ごめんね、内閣府。十分色んな資料集めも分析も、「これでもか」ってくらいやっておられたんですね。そりゃ、そうですわな。私ごときがちまちまと資料を集めるのよりも、きちんとした資料が揃ってきてますもんね。ゴメンナサイ、読んでなくて。とは言うものの、行政の出してる「白書」ものだけでそれこそ死ぬほどあるので、読むのが大変なんです(笑)。内閣府も、協力した学者さん達も、きっと沢山頑張ったことでしょう。暇な人達や「読むのも仕事のうち」と思っている職業の方々も、まず行政文書とか白書を「総ナメ」にしてから本を執筆しましょう(笑)。報道関係者達も、担当の人達は勉強の為に全部読みましょう(それをやるだけでも、大臣質問の内容がガラッと変わると思いますよ)。シリーズで記事を書くとしたら、「一般国民向け」に簡単に論旨を要約して、読みやすい平易なものとするだけで、かなりの連載回数が稼げると思うな(笑)。きっと「要約」というような作業は、記者氏は得意だと思いますし。
少子・高齢化対策ホームページ
ちゃんと、『少子化社会白書』もあるし。こういうので、まず「お勉強」しなくちゃダメですよね。申し訳なし。
Wikiも割とまとまってた。どこのどなたが書いたかは知らないけれど、判りやすくて良いです。
少子化 - Wikipedia
少し前にあった(1.57ショック後の)「少子化論争」も今回はじめて知りました。近年では、赤川学先生の著書の『子どもが減って何が悪いか!』論争というのがあったということも知りました。統計法に関しては、山口一男シカゴ大教授が論文中で、OECD統計については(選ばれた18カ国が)恣意的選択とは言えないこと、先生自身の統計分析でも妥当性が高いものであると結論付けられております。「少子化問題」は専門家の中でも意見が分かれるのであり、ここでも「何が客観的事実なのか」ということが非常に問題となるようです。時に、女性の社会的責任論争とすり替えられてしまって、「就業しないで専業主婦で出産して家庭を守れ」「女性は子を産む為の道具じゃない」等々、色々と複雑化しやすいのかもしれないですね。
山田昌弘先生の強烈コメントがよい、次の記事も面白いです。
自閉する若者…『下流社会』の行方は 向上心なき『自分らしさ』
「本当の下流の人は新書など読まないでしょう」というのは、まだ『下流社会』を読んでいない私もずばり当てはまりますね。
それと、Dr.香山のいつもどおり「適当なコメント」もある意味素晴らしい。
それは次の言葉に集約される。
「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」
皆さんの御意見はどうなんでしょうか?
(全然関係ないけど、石原都知事の書いた最近の本、タイトル忘れたけど、表紙の写真が「死にそうな病人」みたいな感じで、まさに「逝く寸前」のような感じに見えました。書店で遠目に見た時に、石原さんも遂に・・・と思ったら全然違ってた。病床記録のようなものかと思いましたが、大きな勘違いでした、ゴメンね)
今回若年者達の問題を少し調べてみて、何だか不可解な部分が多くなったような気がする。自分が小学生くらいの頃、どうしてああいう環境だったのかも判らない。日本人の何が変化してきたんだろうか?そういう「謎」がますます解けなくなったように思う。きっと昔は、全般的に「いいかげん」というか寛容な部分が多かったのかもしれない。しかし、「絶対にこれだけは曲げられない」というような、職人気質もあって、そういうのが混在していたんだろうか?それは生活の中に不便なことが多かったからなんだろうか?隣の主婦が「お醤油貸して下さーい」なんて光景も、今は見ないだろう。当時はどうしてそういうことが出来たんだろうか?近所のガキどもが勝手に集合して、何故遊ぶことが出来たんだろう?実は単純に、「放置されていた」から?でも今は放置しとくと、孤独になっちゃったりするかもしれないし。
例えば、学校の先生は「げんこつ」に「ハアー」って息を吹きかけて、普通に子供の頭にげんこつを落としていた。勿論、私も例に漏れず何度も「げんこつ」をもらったものだ。でも、今は「体罰だ」ということで問題になってしまうかと思えば、教師が殴って鼓膜破くとかっていう報道もあったりする。何がどうなっているのか、判らない。何かの寛容さが消えたかのようである。保護者達は不必要なまでに「学校」に文句を言ったり抗議したりする。「平等だ」「不公平を無くせ」とか言う。運動会で順位をつけることも、学芸会で「主役」を演じることも、差別だ、贔屓だ、となったりする。そんなの別にいいじゃないか、と思うけど。学校側もそういう問題やクレームが出ることを恐れて、元に戻そうとはしないだろうし。
その一方で、子供の家庭教育に関しては「自由と自主性」を尊重して寛容に見えるが、中には自由とやりたい放題、勝手気ままとを混同させたままのこともある。その責任は「学校」にあると言う。塾でちゃんと教えてくれなかったから、学校の授業が悪かったから、・・・批判は永遠に続く。子供は子供で、大人たちが悪い、社会が悪い、制度が悪い、どうして努力しなけりゃいけないの、どうして覚える必要があるの、何の役に立つの、・・・これも似てるな、大人と。テレビドラマ「女王の教室」のアクツマヤ先生が言っていた台詞と、全く同じだね。
なんで、こんな風になってしまったんだろう。大人達があれもだめ、これもだめ、という規制を強化したんだろうか?危ないから、汚いから、~を止めなさい、というのは、それはそうなんだけど、でも何処かにそれを代替するようなものが必要なんじゃないのかな?あまりに「体で覚える」ということが少なすぎるのかもしれない。実際の体験に基づく、身体的な記憶というものが少ないのかな?「必ず守らなければいけないこと」と「多少は許す」ということとが、まるでバラバラになってしまったかのようだし。色々な機械類では、「アソビ」の部分が存在することによってうまく機能するものは多いと思う。そういう「アソビ」というか「余裕」のようなものが、社会全体に少なくなってしまったのかな?どうなんでしょうか?私の経験だけでは、よく判りません。
仮に「定職に就けなくてもいい」「自由に生きさせろよ」「オレは何にもしたくない」というような人々を、完全に放置した場合、どうなってしまうでしょうか?どんなに「貧乏」であっても、一切何の支援もしないとしたら、どうなってしまいますか?非常に嫌な想像になってしまいますが。あれこれと対策だ、支援だ、社会・経済の為に、云々ということで、手間暇をかければかけるほど過保護状態に近づいていくような気もします。一生懸命やっている人達から見れば、「甘ったれんな!」ということも出てきます。どういうバランスがいいのか、それもよく判りません。「何で勝手に仕事もしないでいる奴らに何十億円も遣って、真面目に働いてる人間には遣わないのか」と言われたら、どう答えるべきでしょうか?「オレ様には、生きる権利がある。おまいら面倒みてくれよ」と言われたら、どうするべきなのでしょうか?
不思議な世の中になってしまったのですね。そういう時代と言うべきか。
追記:
この前から、どこぞの知れない「外人部隊」からのコメント書き込み攻撃(笑)を受けていまして(実際には特に攻められている訳ではないですが)、消しても消しても、別人が書き込んできます。ULCかCPIのどちらかが、彼らにとっては重要な言葉なのかもしれませんが、何が彼らの「ツボにはまった」のかは全くの不明です。
こういのは、どうにかならないでしょうか?
少子・高齢化対策ホームページ
ちゃんと、『少子化社会白書』もあるし。こういうので、まず「お勉強」しなくちゃダメですよね。申し訳なし。
Wikiも割とまとまってた。どこのどなたが書いたかは知らないけれど、判りやすくて良いです。
少子化 - Wikipedia
少し前にあった(1.57ショック後の)「少子化論争」も今回はじめて知りました。近年では、赤川学先生の著書の『子どもが減って何が悪いか!』論争というのがあったということも知りました。統計法に関しては、山口一男シカゴ大教授が論文中で、OECD統計については(選ばれた18カ国が)恣意的選択とは言えないこと、先生自身の統計分析でも妥当性が高いものであると結論付けられております。「少子化問題」は専門家の中でも意見が分かれるのであり、ここでも「何が客観的事実なのか」ということが非常に問題となるようです。時に、女性の社会的責任論争とすり替えられてしまって、「就業しないで専業主婦で出産して家庭を守れ」「女性は子を産む為の道具じゃない」等々、色々と複雑化しやすいのかもしれないですね。
山田昌弘先生の強烈コメントがよい、次の記事も面白いです。
自閉する若者…『下流社会』の行方は 向上心なき『自分らしさ』
「本当の下流の人は新書など読まないでしょう」というのは、まだ『下流社会』を読んでいない私もずばり当てはまりますね。
それと、Dr.香山のいつもどおり「適当なコメント」もある意味素晴らしい。
それは次の言葉に集約される。
「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」
皆さんの御意見はどうなんでしょうか?
(全然関係ないけど、石原都知事の書いた最近の本、タイトル忘れたけど、表紙の写真が「死にそうな病人」みたいな感じで、まさに「逝く寸前」のような感じに見えました。書店で遠目に見た時に、石原さんも遂に・・・と思ったら全然違ってた。病床記録のようなものかと思いましたが、大きな勘違いでした、ゴメンね)
今回若年者達の問題を少し調べてみて、何だか不可解な部分が多くなったような気がする。自分が小学生くらいの頃、どうしてああいう環境だったのかも判らない。日本人の何が変化してきたんだろうか?そういう「謎」がますます解けなくなったように思う。きっと昔は、全般的に「いいかげん」というか寛容な部分が多かったのかもしれない。しかし、「絶対にこれだけは曲げられない」というような、職人気質もあって、そういうのが混在していたんだろうか?それは生活の中に不便なことが多かったからなんだろうか?隣の主婦が「お醤油貸して下さーい」なんて光景も、今は見ないだろう。当時はどうしてそういうことが出来たんだろうか?近所のガキどもが勝手に集合して、何故遊ぶことが出来たんだろう?実は単純に、「放置されていた」から?でも今は放置しとくと、孤独になっちゃったりするかもしれないし。
例えば、学校の先生は「げんこつ」に「ハアー」って息を吹きかけて、普通に子供の頭にげんこつを落としていた。勿論、私も例に漏れず何度も「げんこつ」をもらったものだ。でも、今は「体罰だ」ということで問題になってしまうかと思えば、教師が殴って鼓膜破くとかっていう報道もあったりする。何がどうなっているのか、判らない。何かの寛容さが消えたかのようである。保護者達は不必要なまでに「学校」に文句を言ったり抗議したりする。「平等だ」「不公平を無くせ」とか言う。運動会で順位をつけることも、学芸会で「主役」を演じることも、差別だ、贔屓だ、となったりする。そんなの別にいいじゃないか、と思うけど。学校側もそういう問題やクレームが出ることを恐れて、元に戻そうとはしないだろうし。
その一方で、子供の家庭教育に関しては「自由と自主性」を尊重して寛容に見えるが、中には自由とやりたい放題、勝手気ままとを混同させたままのこともある。その責任は「学校」にあると言う。塾でちゃんと教えてくれなかったから、学校の授業が悪かったから、・・・批判は永遠に続く。子供は子供で、大人たちが悪い、社会が悪い、制度が悪い、どうして努力しなけりゃいけないの、どうして覚える必要があるの、何の役に立つの、・・・これも似てるな、大人と。テレビドラマ「女王の教室」のアクツマヤ先生が言っていた台詞と、全く同じだね。
なんで、こんな風になってしまったんだろう。大人達があれもだめ、これもだめ、という規制を強化したんだろうか?危ないから、汚いから、~を止めなさい、というのは、それはそうなんだけど、でも何処かにそれを代替するようなものが必要なんじゃないのかな?あまりに「体で覚える」ということが少なすぎるのかもしれない。実際の体験に基づく、身体的な記憶というものが少ないのかな?「必ず守らなければいけないこと」と「多少は許す」ということとが、まるでバラバラになってしまったかのようだし。色々な機械類では、「アソビ」の部分が存在することによってうまく機能するものは多いと思う。そういう「アソビ」というか「余裕」のようなものが、社会全体に少なくなってしまったのかな?どうなんでしょうか?私の経験だけでは、よく判りません。
仮に「定職に就けなくてもいい」「自由に生きさせろよ」「オレは何にもしたくない」というような人々を、完全に放置した場合、どうなってしまうでしょうか?どんなに「貧乏」であっても、一切何の支援もしないとしたら、どうなってしまいますか?非常に嫌な想像になってしまいますが。あれこれと対策だ、支援だ、社会・経済の為に、云々ということで、手間暇をかければかけるほど過保護状態に近づいていくような気もします。一生懸命やっている人達から見れば、「甘ったれんな!」ということも出てきます。どういうバランスがいいのか、それもよく判りません。「何で勝手に仕事もしないでいる奴らに何十億円も遣って、真面目に働いてる人間には遣わないのか」と言われたら、どう答えるべきでしょうか?「オレ様には、生きる権利がある。おまいら面倒みてくれよ」と言われたら、どうするべきなのでしょうか?
不思議な世の中になってしまったのですね。そういう時代と言うべきか。
追記:
この前から、どこぞの知れない「外人部隊」からのコメント書き込み攻撃(笑)を受けていまして(実際には特に攻められている訳ではないですが)、消しても消しても、別人が書き込んできます。ULCかCPIのどちらかが、彼らにとっては重要な言葉なのかもしれませんが、何が彼らの「ツボにはまった」のかは全くの不明です。
こういのは、どうにかならないでしょうか?