昔は御殿医がお殿様の病気を治すために漢方薬を調合して、処方しておりましたね。この御殿医というのも千差万別で、代々お抱えであことをいいことに、時には「バカ息子」のようなヤブも登場したかもしれませんね(笑)。名医と評判の高かった御殿医の多くは、所謂「さじ加減」が非常にうまくて、まことに塩梅が良かったのです。これは、名医自身の資質に依存しており、そういう優秀な御殿医ばかりが代々続くとは限らなかったのです。代々の「秘伝の調合書」などもあったかもしれませんが、診立ての悪いのになると、薬を多く使い過ぎてしまったりもするのです。その為に副作用が強くなってしまったりするんですね。病気を治すどころか、新たな病気というか症状を増やしたりする訳です。要するに勘が悪いというか、能力が低いというのか・・・先祖からの「秘伝」があっても、「さじ加減」までは中々伝承出来ないことが多かったのです。
とある架空のお話をしてみましょう。
昔、あるお城に殿様と家来達がおりました。家老には「梅政」という男、御殿医には「松銀」という男がおりました。ある時、殿様は重い病に罹り、床に伏せっておりました。
松銀「中々よくなりませぬな」
梅政「そちの薬が悪いのではないか?」
松銀「筆頭御殿医に向かって何を申す。素人のそちに何が分ると申すか」
梅政「いや、かえって薬を飲んでから悪くなっているような・・・以前にはこんなに吐き気もなかったしのう」
松銀「これは病の毒気によるものじゃ。今は薬を飲んでいなければならない」
梅政「早く良くなられるとよいが・・・」
-後日、殿様の具合が少し快方に向かってきていた。
松銀「そろそろ次の煎薬を増やしましょう」
梅政「次の薬と?今はこのまま様子を見た方が良いのではないか?」
松銀「またも無用な口出しをされるのか。任せてもらえぬと申すか」
梅政「蘭学医に聞くところによれば、熱を下げぬ方が良いと・・・」
松銀「何を申される。蘭学医は邪道じゃ。よからぬ知恵を吹き込まれたのじゃ」
梅政「それに、毒気は薬を飲まずとも抜けると聞いたぞよ」
松銀「(おのれ蘭学かぶれめ)分らぬ者が詮索しても始まらぬ」
梅政「(この御殿医は本当にヤブではないのか?)困ったものよのう・・・」
・・・・・・
このように、昔は適当なヤブ医者もいたかもしれません。勿論名医も存在したかもしれませんが。傍から見ていても、「よくわからない」というのが一般的であったろうと思います。現在では、「名医のさじ加減」というのが、客観的な情報として解ってきた部分もあります。それは、経験的に培われてきた勘のような部分が、客観的に判断出来るようになってきたということと、名医ではなく普通の医者であってもその「さじ加減」を再現可能になる、ということです。
専門的な説明は専門書などに譲りますが、非常に大雑把に書いてみますね。
数ヶ月前に外国人女性が薬物を使用して死亡した事件が報道されていました。その薬物とは「ケタミン」という薬で、かなり古くからある鎮静・麻酔薬です。昔から「悪夢」「幻覚」などの副作用があるということが知られてきましたが、死亡した女性はその薬物を多く使用し過ぎた為に絶命してしまったのです。また、先頃女性医師が麻酔薬の自己使用によって死亡した事件も報道されていました。この時に使用されたのは「プロポフォール」という麻酔薬でした(この薬は以前から医師が自分で使用している例があって、逮捕者なども出ていました)。プロポフォールは麻薬ではありませんから、麻薬中毒や多幸感とか幻覚という作用はありませんが、患者が覚醒時に「良い夢」をみたり、「心地よい」というような傾向があるとも言われています(文献的にはどうなのか判りません)。多分、自己使用した医師達は、直ぐに眠れるとか、軽い鎮静作用を得る為に使用したものと思います。
これらの薬物を使用することで薬理効果が得られるのですが、当然危険性も伴いますね。主に呼吸抑制(自分で息をしなくなる)であろうと思います。安全域が狭い薬物については、使用量がかなり厳密にコントロールされる必要がある、ということです。一般に飲み薬などは、安全域が広いものが多いですが、薬物の反応というのは「かなりの個体差」があると考えられています。つまり、同じ錠剤を一つ服用しても、ある人は副作用も何も出ないのに、ある人には「中毒症状」が出てしまう、ということも有りえる、ということです。通常の薬はそうした危険性を減らす為の工夫がなされていますが、実際に使用してみないと反応は判らないことも多いのです。昔の御殿医の「さじ加減」が中々難しいということも同じなのです。
上記事件で死亡した例は、恐らくそうした薬物使用量と期待していた反応とが異なってしまった為に死に至ったものと思われます。同じ量を使用した友人が死ななくても、自分が同じ量を使えば死亡することもあるのです。特に死亡した女性医師は少なくとも「医師」であり、その薬物に関する知識も豊富にあったであろうことは推測できますが、間違えてしまったのですね。
薬物動態学の発達などによって、薬物の効果と治療域を判定するための目安が段々判ってきました。プロポフォールでは、「target controlled infusion」という血中濃度を指標とする使用方法がとられたりしています。他にも、昔からある「ジギタリス製剤」や「抗てんかん薬」などの投与についても、血中濃度を指標として一定の治療域にコントロールされるようになってきています。中毒域と治療域の差が小さな薬(例えばジギタリスは、アガサ・クリスティーの小説にもよく登場する、殺害に用いられる古典的な薬物ですね)は、過量投与による副作用や事故がありますので、それこそ「さじ加減」が難しいものであったのですが、こうした手法によって医師の違いによるバラツキや、個体差による違いも縮小させることが出来るようになってきました。このような方法はTDM(Therapeutic drug monitoring)と呼ばれています。
このような「血中濃度」という客観性の高い指標を用いる事によって、上述した「松銀」と「梅政」の論争のようなことは少なくなります。他の人が見て評価することが可能であるからです。少なくとも薬物の投与量ということに関しては、以前よりも精度が向上し、個体差・医師の力量差に大きな影響を受けなくなるメリットがあります。ただ、「血中濃度」という指標はあくまで指標の一つであり、総合的な判断はもっといくつもの情報を加味して行われるものです。要するに決して「絶対基準」ではない、あくまで目安の一つである、ということです。いかに血中濃度を一定範囲に維持したとしても、それが生体の反応の全てを規定する訳ではないのです。例えば、患者の自覚症状とか(頭痛がひどい、吐き気がする、お腹が痛い・・・その他モロモロ)、各種検査などの他覚的所見とか、そういった複数情報の組み合わせで評価する、ということです。必ずしも最終的な評価ではないが、客観性に優れた「血中濃度」という数値データは、対象や医者が変わったとしても、おおよそ統一的な評価が可能になる、という利点があります。
「松銀」と「梅政」をそれぞれ別なものに置き換えるとどうでしょうか?そうです、多くの方々がお気づきの通り、「日銀」と「政府」ですね。名医の御殿医ばかりが登場するとも限らず、いってみれば「グリーンスパン」が代々続くことの方が困難なのであり、御殿医の力量における個人差を減らすことを考えるならば、一定の客観性のある指標による政策決定は「透明性」とか「客観的評価」に優れるものなのです。御殿医の「さじ加減」の比重を大きくして、それに依存する金融政策というものが、安定性とか信頼性において優位であるとは言い切れないのではないでしょうか。「インフレーション・ターゲッティング政策」は、TDMの「血中濃度による治療域の指標」ということと同じ意味合いを持ちます。それは客観的な数値データなのであり、総裁が誰になろうとも同じなのであり(酷い例えを言えば私であったとしてもレンジは同じです、爆)、力量の差が縮小されうる方法なのです。
プロポフォールを自己投与して死亡した医師は、人間ゆえの「判断の誤り」を生じたものではないか、と思います。そこには、「さじ加減」を誤ってしまったということが潜んでいるのではないか、とも思います。事故状況は全く知りませんけれども、恐らくTCI での投与(予測血中濃度の数値を指定した投与)ではなく、大体良さそうな投与量をbolus投与したのではないか、と思います。それが結果的には過量投与であったのだろうと思います。そういう個人の判断に依存する過誤のリスクを軽減する意味でも、一定の客観的指標を用いたコントロールは有効なのではないか、と思うのです。
最終的に「どのような指標が望ましいか」とか「有効レンジはどういう範囲とするか」などという部分については、色々と議論があると思いますが、インフレ・ターゲットを拒否する理由というのが実際にはよく判りません。自分達の中にある経験的な「さじ加減」を可視化することへの拒否(=先祖伝来の調合秘伝をバラす訳にはいかない、笑)ということなのか、今まで「この薬は3錠服用すれば効く」と謳ってきたのに、実は「2錠で十分だった」ということが発覚することがクヤシイということなのか、何だかよく判らないのですね(笑)。
基本的には研究などで、どの指標が最も有効と考えられるか、複数所見の組み合わせの場合に重視する所見はどれで、どの所見に比重を置くか、等々の基礎的議論を積み上げて行けばよいのではないでしょうか。薬物の血中濃度にしたって、脳に作用する薬物の場合には、例えばbrain blood barrierの影響はどうなってるか、などという議論があるので、万能ではないことは確かなのです。それでも「指標」として有効と考えられているのですから、導入する意味は大きいと思いますね。いかに自分だけが(まるで御殿医「松銀」のように)「この投与量で間違ってない」「これで効果が十分得られる」「副作用は出ないはずだ」ということを主張しても、そのことが誰にも判らないのですから。
普通に考えて、指標を採用するというのは、今まで「これで塩梅が良さそうだ」「この判断でいいはずだ」「投与量が少なすぎるかもしれない」・・・などと自分の頭の中で考えてきた(判断した)プロセスを、自分の思考が見えない周りの人達にも「見える」ようにする、ということを行う作業であると思うけどね。なぜ「この御婦人には、投与量を1錠で良いと判断したか」ということは、いくつもの理由があって、判断材料となる所見もある訳です。そういうものを詳らかにしていく、ということに他ならないのです。血中濃度測定では、自分の判断が裏付けられる・確かめられる、ということなのです。これまでは、自分の「経験と勘」ということが重視されてきて、その判断の根拠は他人には見えなかっただけなのです。そういう意味合いのものが、数値データで示される「指標」であろうと思いますね。
料理人は自分の舌を根拠として判断しますが、これは結構難しいかったりします。料理の中に含まれる、ある指標だけ(例えば塩=塩化ナトリウムとかですね)をピックアップして濃度測定を行ったとしても、必ずしも「美味しい」という評価にならない場合も有りえます。それは一つの数値だけに囚われることが、かえって全体を損なってしまうことも起こりえるからです。人間の味の感じ方(敢えて味覚ではなく「感じ方」とします)は、体調とか環境などにも左右されたりするかもしれず、熟練度の高い料理人の「経験」というものが案外と数値では測れなかったりすることがあるからですね。そういう「職人技」というのはどの分野にも残っていると思うし、金融政策における判断にしても「職人技」がきっとあるでしょう(ですよね?)。そういう部分は弾力的な面があってもよろしいかと思いますし、絶対に数値を外れちゃならねえ、ということではないと思います。
余談になりますが、数値を過信しない、機械的判定を過信しない、というのは、事故やミスを防ぐ大きな要因だと思っています。機械類の数値が絶対に正しい、ということはない、と心の何処かに常に思っていることが重大な失敗を防いでくれる、と私個人は考えています。それは経験的な勘というか、それ以外のいくつかの情報から異常を(感覚的に)感知出来るか、ということなんですけれども。「何となくオカシイ」と感じることが出来るように、数字ばかり、器械ばかりを信じない、ということを経験的に知っておくということだと思います。変な例で言うと、ケーキを自分で作るとして(私自身は全く作れませんけれども、笑)、決まったレシピに基づいて何度か作っていたとしましょう。自宅の台秤が壊れていて、本当は150グラムなのに100グラムと表示されるようになってしまったとします。その故障には通常中々気付かないので、いつも砂糖の量を200グラム測って入れたら丁度良かったのに、壊れたままであれば200グラムと表示されていても、実際には300グラムとなってしまうのです。これでケーキを作ってしまったら、もの凄く「甘ーーい!」(お笑い芸人のネタじゃなくて)ケーキになってしまう、ということです。でも、経験的に「いつもの200グラムの砂糖」という感覚(主に視覚情報ですよね)があれば、「あれ、秤がオカシイんじゃないかな?」と疑う、ということになるのです。そういう感覚は経験によらなければ培われない部分があると思っています。これと似たような状況で、「機械が正しい数値を表示してたから」では済まない、もっと重大なミスとか事故ということになれば大変困る訳です。なので、こうした「ひょっとして、何かオカシイかもしれない」という雰囲気というか感覚というか、そういうものは、経験によって身につくことなのだろうと思います。そういう訳で、数値データを過信しない、ということは理解出来るのです。
脱線しましたが、政府と日銀の綱引きも色々ですけれども、まずは「判断プロセスの可視化」とか「金融政策判断の裏付け」とか、肯定的な捉え方をしてもらえればよいのではないでしょうか。どんなに名医の御殿医さまの「さじ加減」を信じろ、と言われても、これはかなり困難であると言わねばならないでしょう。それとも「不埒な蘭学かぶれめ!」と本気で思ったりしているのでしょうか?(笑)
とある架空のお話をしてみましょう。
昔、あるお城に殿様と家来達がおりました。家老には「梅政」という男、御殿医には「松銀」という男がおりました。ある時、殿様は重い病に罹り、床に伏せっておりました。
松銀「中々よくなりませぬな」
梅政「そちの薬が悪いのではないか?」
松銀「筆頭御殿医に向かって何を申す。素人のそちに何が分ると申すか」
梅政「いや、かえって薬を飲んでから悪くなっているような・・・以前にはこんなに吐き気もなかったしのう」
松銀「これは病の毒気によるものじゃ。今は薬を飲んでいなければならない」
梅政「早く良くなられるとよいが・・・」
-後日、殿様の具合が少し快方に向かってきていた。
松銀「そろそろ次の煎薬を増やしましょう」
梅政「次の薬と?今はこのまま様子を見た方が良いのではないか?」
松銀「またも無用な口出しをされるのか。任せてもらえぬと申すか」
梅政「蘭学医に聞くところによれば、熱を下げぬ方が良いと・・・」
松銀「何を申される。蘭学医は邪道じゃ。よからぬ知恵を吹き込まれたのじゃ」
梅政「それに、毒気は薬を飲まずとも抜けると聞いたぞよ」
松銀「(おのれ蘭学かぶれめ)分らぬ者が詮索しても始まらぬ」
梅政「(この御殿医は本当にヤブではないのか?)困ったものよのう・・・」
・・・・・・
このように、昔は適当なヤブ医者もいたかもしれません。勿論名医も存在したかもしれませんが。傍から見ていても、「よくわからない」というのが一般的であったろうと思います。現在では、「名医のさじ加減」というのが、客観的な情報として解ってきた部分もあります。それは、経験的に培われてきた勘のような部分が、客観的に判断出来るようになってきたということと、名医ではなく普通の医者であってもその「さじ加減」を再現可能になる、ということです。
専門的な説明は専門書などに譲りますが、非常に大雑把に書いてみますね。
数ヶ月前に外国人女性が薬物を使用して死亡した事件が報道されていました。その薬物とは「ケタミン」という薬で、かなり古くからある鎮静・麻酔薬です。昔から「悪夢」「幻覚」などの副作用があるということが知られてきましたが、死亡した女性はその薬物を多く使用し過ぎた為に絶命してしまったのです。また、先頃女性医師が麻酔薬の自己使用によって死亡した事件も報道されていました。この時に使用されたのは「プロポフォール」という麻酔薬でした(この薬は以前から医師が自分で使用している例があって、逮捕者なども出ていました)。プロポフォールは麻薬ではありませんから、麻薬中毒や多幸感とか幻覚という作用はありませんが、患者が覚醒時に「良い夢」をみたり、「心地よい」というような傾向があるとも言われています(文献的にはどうなのか判りません)。多分、自己使用した医師達は、直ぐに眠れるとか、軽い鎮静作用を得る為に使用したものと思います。
これらの薬物を使用することで薬理効果が得られるのですが、当然危険性も伴いますね。主に呼吸抑制(自分で息をしなくなる)であろうと思います。安全域が狭い薬物については、使用量がかなり厳密にコントロールされる必要がある、ということです。一般に飲み薬などは、安全域が広いものが多いですが、薬物の反応というのは「かなりの個体差」があると考えられています。つまり、同じ錠剤を一つ服用しても、ある人は副作用も何も出ないのに、ある人には「中毒症状」が出てしまう、ということも有りえる、ということです。通常の薬はそうした危険性を減らす為の工夫がなされていますが、実際に使用してみないと反応は判らないことも多いのです。昔の御殿医の「さじ加減」が中々難しいということも同じなのです。
上記事件で死亡した例は、恐らくそうした薬物使用量と期待していた反応とが異なってしまった為に死に至ったものと思われます。同じ量を使用した友人が死ななくても、自分が同じ量を使えば死亡することもあるのです。特に死亡した女性医師は少なくとも「医師」であり、その薬物に関する知識も豊富にあったであろうことは推測できますが、間違えてしまったのですね。
薬物動態学の発達などによって、薬物の効果と治療域を判定するための目安が段々判ってきました。プロポフォールでは、「target controlled infusion」という血中濃度を指標とする使用方法がとられたりしています。他にも、昔からある「ジギタリス製剤」や「抗てんかん薬」などの投与についても、血中濃度を指標として一定の治療域にコントロールされるようになってきています。中毒域と治療域の差が小さな薬(例えばジギタリスは、アガサ・クリスティーの小説にもよく登場する、殺害に用いられる古典的な薬物ですね)は、過量投与による副作用や事故がありますので、それこそ「さじ加減」が難しいものであったのですが、こうした手法によって医師の違いによるバラツキや、個体差による違いも縮小させることが出来るようになってきました。このような方法はTDM(Therapeutic drug monitoring)と呼ばれています。
このような「血中濃度」という客観性の高い指標を用いる事によって、上述した「松銀」と「梅政」の論争のようなことは少なくなります。他の人が見て評価することが可能であるからです。少なくとも薬物の投与量ということに関しては、以前よりも精度が向上し、個体差・医師の力量差に大きな影響を受けなくなるメリットがあります。ただ、「血中濃度」という指標はあくまで指標の一つであり、総合的な判断はもっといくつもの情報を加味して行われるものです。要するに決して「絶対基準」ではない、あくまで目安の一つである、ということです。いかに血中濃度を一定範囲に維持したとしても、それが生体の反応の全てを規定する訳ではないのです。例えば、患者の自覚症状とか(頭痛がひどい、吐き気がする、お腹が痛い・・・その他モロモロ)、各種検査などの他覚的所見とか、そういった複数情報の組み合わせで評価する、ということです。必ずしも最終的な評価ではないが、客観性に優れた「血中濃度」という数値データは、対象や医者が変わったとしても、おおよそ統一的な評価が可能になる、という利点があります。
「松銀」と「梅政」をそれぞれ別なものに置き換えるとどうでしょうか?そうです、多くの方々がお気づきの通り、「日銀」と「政府」ですね。名医の御殿医ばかりが登場するとも限らず、いってみれば「グリーンスパン」が代々続くことの方が困難なのであり、御殿医の力量における個人差を減らすことを考えるならば、一定の客観性のある指標による政策決定は「透明性」とか「客観的評価」に優れるものなのです。御殿医の「さじ加減」の比重を大きくして、それに依存する金融政策というものが、安定性とか信頼性において優位であるとは言い切れないのではないでしょうか。「インフレーション・ターゲッティング政策」は、TDMの「血中濃度による治療域の指標」ということと同じ意味合いを持ちます。それは客観的な数値データなのであり、総裁が誰になろうとも同じなのであり(酷い例えを言えば私であったとしてもレンジは同じです、爆)、力量の差が縮小されうる方法なのです。
プロポフォールを自己投与して死亡した医師は、人間ゆえの「判断の誤り」を生じたものではないか、と思います。そこには、「さじ加減」を誤ってしまったということが潜んでいるのではないか、とも思います。事故状況は全く知りませんけれども、恐らくTCI での投与(予測血中濃度の数値を指定した投与)ではなく、大体良さそうな投与量をbolus投与したのではないか、と思います。それが結果的には過量投与であったのだろうと思います。そういう個人の判断に依存する過誤のリスクを軽減する意味でも、一定の客観的指標を用いたコントロールは有効なのではないか、と思うのです。
最終的に「どのような指標が望ましいか」とか「有効レンジはどういう範囲とするか」などという部分については、色々と議論があると思いますが、インフレ・ターゲットを拒否する理由というのが実際にはよく判りません。自分達の中にある経験的な「さじ加減」を可視化することへの拒否(=先祖伝来の調合秘伝をバラす訳にはいかない、笑)ということなのか、今まで「この薬は3錠服用すれば効く」と謳ってきたのに、実は「2錠で十分だった」ということが発覚することがクヤシイということなのか、何だかよく判らないのですね(笑)。
基本的には研究などで、どの指標が最も有効と考えられるか、複数所見の組み合わせの場合に重視する所見はどれで、どの所見に比重を置くか、等々の基礎的議論を積み上げて行けばよいのではないでしょうか。薬物の血中濃度にしたって、脳に作用する薬物の場合には、例えばbrain blood barrierの影響はどうなってるか、などという議論があるので、万能ではないことは確かなのです。それでも「指標」として有効と考えられているのですから、導入する意味は大きいと思いますね。いかに自分だけが(まるで御殿医「松銀」のように)「この投与量で間違ってない」「これで効果が十分得られる」「副作用は出ないはずだ」ということを主張しても、そのことが誰にも判らないのですから。
普通に考えて、指標を採用するというのは、今まで「これで塩梅が良さそうだ」「この判断でいいはずだ」「投与量が少なすぎるかもしれない」・・・などと自分の頭の中で考えてきた(判断した)プロセスを、自分の思考が見えない周りの人達にも「見える」ようにする、ということを行う作業であると思うけどね。なぜ「この御婦人には、投与量を1錠で良いと判断したか」ということは、いくつもの理由があって、判断材料となる所見もある訳です。そういうものを詳らかにしていく、ということに他ならないのです。血中濃度測定では、自分の判断が裏付けられる・確かめられる、ということなのです。これまでは、自分の「経験と勘」ということが重視されてきて、その判断の根拠は他人には見えなかっただけなのです。そういう意味合いのものが、数値データで示される「指標」であろうと思いますね。
料理人は自分の舌を根拠として判断しますが、これは結構難しいかったりします。料理の中に含まれる、ある指標だけ(例えば塩=塩化ナトリウムとかですね)をピックアップして濃度測定を行ったとしても、必ずしも「美味しい」という評価にならない場合も有りえます。それは一つの数値だけに囚われることが、かえって全体を損なってしまうことも起こりえるからです。人間の味の感じ方(敢えて味覚ではなく「感じ方」とします)は、体調とか環境などにも左右されたりするかもしれず、熟練度の高い料理人の「経験」というものが案外と数値では測れなかったりすることがあるからですね。そういう「職人技」というのはどの分野にも残っていると思うし、金融政策における判断にしても「職人技」がきっとあるでしょう(ですよね?)。そういう部分は弾力的な面があってもよろしいかと思いますし、絶対に数値を外れちゃならねえ、ということではないと思います。
余談になりますが、数値を過信しない、機械的判定を過信しない、というのは、事故やミスを防ぐ大きな要因だと思っています。機械類の数値が絶対に正しい、ということはない、と心の何処かに常に思っていることが重大な失敗を防いでくれる、と私個人は考えています。それは経験的な勘というか、それ以外のいくつかの情報から異常を(感覚的に)感知出来るか、ということなんですけれども。「何となくオカシイ」と感じることが出来るように、数字ばかり、器械ばかりを信じない、ということを経験的に知っておくということだと思います。変な例で言うと、ケーキを自分で作るとして(私自身は全く作れませんけれども、笑)、決まったレシピに基づいて何度か作っていたとしましょう。自宅の台秤が壊れていて、本当は150グラムなのに100グラムと表示されるようになってしまったとします。その故障には通常中々気付かないので、いつも砂糖の量を200グラム測って入れたら丁度良かったのに、壊れたままであれば200グラムと表示されていても、実際には300グラムとなってしまうのです。これでケーキを作ってしまったら、もの凄く「甘ーーい!」(お笑い芸人のネタじゃなくて)ケーキになってしまう、ということです。でも、経験的に「いつもの200グラムの砂糖」という感覚(主に視覚情報ですよね)があれば、「あれ、秤がオカシイんじゃないかな?」と疑う、ということになるのです。そういう感覚は経験によらなければ培われない部分があると思っています。これと似たような状況で、「機械が正しい数値を表示してたから」では済まない、もっと重大なミスとか事故ということになれば大変困る訳です。なので、こうした「ひょっとして、何かオカシイかもしれない」という雰囲気というか感覚というか、そういうものは、経験によって身につくことなのだろうと思います。そういう訳で、数値データを過信しない、ということは理解出来るのです。
脱線しましたが、政府と日銀の綱引きも色々ですけれども、まずは「判断プロセスの可視化」とか「金融政策判断の裏付け」とか、肯定的な捉え方をしてもらえればよいのではないでしょうか。どんなに名医の御殿医さまの「さじ加減」を信じろ、と言われても、これはかなり困難であると言わねばならないでしょう。それとも「不埒な蘭学かぶれめ!」と本気で思ったりしているのでしょうか?(笑)