いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

中央公論1月号の中身1

2005年12月13日 21時14分20秒 | 俺のそれ
折角買ったので、早速ネタにさせてもらうことにしました(笑)。
「時評2006」というコーナーが出来たらしく、評者は3名でした。その内の1人は、池内恵氏でした。といっても、今までに何の関係もなく、特別存じ上げるということではございませんが、以前にブログ記事中にご登場頂いたことがございます。そのようなご縁で覚えておりましたが、今回初めて写真を拝見し「カッコイイじゃないですか」とちょっと思いました(笑)。私は特にそっち方面の趣味はありませんよ、当然ですが。本当ですって。


因みに、昨日書いた切込隊長氏の記事ですけれども、写真も一緒にあって、あれはちょっと・・・・「ウームぅ、マンダム」ポーズ(古い?知ってる人は知っている、笑)は止めた方が・・・変な上目使いも???。あれで写真を撮る時に、カメラマンに注意されなかったのでしょうか?もし注意されていたとしても、きっと「こっちの方が受けるから」とか「きっと写真にカラム奴がいるから、変なポーズにしとけ」とか言って強引に押し通したに違いないでしょうけど。ですが、中央公論読者層には、多分そういうので「これはなかなか・・・」と思う人は稀であると思いますが。そう考えると、折角のあんまり意味のない工夫というか、深遠な権謀術策も、深読みしすぎたがために、徒労に終わったかもしれませんね。


それはどうでもいいですが、池内氏に関係していたのは「よみうり堂」の書評でした。

面白い書評欄
イラクの邦人拘束事件のこと


だから?って、何でもないんですけれども。池内先生は「イスラーム」研究者ということらしいです。知りませんでした。「国際日本文化研究センター」って何だか不思議な名称ですね。日本の研究なんだか、国際的な研究なんだかよく判らんですね。「国際的に行われる日本文化の研究センター」でしょうか?違うか。それはいいのですが、池内先生はフランスの暴動に関する記事を書いておられました。勉強になりました。あんまりイスラムには興味がないもので・・・スライスハムは好きですけど(つまんねー、の非難轟々が・・・目に浮かびます)。


他に目を引いたのは、吉崎達彦氏が『国家の自縛』(佐藤優著)の書評を書いておられました。有名な方々は結構ネットに存在するんですね、ということが判りました。この書評記事とは関係ないですが、先日立ち読み致しました、『1985年』。買わずに申し訳ありません。『中央公論』なんぞ買わないで、『1985年』を買うのが筋とも思えますが(週刊・月刊誌の類なぞにお金を出す方が無駄な気もするので)、結構面白く読めてしまいまして、立ったまま読了したため買いそびれました。昔、こんなことあったな~って、懐かしく思いました(自分が年取ったせい?)。当時、不良学生だった私は、バイトや麻雀などに勤しんでおりました。その時の鍛錬のお陰で(笑)未だに「モウパイ」が結構出来てしまいます(現在は年に0~1度くらいしか麻雀をしませんが)。「脳の記憶力」(それとも指と小脳とか?)というのは、中々凄いものでございます。


特集の「教育再建」については、また今度。内容は全部読みましたけれど、有名人を取り揃えてあって、こういう人選もまたその雑誌のポジションというか、傾向というか、そういうのを表しているのかな?ってちょっと思いました。登場人物は、藤原正彦、櫻井よしこ、江崎玲於奈、甲野善紀、内田樹、小室直樹、鹿島茂、養老孟司(敬称略)でした。何となく、「あー、そ、そう・・・ですか」と。主に大学の教育者が多いですね。


とりあえず、用事で離れます。


クリスマスと「お菓子の家」

2005年12月13日 17時36分49秒 | 社会全般
finalventさんの所に書いてあった「クリスマス」に関するローマ法王の嘆き(finalventの日記)というのは、キリスト教徒ではない私にはその重みはよく判らないが、それでも「行き過ぎた商業主義」には十分共感できる。勿論ウチでも世の慣例に倣い(笑)、仏教徒であるにも関わらず、クリスマスとしてケーキを食べたり、プレゼントを買ったりするのですが、適度な範囲でやっとればいいとは思う。でも、あんまりにも「物質中心」という風潮には、やや辟易する。


先日たまたまウチの子が観てた番組があって、何となくチラッとみた。どこの放送局か忘れたが、幼稚園児にサンタを信じない子がいるので、豪勢な仕掛けを作って、子供達に「夢のような」お菓子の家やらゴージャスなケーキやら人気のプレゼントやらをするという企画だった。ドミノでそういった複雑な仕掛けをしてあって、そのドミノ自体が大量の箱入りお菓子であったりするわけだ。ドミノは校舎全体を使うので非常に大掛かりであり、使われたお菓子の量も半端じゃない。ジュースのシャンパンタワーとか、そんなものまであった。どういう意図でこんな下らないものを作ったのか、と思いました。子供達は確かに「夢のような」心地に浸れるかもしれない。だが、こんなことが教育上本当に良いと言えるのか?何も食べられない人々も世の中に多く存在するというのに、到底食べきれない程のお菓子やらジュースやらを使って、ごく少数の子供を、喜ばせるのがそんなにいいことなんですか?


こんなことに大金が遣われてしまい、しかも食べ物やジュースを無駄に大量に消費するのを推奨するかのような、「金まみれ」「物質まみれ」の番組制作というのも、理解に苦しむ。番組を観ていて、無性に腹が立ってきた。こんなことのために「クリスマス」があるんじゃない、サンタクロースも、空想に出てくる「夢のようなお菓子の家」も、こんな使われ方をする為にあるんじゃない、と思いましたよ。「お菓子の家」の如く物語の空想の中にしか存在しない、ということが重要なのであって、眼前に「食べきれないほどの食事やお菓子や果物」というものが実在した時、「もっと欲しい」という想像世界以上の欲望しか残らないのではないか、と思える。手に入れられないから価値があったのに、大人達の下らない商業主義のせいで、子供達にはさらなる物欲が植え付けられてしまうような気がしてならない。お菓子の家が存在してしまったら、我慢も節度も忘れて「それ以上のもの」を更に求めてしまうのではなかろうか、という危惧する。「飽くなき欲望」を具現化したものが、多分こういう番組なのかもしれない。それは企画を考え実行に移す大人たちのレベルが、そうした「物欲を満たすということに大きな価値観を見出す」(=子供達も当然喜ぶに違いない)、という程度だからなんだろうと思う。


普通の子供達は、ムシキングのカード一枚とお菓子一つでも十分喜ぶだろうと思うけど。どうして、その程度ではダメなんだ?あまりに平凡で普通すぎるから?そんなにドミノに使うほどのお菓子を買うお金があるなら、どこかに寄附した方がいいだろう?贅沢を絶対にしてはいけない、ということを言ってるんじゃない。節度というものがあるのではないか、と言っているのです。あんな番組を垂れ流されてしまっては、日本全国にも無駄に消費、という風潮を広めているようなものだ。


これを見たらさぞかしローマ法王も嘆くことだろう。こんな程度のことしか企画・放送できず、それにも関わらず「放送とは~云々」という居丈高な姿勢とがあまりに不整合で、はっきり言えば放送とはその多くが害悪に過ぎないのではないか、人間の醜悪さを映す壮大な装置に過ぎないのではないか、とさえ思えてくる。


日本人にとって、特にクリスチャン以外の人々にとっては、「モノマネ」的な便乗お祭り騒ぎが好きだ、ということなのだろう。まあ、経済効果はそれなりにあるだろうから、年中行事の一つということなのでしょうけど。