翼の結合部です。

ピンのようなものを通して固定したようでビックリです。

強度的にもこんな接合だけで持つのがビックリですが、こんな簡単な方法で結合できたら製造も楽で、この飛行機自身の分解や輸送作業も楽だったと思えます。

この拡大部が下の写真

下記は胴体側の写真です。

この拡大部が下記の写真

この2つの間にピンを通すことで、胴体と主翼を固定していた。

 

一式双発高等練習機のエンジンです。

通称 天風(あまかぜ)エンジン、東京瓦斯電気工業の製造です。このエンジンは、東京瓦斯電気工業の後継企業にあたる日野自動車によってオーバーホールされたので、まるで新品のような黒々とした輝きがありました。そこに着水で曲がってしまったプロペラがありましたが、今でも動くのではと思えるほど迫力ありました。。

なお、プロペラは可変ピッチを採用と説明がありました。 非力なエンジンを最大限活用するために効率的なプロペラの回転制御。と当時の日本の技術力に驚きです。

 

垂直尾翼に描かれた飛行第38戦隊のマークや主翼に記載の「乗るな(ノルナ)」の記載

日の丸や当時の部隊マーク、主翼の黄色の帯(この黄色の帯が日本の飛行機であることを示しています)がはっきり認識できます。

主翼の後部に、「ノルナ」と記載がありました。

これらは、当時の引き上げ時のままです。なお、垂直尾翼後ろ側の方向舵の部分に何もないのは、この部分は金属ではなく布を使用していたためです。少しでも軽くするために、布を使用していました。

 


自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 5(番外編)

2021年11月27日 12時41分55秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)

自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 5(番外編)

 

硫黄島に関しての追加の写真をUPした番外編です。

 

鹿児島のレンタサイクル

レンタサイクルができる場所を数か所で見かけました。

今回は、鹿児島市内への到着が夕方になりレンタサイクルを借りませんでしたが、昼間ならば自転車でゆっくり見学が出来そうでした。

 

軽石

小笠原の火山からの軽石漂着が問題になっていますが、埠頭の遊歩道に打ちあがっていた石を何気なく海に蹴ったら海面に浮きました。

つまり軽石。 これが小笠原から流れてきた軽石かは不明です、なお錦江湾や硫黄島の海上では軽石は見ませんでした。 この白っぽい小さな石が軽石。

 

硫黄島までのフェリーの往復切符

往復で7320円でした。 鹿児島に戻る際まで失くさないように財布に入れてしまっておきました。

このフェリー、結構立派でした。若い頃、伊豆七島に何度も出かけた当時と比較すると、トイレはきれいだし、ラウンジもあるし、テレビも見れるしインターネットも使えました。 座席にAC電源もありました。

 

きくらげ

フェリー内の売店で三島村名物として硫黄島のキクラゲが売られていました。お土産に丁度良いので、在庫として置かれていたもの全部買い占めちゃいました。

と、言っても在庫としてあったのは数個、プレゼントした人からの話では美味しかったようなので、もっと買いたかった。小さくて安かったのでお土産として最適。我が家用にも1個あるのですが、まだ料理に使っていません。

 

島への移住者には子牛を一頭プレゼント

三島村への移住者には、なんと子牛が一頭頂けるようです。

牛一頭って実売価格はいくらなんだろう?

 

昭和硫黄島

東京に帰って来てからネットで調べて分かったのですが、硫黄島のそばに昭和硫黄島(標高26m)という無人島があります。

この島、1934年に海底300mの場所からの海底火山の噴火でできた島です。

戦前の事なので当時の報道情報は分かりませんが、もし現代だったら、海底から火山活動で島が出来たという事は大きなニュースになっているでしょうね。 何気なく写した写真に、この昭和硫黄島が写っていました。

 

平家城から眺めた竹島、右端に写っている島が昭和硫黄島。なお、この竹島(船で約40分)が鬼界カルデラの対岸になる。

左は硫黄島、右側が1934年に海底火山の爆発で出来た昭和硫黄島

海水の色が違うのは温泉の色。 火山の島を実感します。

 

鹿児島に戻るフェリーの中でのお昼は、船内の自動販売機のインスタントラーメン

鹿児島への到着は14時半なのでランチは船内でインスタントラーメン(担担麺)でした。島民の人たちは、持参したお弁当(ごはん)を食べていて羨ましかったぁ…・

船のラウンジには電子レンジも備わっていたので、キャンプ場で売っていたごはんパックを持ってくるんだった。そうすれば、ラーメンライスでランチを食べたかった。(船の中では揺られるのでおなかすくのです)

 

知覧茶

硫黄島で交信した鹿児島県指宿市の知人から知覧茶が送られてきました。今まで何度か指宿のパンフレットなど送っていただき、鹿児島移動の際の参考とさせていただきました。まだお会いしたことのない方ですが、美味しい知覧茶を送っていただき感謝です。

 

 


自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 4(11月15日)

2021年11月19日 10時45分26秒 | 旅行(日本)

11月14日(日)は三島村の村長選挙。どの候補者が当選したのかは聞かなかったが、2名の候補者が村長選挙に立候補したようだ。島で1軒(かな)しかないお店の店頭には候補者の選挙事務所の手書き文字看板があった。さて、15日のフェリーには、この選挙で硫黄島に来た三島村の職員多数が鹿児島市に帰るため乗り合わせていた。 三島村の職員が鹿児島市に帰る⁇ なんか変な表現に聞こえるが、三島村の村役場は三島村には無く鹿児島市にある。三島村は、竹島、硫黄島、黒島という3つの島で構成されている。 どこかの島に村役場を置くより鹿児島市に村役場を設置したほうが行政の業務が行いやすいからだ。 14日の夜に、村長選挙で硫黄島に来た村の職員たちといろいろな話を雑談したのは楽しい旅の思い出でした。

11月15日、鹿児島港に向かうフェリーは定刻通り9:30に入港。 村長選挙の影響などで鹿児島に向かって乗船する客が多い。とはいえ、1800トンの船が満員になる事はなく、好きな場所で休むことが出来るので、帰りのフェリーはラウンジ席を確保した。

波は無くフェリーは静かに鹿児島に向かって進みます。 そして硫黄島の眺めもだんだん小さくなっていきます。

以下は、来島して撮影した硫黄島の眺め、硫黄岳の眺めです。(15日以外の撮影あり)

硫黄島全景

 

この断崖絶壁の姿には圧倒されます。

フェリーが入港してきました。 朝、黒島から出発し、硫黄島、竹島に停泊して鹿児島港に向かいます。

硫黄岳の眺めです。

 

外洋なのに波が無くスムーズな公開でした。 錦江湾に入り開聞岳に分けれを告げ、やがて桜島が見えてきました。 鹿児島に戻ってきました。

お土産

お土産に孔雀の羽を買いました。 硫黄島には野生化した孔雀が生息しています。残念ながら一度も見ることはありませんでした。そのことを島の方に話したら、“あらぁ、一度も見ないで帰るなんて珍しい”と言われました。

孔雀の羽が200円で売っていたので2つ購入。 この羽は、キャンプ場に飾っていた羽です。

 

フェリーは鹿児島港に入港し、往復チケットを係員に渡して無事に下船。

タクシー停まっているかなと思ったのですが、幹線道路に出ても見つからずしばし繁華街に向かって荷物を引きづりながら歩く。(スーツケースの荷物は約20㎏)

やっとタクシーがつかまり、鹿児島中央駅方面の温泉へ向かう。 硫黄島にいる間、東温泉には入ったものの、髪はシャンプーしておらず、まず風呂に入ってさっぱりしたい…

風呂に入ってさっぱりした後、鹿児島中央駅で“若き薩摩の群像”の像を見る。イギリスに留学した薩摩スチューデント。 なんか、幕末の時代って面白そう…

像はチラッと見ただけで鹿児島空港行のバスでに向かい、鹿児島空港で夕食やお土産を購入した。帰りの羽田へのフライトも満席でした。 写真は、鹿児島空港にあった、CAの教育用のモックモデル。(実際に使用しているものだそうです)

羽田空港に到着して3泊4日の旅行が終了しました。


自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 3(アマチュア無線)

2021年11月19日 10時27分30秒 | 業余無線

自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 3 (アマチュア無線)

薩摩硫黄島での目的はアマチュア無線の運用。 この島(硫黄島)は鹿児島県鹿児島郡三島村JCG46006Bで私自身は交信したことのない場所です。硫黄島での運用場所は、キャンプ場のキャンピングカーの中からなので、周囲への雑音の心配は少なくアマチュア無線を行うにはよい場所。

しかし、このキャンピングカーのそばには鬼界カルデラの端っこの垂直の高い壁があり、キャンプ場の周囲は人が入れないほど密集している竹林(琉球竹)があり、自然豊かでビックリの場所。 どうやってアンテナを設置するか、頭をぐるぐる回転させて考えた。そして、持参したポールを使って7MHzはサガ電子のツエップタイプのアンテナ。3.5MHzはダイヤモンドのモービルホイップを建てることにしたのだが…

7MHzのツエップはアンテナのSWRが3以上。 SWRが高すぎるので、アンテナチューナーは持参しているが、この状態での運用はためらう。また3.5MHzもSWRは3以上の状態。しかも、パソコンの電源が入らず動作しなくなった。 あちゃ!!! これは最悪。

これはアマチュア無線運用は断念して硫黄島観光のみかなぁと途方に暮れながら、夕食のインスタントラーメンを食べる。

何とかならないかいろいろ格闘し、やっとパソコンの電源が入るようになり、これでFT8での運用と、ハムログを使った運用ができるようになったので一安心。

3.5MHzのSWRは高いのだが、FT8ならばアンテナチューナーでSWRを下げて運用すれば、交信可能なので今夜は3.5MHz FT8での運用とする。

17:54から運用開始し、コンデションが低下した23:14まで75局とFT8で交信し、12日はキャンピングカーのベッド(寝袋)で寝ることにした。

14日、朝、起きて、まず7MHzのアンテナを建てて動作不良の原因を探すことにした。 サガ電子のツエップアンテナの同調点が大幅にずれていることが判明。 このアンテナは数年間使用していないからなのか、7.2MHz以上の周波数に同調点があることが分かりアンテナの長さを調整して同調点を7.05MHzまで下げることができた。 SWRが下がったので、これなら大丈夫と9:17にSSBでCQを出し運用を開始した。

15日は、5時に起床したが7MHzはまだオープンしていない。 SSB/FT8でCQを出すが応答はない。ワッチするが今日はバタバタノイズが激しい。S+20dBくらい振っている。 早めに朝食をとることにする。(といっても、インスタントの焼きそばです)普段インスタント食品は食べないのですが、硫黄島ではインスタント食品にお世話になりました。6:30ごろJAの信号が聞こえ始めたのでSSBでCQを出し、8:15まで運用。 9時10分にチェックアウトを予定していたので、急いで撤収作業を開始しました。 雨は時々振ったけど、天候に恵まれ楽し旅でした。

 

硫黄島での交信結果は、

 3.5MHz FT8  75局交信

 7MHz FT8  44局交信

 7MHz SSB  357局交信

            合計 476局

もう少し交信局数を伸ばしたかったが、設営時のアンテナ不調のトラブルで交信局数ゼロも頭をよぎっていたのを考えると上出来だろう。

 

運用場所  (左側に垂直の壁、後方は人が入り込めない竹林(ジャングル状態です))

運用ロケーションとしては最悪の場所です。

携帯で調べてみると、運用場所は海抜6~7m、この崖は120mありました。

宿泊したキャンピングカー

(3.5MHz モービルホイップアンテナを建てている)

7MHzツエップタイプアンテナとキャンピングカー

キャンピングカーの中

キャンピングカーの中に、アマチュア無線機、パソコンなどを並べ、ベッドを椅子代わりにして運用。 7MHzのツエップアンテナがベッドの上に転がっていて、パソコン動いていることからFT8運用できる状態を撮影。

 


自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 2(11月13,14日)

2021年11月19日 10時17分22秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)

自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 2(11月13,14日)

 

11月13日、三島航路のフェリーの出航は9:30なのでホテルを8時過ぎにチェックアウトしてタクシーで南ふ頭に向かう。南ふ頭に到着し、乗船の手続きを行う。新型コロナの影響で観光客の渡航が解禁されたのは、ごく最近の事。それでも乗船するためには、2週間の体温・体調の管理表、新型コロナの2回の接種済みの証明書が必要。

これらの書類を提示して無事にチケットを購入してフェリーに乗りこんだ。フェリーは定刻に出向し、桜島を横に見てフェリーは南下した。 硫黄島まで鹿児島から約100km。

桜島から噴煙が見えます。

やがて開聞岳(924m)が見えてきました。 写真では見て知っていたけど開聞岳ってきれいな三角形の山なんですね。

フェリーのラウンジです。 行きはガラガラでした。

外洋に出ても海は穏やかで、竹島に停泊した後、薩摩硫黄島に向けて船が進み、硫黄岳が大きく見えてきた。

そして13;30頃に薩摩硫黄島の港に入港し、港では子供たちが太鼓と“ジャンベの踊り”で出迎えてくれた。

港の中は温泉の色で赤茶色に変色していて、硫黄岳の噴煙と対比すると、とっても神秘的な雰囲気。

“ジャンベの踊り”

宿(キャンピングカー)に到着し、夕方に周囲を散策した。14日は、アマチュア無線でのコンデションが低下する昼間の時間帯に3時間ほど島を観光した。以下は13日と14日の観光の写真です。 平家にまつわるものが多いのにはビックリしました。

 

流刑された俊寛の像

Wikipediaによると、

『平家物語』によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う。

翌治承2年(1178年)に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず島に一人とり残された[4]。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。 翌治承3年(1179年)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した[6]。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。

 

俊寛堂

山の中、琉球竹のトンネルの中を進むと俊寛堂があります。

この琉球竹のトンネルの地面は、きれいな緑の苔の道です。フワフワした道を歩き、とっても不思議な場所でした。

安徳天皇の墓所

平家が滅びた壇ノ浦の戦いで,入水し崩御したとされる安徳天皇が実は硫黄島へ逃げ落ちて余生を送ったと言われる「平家の落人(おちゅうど)伝説」があり、その墓石群がありました。

東温泉

大海原を眺めながら入ることができる東温泉。 波が高い時は危険でしょうが、今日は波も静かで他に観光客も来なかったので、この東温泉に入ることにしました。

山から海に温泉の源泉が流れ込んでいる場所もあります

東温泉の風景です。 いいお湯でした。 3つの浴槽があり、一番温度が低い場所で大自然を眺めながら入浴しました。

ここが温泉の着替える場所です

 

平家城展望台

島の北東側の高台です。景色が良く、海岸の海の色が変化している(温泉の影響)が良く分かります。隣の島(竹島)が見えました。

この竹島が鬼界カルデラの反対側です。 そして竹島の手前に小さな島が見えますが、旅行後に調べたら、この島の名称は昭和硫黄島(無人島)。

昭和硫黄島は1934年にできた新島で300mの深さの海から火山活動によって島が出来たので、自然のすごさを感じる。

当時は戦前の時代だったので、現在の時代なら、海底火山で島が出来たという話はトップニュースでの報道で大騒ぎになっていたことでしょう。 小笠原の方でも新島活動活発ですよね。

見晴らし展望台からの眺めですが、海水の色が違うのは温泉の影響です。

中村勘三郎の俊寛の像

第18代中村勘三郎が硫黄島で歌舞伎“俊寛”を上演したことを記念した像が建てられていました。

恋人岬などから見た風景

両側が切り立った小高い場所、ここはカルデラの端っこの上です。そこからの眺めは大自然のすごさを感じさせてくれます。

噴煙をあげる硫黄岳、港から温泉が噴出しているため海の色が赤茶色に変色した港などなど。

“ボーーー”という汽笛の音が聞こえてフェリーが入港してきました。

フェリーが鹿児島から入港してきました。

港と硫黄岳(703m)、手前の山は稲村岳(236m)を望む眺めです。

 

硫黄島の飛行場の建物

この飛行場の滑走路は600mなので離着陸できるのはセスナ機程度で、鹿児島空港間の運賃は30000円。鹿児島空港から1時間以内で来れるので便利だけど、運賃はちょっと高いので、今回は敬遠しました。 バブル時代Y社がリゾート開発して飛行場を作ったのですが、バブル崩壊し現在は村営の飛行場です。

 


自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 1(11月12日)

2021年11月18日 13時27分12秒 | 旅行(日本)

自然豊かな“薩摩硫黄島の旅” Part 1 (11月12日)

11月12日(金)から15日(月)まで3泊4日で鹿児島県の旅をしてきました。

最終目的地は、薩摩硫黄島(JCG46006B、GL:PM50ds、IOTA:AS-032)で人口は125人(62世帯)、面積は11.65Km2という小さな島でアマチュア無線を行う事です。

薩摩硫黄島は鬼界カルデラの端っこの場所、島の最高峰の硫黄岳(703m)はレベル2の火山、そして、そして島にある東温泉は温泉秘湯マニアにとって有名な場所です。

この島には5年ほど前から行きたくていろいろ情報を集めていたのですが、なんせ東京から出かけるには、フェリーに乗り込むには前泊が必要で不便な場所。そしてフェリーも毎日出港していません。

沖縄県の南大東島の方がよっぽど東京からの接続が良くて出かけやすい場所です。 そんなわけで、仕事をしている時は行くことが叶いませんでした。

毎日がサンデー毎日の生活にあり、やっと行けるかなと思ったら・・・

なんと、新型コロナが流行し、離島なので、新型コロナの時期は観光客をシャットアウトしていたので渡航することができませんでした。

11月から観光客の来島が自粛解除となったので、島の方とコンタクトして予定日は天気は悪くない、冬になると海が荒れて欠航することが多いとのアドバイスがあり、出かけるなら今だと思い立って出発の数日前に予約作業を行い出かけてきたのです。

さて、羽田空港に向かう途中の浜松町駅にある“小便小僧”を見るのも1年ぶりです。

浜松町駅からモノレールで羽田空港に向かいます。

 

羽田空港では、航空会社の係員が少なくて搭乗手続き(荷物の預け)にすごく時間かかりました。約40分待ちました。そんなわけで、久しぶりのフライトなのでラウンジでゆっくりしようと思っていた目論見は見事に消え、搭乗前にちょっと寄って、のどが渇いたのでジュースを飲んだだけでした。

搭乗手続きの作業の遅れは絶対、今日の混雑状況を読み間違えしたスタッフの配置員数ミス。そして、鹿児島に向かう飛行機は満席状態、経済状態戻りつつあるかなと感じたのです。

 

木更津方面から東京湾をグルッと回ってくるルートで飛行機が着陸態勢に入っていました。

 

鹿児島空港に到着、バスで鹿児島市内(天文館)へ移動してホテルにチェックイン。ホテルは天文館から徒歩で5分くらいの場所。鹿児島の土地勘が無いので明日のフェリーが出港する南ふ頭方面を散策することにしました。

 

ここが天文館です。今回は時間が無いのとスーツケースの荷物が重かったので、このアーケードは歩きませんでした。

この像は、いずろの交差点にあった坂本龍馬とお龍の像です。

あれ、お龍さんはマスクしないの⁇

ふ頭に向かって歩くと、南ふ頭への標識が見えました。

時折、雨が降っていたので、天候が回復すると桜島に大きな虹が見えました。

どこに観光するか決めていなかったので、フェリーは夜も運行しているので桜島へ行くことにしました。桜島までフェリー運賃は200円で、桜島についてから後払いです。

桜島に到着しフェリー乗り場のそばにある月讀神社を参拝。 後日、ネットで調べたら和銅年間(708〜715年)には創設されたと伝わる由緒ある神社との事。 旅行の安全を祈りました。

その後、国民宿舎の方向に向かいますが、途中のローソンを見てびっくり。

ローソンンの表記の帯が見慣れた青色でなく茶色なんです。これ何を表しているのだろう? 茶色は火山の色を表現⁇

国民宿舎の先のなぎさ公園に足湯がありました。

100mほどの長い足湯、こんな大きな足湯にびっくりですが、夕方なので誰もいませんでした。

国民宿舎にあるマグマ温泉に寄る事にしました。 入浴料は390円と安いです。温泉の色は茶色っぽい色です。錦江湾を眺めながら、しばし温泉につかり、今日の旅の疲れを取ります。

温泉に入ったらすっかり日が暮れ、桜島から鹿児島市内にフェリーで戻り、ホテルに向かう途中に市役所の近くで温泉をみつけました。 硫黄島からの戻った時に寄ろうかなと候補地としました。(結果的にはこの温泉には寄らなかったですが…)


新型コロナ 感染者数のデータ 11月18日

2021年11月18日 12時19分33秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)

新型コロナ 感染者数のデータ 11月18日

 

10月10日から11月17日までの“1週間の10万人あたりの感染者数”のデータです。新型コロナの感染者数はすっかり減少し第6波の来ないことを祈るばかりです。

ただ、データを見ると分かりますが、小規模なクラスターなのか断続的に数値が上昇のケースがある。 新型コロナ対策は,今後も気を引き締めて継続が必要だろう

 


== ポチの一人旅 「単線は旅の気分」==

2021年11月06日 10時43分55秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)

== ポチの一人旅 「単線は旅の気分」==

 

11月5日、通称“大回り”と呼ばれるJRを利用した路線の旅を行ってきた。

購入した切符は、“西立川-立川”間、料金は140円で、通常なら隣の駅なので数分で到着だが、関東の路線をグルーーと回り目的地の到着という旅。途中、東海道線はグリーン車に乗車(料金は1000円)することにしました。計算したら、乗車距離は299..5kmでした。

 

出発地は西立川駅です。10:46発の青梅行の電車がきました。

10:54 拝島駅に到着し、八高線に乗り換えです。

11:01 拝島駅を出発です。 八高線は単線路線で、秩父の山々が見えてきます。

線路そばの住宅の樹木の紅葉がとてもきれいで、柿の木が実っているのが青空にはえています。

自宅を出発して1時間ですが、風景ががらっつと変わって旅気分満喫。

11:25 高麗川駅に着きました。ここから先は架線が無いので電車ではなく2両編成のジーゼルに乗ります。

加速するたびにジーゼルの独特の音、そしてピーーという汽笛が“遠くに来た”気にさせます。

お昼なので車内でお弁当を食べようかと思っていたのですが、意外と乗客がいるので静かに席に座って車窓を眺めることに…

このジーゼルに1時間21分間乗車して11:25に倉賀野駅で下車します。

 

倉賀野駅到着です。

次の電車まで約20分間あるので、ホームでお弁当を食べて時間をつぶします。

お弁当を食べていると、石油を搭載した貨物が通り過ぎていきました。

ここは群馬県だからでしょうか、ホームには横風が吹き続けます。

13:19 湘南新宿ライン特別快速小田原行がきました。

茅ヶ崎まで2時間半の乗車なので、この電車はグリーン席で、2階席に座りました。

2階席からの眺めは良いですね。。

 

深谷駅に着きました。この駅舎を外から見てみたいですが、駅の外のこんな渋沢栄一の看板が見えました。 これ渋沢栄一の何の看板だろう?? ハテ⁇

 

そして、深谷駅をしばし過ぎてTOSHIBAの文字。

東芝深谷事業所はテレビや映像機器の主力工場でしたが、報道によると9月30日閉鎖とのこと。

東芝の深谷ってここだったんだぁ!!

先日、元東芝深谷で仕事されていた方と話す機会があり工場を取り壊していると語っていましたが、一区画はきれいになっていました。巨大な工場敷地はどのように変わるんだろう…

 

電車は、都内に入り池袋駅付近(だと思った)で窓から上を見ると高層ビル建設中でした。

電車は、池袋、新宿、渋谷、大崎に停車しました。

 

新宿駅付近

大崎駅のこの風景懐かしいなぁ…  某社勤務時代、この界隈を歩いたなぁ…

 

電車は多摩川を通過し武蔵小杉駅に停車。 武蔵小杉駅に停車し窓から外を見ると駅前のビルに某電機会社のロゴが。

ここが、NECの事業所だったんだと、グリーン車からの眺めは普段見ない角度からの眺めを見せてくれ新しい発見があります。

 

途中、遅延事態があるも電車は茅ヶ崎駅に到着。

ここで相模線に乗り換えますが、停車中の電車は橋本まで行けず“海老名”行き。

相模線も単線路線です。都市化で住宅が増えたと感じます。

相模川を渡る東海道新幹線を相模線車内から見て海老名駅に到着しました。

次の橋本行が来るまで、駅構内をブラブラします。 

20年ちょっと前、この相模線の海老名駅の付近は空き地だらけだったのですが、変貌ぶりにビックリです。 八王子行の電車が来たので八王子まで向かいます。

そして、八王子駅で東京行きの中央線に乗り換え立川まで向かいポチ旅は終了。 今日は10時から18時まで電車の旅で楽しめました。