いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

心臓には腎臓を救えない(笑)

2008年03月03日 14時08分37秒 | 経済関連
アメリカの凄いところは、知の集積があることである。知力に厚みがある。世界の大学のランキングなどでよく出てくる米国の名門大学は、その結晶と言ってもいいだろう。そこから多くのノーベル賞受賞者を排出するのも頷ける。彼らの知力は普通じゃない(笑)。


バーナンキ発言によって、市場には波乱要因となってしまったようだが、過剰に反応しすぎなのではなかろうか、と思われる。金を握って相場に張っている人たちにとっては大変なことだろうが、中央銀行が見るのと相場師たちが考えるのでは別だろうと思われる。

「バーナンキ失言」で市場大荒れ 暴れる投機マネーで不透明感再燃 12ページ - MSN産経ニュース

まあ、多くの非難が出てくるのは判りますが、言葉の一部だけが切り取られてしまってはちょっと可哀想かな、とは思いますね。

第一に、米国での中小銀行が破綻する可能性があるとしても、それはほんのごく一部に過ぎず、他の大多数(99%とか)は破綻懸念はなく、特に重要となる大手金融機関の破綻懸念というものは現状のところない、という認識を明らかにしたものであろう。中小の幾つかが飛んだとしても、資金量では1%未満ではないか、ということだ。なので「大丈夫だ、あまり心配ない」というような意図であったのではないかと思われるが。

第二に、ドル安容認ということだが、これも中々よく考えられているものであろう。
ご存知のように、米国が大幅な輸入超過なのは恒常的である。輸入価格は上昇し、結果的には輸入品の販売不振となっていく可能性はあるだろう。しかし、これは米国企業の収益悪化を反映するものではないだろう。主として「外国企業の不振」ということに繋がるだけであり、米国内では深刻なダメージには結びつかないのではないか。もう一つ、これまで幾度か取り上げたのだが、対外純債務は多いけれども、債権残高は世界最大ということだ。これは、米国の持つ外貨建て資産(主に対外債権ということ)は相対的に価値が上がり、逆に米国の負債は軽減されるのである。ドル安によって、海外投資家の受取る利息が減り、米国全体にとっては「外に払うお金が相対的に減る」ということだ。従って、マクロ的に見ればドル安となることによって、米国全体のバランスシートはやや改善するだろう。特に、大手金融機関の多くは、国内資産よりも国外に大きな資金を投入しているのではないかと思われ、それは結果的にそうした金融機関のバランスシートをも改善する効果をもたらすのではなかろうか。

ある大手銀行があるとしよう。ドル資産と国外の外貨建て資産の割合が半々であるとして、ドルが10%下落するとドル資産は減少しないが、国外投資である外貨建て資産はドルベースで約11%増大する。つまり、ドル下落だけで改善効果が期待できる、ということになるだろう。


そもそも中央銀行には、個別の金融機関やレンダーを救済するべく手段を持ち合わせてはいない。マクロ経済に対しては効力を発揮できるが、個別の経済主体を救うことを目的として政策を実施できるわけではないのである。それは心臓が全身に血液供給を担えるけれども、個別の臓器や組織に対して「救ってあげよう」などという目的をもってそれが達成されることはない、ということだ。仮に腎臓が血流不足となってきたり機能低下を来たしたとしても、心臓が個別のネフロン目がけて救助効果を発揮できるわけではないのである。それは腎臓の内部的なオートレギュレーション機構の中である程度どうにかしてもらうしかない、ということだ。それで一つの細胞とかが死んだところで、腎臓全体の機能不全に陥ったりしなければ問題ない、というふうに考えるのは当然なのである。

中央銀行の持っている手段というのは、基本的には限られている。これまで1.75%もの金利引下げを大至急行い、金利政策としてはやるべきことをやっているし、流動性大量供給によって流動性リスクにも対処してきている。この政策効果をもう少し見極めてみたい、ということはあるだろう。政府の出した緊急経済対策も出されて間もないわけだし。インフレ懸念は残されているから、あまりに大幅で急激な金利引下げというものにもある程度慎重にならざるを得ない面もあるだろう。

恐らくバーナンキやポールソンなどは、資本主義の原理をある程度信頼しているのであろう、と見受けられる。市場が元々持っている機能によって、弱小金融機関とか規律なきレンダーとかが淘汰されるのは止むを得ない、ということであろう。市場機能に対する信頼がある人間と、不信感のある人間では受け止め方は異なるということだろうか。いつもは「市場原理」だの「市場規律」だのと声高に主張する人々が、金融機関の淘汰が目前に迫ってくる危険性を感じ取ると、急に市場機能には反対の立場を取るのであろうか(笑)。市場の機能によって淘汰されるのを回避せよ、と言わんばかりなのは、一体どういうことなのであろうか。過剰に投機的であれば、市場によって淘汰されるのは止むを得ない、とするのが、市場を信頼する人間の取るべき立場なのではないかと思えるが。バーナンキ発言は、そうした意味においても妥当であると思われる。


今のところ、不必要にドル安を恐れることはないのではないかと思う。理由はたった一つしか思いつかないのだが(笑)。
それは米国債の大幅な金利低下(=債券高)だ。つまり安全資産であるドル国債は大幅に買われており、これはドル安云々の心配を言う必要性なんて今のところない、と考えていいだろう。米国への信頼、ドルへの信認を失うと、ドル建て資産からの大量逃避が始まることになる。その場合には、きっと米国債はみんな売って逃げていくであろう、ということ。ドル安+債券安となってしまう、ということだ。しかし、これまでの変化を見てくると、一貫して長期金利は低下してきており、これは政策金利引下げによる効果も当然含まれるであろう。長期金利が上昇したりしなければ、米国のドル通貨危機みたいなことはないだろう。安全性の高い米国債への信頼は依然として守られており、ドル資産からの大量逃避はそれほど心配する必要がないだろう。米国金融機関のこれまでみたいな「勝ちっぷり」はなくなり、利益水準は大きく後退するであろうが、世界で活躍するその他の米国企業はやはり強さを持ったままだろう。金融セクターの落ち込みはあるとしても、全部の米国企業が息切れして倒れそうなわけじゃない。日本のバブル期のように、企業も銀行もみんなで不動産投資に熱を上げていたのとは違う。

まあ、中にはGMみたいに本業が振るわず、製造業なのに思い切って不慣れなサブプライム関連商品に手を出して、(従業員たちの首や医療費を大量に切ったにも関わらず)多額の金をつぎ込んだ挙句に大損したところもあるかもしれませんが。数兆円規模での損失ですから、一体どんだけ突っ込んでいたんですか、って話ですわな。製造業なのに、金融で大きく儲けようなどという魂胆が無謀というか、良くなかったのかもしれませんな。まるで天罰を食らったように見えますが、どうなんでしょうか(笑、私はクリスチャンではありませんけど)。


今は、米国の大手金融機関の持ってる資金量とか信用枠みたいなものが目一杯になってしまって困ってるという感じで、それは個人投資家が信用取引で追証を求められるのと似ているのかも。信用枠を全部使い切らずにキャッシュを残しておけば余裕があったかもしれませんが、効率を上げようとすると資金全部をつぎ込んで運用しなけりゃならないからね。そこに大損失が発生して、持っていたポジションを売って解消しようと思ったが、流動性リスクが顕在化してしまって、誰も買ってくれる人が存在しなくなった、と。売るに売れないので仕方なく持ったままでいるしかないが、持ったままでいると損失が拡大していく、と。更に追証が発生する、と。こんな感じだよね。



ところで、米国の地方自治体なんかでも、ARSとか金利スワップを使ったりしていたが、流動性プレミアムが大幅に上昇して買い手が存在しなくなって困っているみたいだし。

Bloombergcojp 特集記事コラム

『銀行の助言』でARSとか金利スワップをつかまされたのに、UBSやGS等投資家がARS市場から撤退したので、誰も買い手がいない、ということらしい。地方自治体とか美術館や学校のような健全な借り手が、複雑な仕組みの金融商品によって苦しむ結果となっている、と。これが「自由な資本主義」なのだ。資本主義原理は、こういう健全で善良な人々にも確実に牙をむく、ということなのだろう。



デフレは生存を脅かす

2008年03月03日 04時04分23秒 | 経済関連
以前にもちょっと似たようなことを書きました。
数字の大きさ

これについて再び書いてみたいと思います。また低俗な例(笑)から。

ある男がいるとしよう。男は労働の報酬として米粒を1日100粒貰えるものとしよう。労働は何でもいいのであるが、とりあえず畑作か何かでもいいだろう。地主がいて、男に米粒を払う、と。

最初の20日間は貰える米粒が毎日10粒ずつ増えていくとしよう。すると、基準となる最初の日(0日目)は100粒、翌日110粒、2日目120粒…、という具合だ。最初の日をT0、1日目をT1、次の日をT2…とすると、T10=200粒、T20=300粒となる。
この男にとっては、段々と貰える米粒が増加していくので、豊かになっていくことが感じ取れるであろう。始めのうちはひもじい思いをしているが、日にちが経つにつれ食べられる量が増加していく、ということになる。全部食べてしまってもいいし、困った時の為に一部はキープしておいてもいい。もしも米びつがあって、毎日貰った米粒を入れていき、最初に食べていた100粒だけ食べていくことにするなら(余剰分は我慢して食べないで取っておく、ということ)、米びつには貯まった米が増えていくだろう。

この米びつを見た時に、男はどのように感じるであろうか、ということだ。
多分、安心感が増し、嬉しい気持ちが湧いてくるのではないかと思う。それは男の生存可能性が増していくということが実感できるからだろうと思う。人間はそういう風に感じるように出来ているのではなかろうか、と思う。食物が保存されていくということは、自分の生き延びられる確率が上がっていくということであり、そうした感覚は生物としての生存戦略としては大事だからだ。米びつの中に貯まる米が着実に増えていくということが重要なのだ。

ここで、世間全体ということを考えてみよう。仮に、お医者にかかる時の薬代を米粒で払うものと考えてみよう。
T0の日には、お医者にかかる対価は、米粒50粒だったとしよう。T10の時には、80粒だった。すると、かつては、貰った米粒100粒の半分を払わねばならなかったのが、10日後には20粒の余剰を生むことになる。つまり、この男はその分だけ豊かになったということなのだ。このお医者にかかる対価が世間の物価上昇率ということなら、男の賃金(得られる米粒)は相対的に増加しているということになるだろう。このことが重要なのである。もし100粒必要であるなら、貰った米粒の増加率とお医者に払う米粒の増加率は同じとなる。こういう時には実質的な収入が増加したとも言えない、というのが経済的な考え方である。

では、条件を変えてみよう。
男は毎日100粒だけ貰い、一定であるとしよう。一方、お医者に払うべき米粒は毎日1粒減少していくとするとどうだろうか。T0で50粒だったが、T10ではお医者に払うべき米粒が40粒に減少していることになるだろう。男の米びつには増加していく米粒がないにも関わらず、世の中全体の物価が下がっているので男が貰う100粒というのは、「実質的に増加している」ということになる。こういう状態がデフレなのである。ここで、男の感じ方を想像してみれば、米びつの米が増えていくわけではないにも関わらず、「お前の貰う米粒の個数は増加しているのと同じだ」とか言われても、普通はそれを感じ取ることができないのではないか。お医者にかかる米粒が40粒に減少していたとしても、それで男が「豊かになったな」という実感みたいなものは湧いてこないであろう、ということ。これがデフレの恐怖なのではないか。


普通の人間には、こうした「実質的に増加しているのだ」という感覚が理解できないことが多いのではなかろうか。むしろ、毎日米粒が増加し、お医者に払うべき米粒も同じ割合だけ増加していて実質的な負担に変化がないとしても、米びつに米が貯まっていくのを感じ取るので、「得した感」が生まれるのではないだろうか。それが多くの人間の感じ方である、ということだ。

しかし、日本の低迷期間においては貰える米粒が最初100粒だったのが99粒、98粒…という具合に減少していった(つまりは賃金低下)が、そうした下落を上回るマイナスの物価上昇率だった(=デフレ)ので、お医者に払うべき米粒というものが98粒、96粒…と下落していった、ということなのだ。この状態であると、男の米びつには米が全然増えていかない。毎日100粒も決まって食べることができなくなってしまうのである。それにも関わらず、君の米は相対的に増加している、とか言われても感じ取ることができない、ということなのだ。だからこそデフレは危険なのだと思う。

結局、見かけ上であろうが米びつの米粒が増加(=名目値が増加するということ)していくことが必要なのであり、それは名目成長率が
増加しなければならない、ということを意味するのである。米びつの米しか直に見ることができず、主にそこから感じ取る一般大衆にとって、デフレという状態は不安を増強し「米びつに米を残しておこう」という心理状態を惹起しやすいと思うのである。

恐らく「金利を高くして、利息収入を増加させ景気回復せよ」みたいな言い分というのは、こうした発想に原因があるのではないかと思われるのである。景気が良くないのに利上げせよというのは、教科書的(笑)にも明らかに間違っているにも関わらず、そうした意見が政治家やメディアの住人たちから出されるというのは、現実的実感に基づく基本的誤りに起因するものなのではなかろうか、とも思うのである。


米びつの米を増やすには、まず名目値を増加させる手段を選択しない限り不可能なのだ、ということが理解されないのである。金利を上げれば、見かけ上米びつの米が増えると錯覚するというのが、政治家なんかの陥りやすい罠なのだ。彼らは自分とかごく周辺の人間の米びつしか想像できないからであり、知らないのだ。世の中全部の米びつを想定してみて考えるということは、大変難しいのである。

こうしてデフレは終わりなき状況に陥っているのである。