今朝の読売新聞に面白い記事が載っていた。ネット上では探せないので、概略を紹介しよう。
・今世紀以降くらいから、中高生の友人関係には「格」ができたらしい
・「格」はグループやクラス内での上下関係を意味する
・この「格」に応じて自分を位置づけ
・こうした格による上下関係に縛られているかも
記事から一部引用してみる。
大学で19歳の女子学生に、何が上下を決めるのか質問したところ、①外見②発言力③先生にかわいがられている度合い――だった。
関東地方の女子大生ナオコ(仮名、22)は高校時代、格付けを意識して苦労した。女子の場合、格付けで重要なのはファッションや体形。ギャル系やカジュアルなおしゃれが上、おしゃれしても地味な感じだと中、オタク系が下だった。
(中略)
格に自分を合わせて友達付き合いを続けるには、努力が必要だという。ナオコは同じ格の女子が好むテレビ番組や音楽をチェックし、ファッション雑誌を読みあさった。「みんなと同じじゃないと。空気が読めないと言われるのは怖いから」。服も趣味も、自分の本当の好みなんて関係ない。だから、「自分を見失ってしまいそうになる」。
一度決まった格は、卒業や転校などの大きな変化がない限り変わらない。
=====
へえ~、そうなんだ、知らなかったよ、思いました。
何といっても、
『オタクは下』
ですから!
世の中のオタクを自認する人々から猛烈反発が出そう。
「オタクが下なんじゃない、そいつが下なんだ!」
「ナオコ及びその友人の格付けがおかしいんだ!」
冗談はいいとして、オタクといっても昔の宅八郎だったかみたいに(所謂)「キモい」とかって言われるのは、最近は少ないんじゃないだろうかと思う。より広まって珍しい存在ではなくなったからだろう。外人さんの自称オタクたちも、カッコイイ人はいっぱいいるご時世ですから。
けど、これって大人も同じようなもんなんじゃないの?ホレ、「うちのブログはオメガ級」で、アルファな方々とは違いまっせ、とかいつも言ってるし(笑)。他の人たちも「○○はアルファだから」とか、似たようなことを言ってるように思えますしね。肩書きだのアルファだの、何らかの権威に支配されとる人もいるんじゃないの?(笑)
それは別にいいんだけどね。悪いことじゃない。いや、普通だ。
現実世界でも、適当なことしか言わないコメンテーターや評論家だって「格」があるからテレビに出てるんだし。間違ったことを言っていても、世の中の大部分の人たちは信じてしまうんだから。何もない「格下」といいますか、格付けが下の人であれば、たとえ正しいことを言っているとしても、多くの人たちは見向きもしないだろう、と。そういうようなもんだ。
そういえば、「格」について書いたことがあったな、偶然だが。
>格の違いってやつですか
日本的発想だと、昔からあった話だわな。家老とかその他役職になるにしても、「~家」ごとにみんな格付けされていて、家柄がその「格」に序列されていなければ絶対になれない、みたいなもんでしょ。婚姻にしても、「格」が大体同じ家じゃないとダメだったでしょ?そういうのと、あまり大きな違いはなさそうかな、と。
たとえ「格」だの「格付け」だのが昔にあったり(ブログ=部落格にもアルファとかオメガとかのランク付けがあったり、笑)したとしても、今の状況は全然違う。それは子どもたちが自発的に「格」を意識している、ということだと思う。何となくだけれども、自分自身をある「階層化」の中に押し込めているんじゃないかな、と思う。目に見えない身分制度みたいなもんだな。そうした階層の呪縛からは、自力だと簡単には抜け出せない人が増えている、ということなのだろう。将校、下士官、ヒラ、という具合にあれば、「あっしはヒラです」とか「私は下士官です」とか、そういう階級(格)に囚われてしまって、「いかに自分が下士官から落ちていかないようにするか腐心する」みたいな状況になっているのである。これには危惧を抱く。若者が生気を失っているかのようだからだ。
若者の上昇志向が弱いかどうかは判らない。単に「疎外」を怖れての保身的行動なのかもしれないけど。でも、自分は平民であり、あの子はプリンセスだから、みたいな身分みたいなものを意識せざるを得ない、というのは、子どもが成長する過程で刷り込まれたものなのではないかと思う。子どもたちが自発的にそういう身分社会みたいなもの、或いは人間を階層化していくというシステムみたいなものを生み出せるとも思われないからだ。親世代や、少し上の先輩世代などから自然発生的に引き継がれてきた傾向なのではないだろうか。偶然かもしれないが、「格差」(格の差だな、笑)がクローズアップされ出したのと同じだ。
格付けによって上下関係が形成され、その階層からは抜け出せない、という発想が、身分社会っぽい。こうした考え方を持つ大人が多いからなのではないかと思う。それが子どもたちにも伝播した結果ではないかな。私自身は立身出世物語とか、はなから肯定的なので、階層に縛られるということを認めようとは思わない。何たって、野口英世は偉かったと思っているタイプだからね(笑)。でも多くの子どもたちは、「どうせ抜け出せないのさ」みたいな諦めというか階層や格差を受け入れてしまっている。それが何故なのかは、よく判らない。本当は格もなければ、階層もないのに。
「ドラえもん」でいえば、「ジャイアン格」の人間には逆らえない、みたいなもんだ。スネオは永久にスネオ階層のまま、ということだ。せめてノビ太みたいな底辺には落ちたくない、落ちないようにしよう、と必死になってる、みたいな。ここで、どうして「ジャイアンをやっつけよう」ということを考えないか、だ。いや、別に個性は個性だからいいと思うんだけど、友人関係の中で格の違いなんてあるもんじゃない。周りのみんながそう考えて、ノビ太にもいいところはあるんだよ、だから下なんかじゃないよ、と認めることができさえすればいいだけなのに、と思う。
昔のドラマや漫画では、勉強ができてもスポーツができない、みたいな所謂「典型的ガリ勉タイプ」というキャラはあったし、「金持ちの息子でイヤミな奴」といった設定も普通にあった。そういう連中は、それだけ(勉強ができる、金がある)では周囲の大勢からは高い評価を得ることなどなかった。通常だと、一生懸命頑張る、明るくて信念や勇気を持つキャラが一番高く評価される、ということになっていた。少女漫画だって、学年で一番の美貌の持つ主で頭がよくて家柄がお上品なキャラはライバルとか仇役で、主人公の少女はさほど美人でもなく頭も普通で庶民の子だった。それでいて、みんなが憧れる超カッコイイ男子は、ライバル役の女よりも平凡な主人公の方を選ぶんだよ。主人公にはあって、ライバル役の少女にはないもの―大抵は心根の優しさだの隠れた能力だの―が評価され、男も心惹かれる、みたいなものだった。昔はそういう価値観が通用していた、ということだろう。しかし、現実の社会では、美貌と才能を持ついい家柄の女が完勝、ってことなんだろうか。勉強ができるとか、金があるということが高い評価を得ているのだろうか。ひょっとすると、そういう価値観が今では普通なのかもしれない。
そういえば、ヘンな格付け番組とかもあったね。今もあるかどうかは知らないけど。なんかこう、格付けを後生大事にしてるみたいだな。格といえばあれだ、ミシュランの星数とか、ああいうのに殺到するという気質ともちょっと似てるのかも。けれども、格付けできるものとできないものがある、ということを考えて欲しいなと思う。偉そうな金持ち息子は敗れ去る、というのが当たり前なんだよ。格なんて関係ない。子ども時代はそういうもんなのさ。大人みたいに格付けに振り回される必要性なんてないのに。あまりに残念だ。
若い世代の活力が大幅に減退しているのは、こうした階層に閉じ込められているからなのかな。階層を乗り越えて行こう、もっと頑張ってやってみよう、とか、思えなくなってるのかな。初めから、身分制度みたいに「どうせ私はこの格だから…」と決め付けているようにしか見えない。美貌や知能だのなんて生まれつきなんだし、家が金持ちとかも自分ではどうしようもないし、こういう差をもって人間関係さえも上下の階級にせよということを認めろというのだろうか?どうしてもそういう考え方にはついていけない。
こうした、はじめからある格差、どうにも乗り越えられない階層、それを認めるがゆえに、例の戦争希望みたいな「階層破壊」というか下克上のようなものを求める気持ちが出てくるのかもしれない。現状では、どうにも変えられないからだ。取り替えることも、飛び越えていくこともできない「格」に縛られていると考えるからこそ、自分よりも上にいる「格」をもつ連中を叩き落とさねばならない、その為には「格」が通用しなくなる・機能しなくなるような状況を作り出さねばならない―すなわち戦争のような状態ということ―、戦国時代のような成り上がりを生み出せるような環境を求めるのだ、ということなのかもしれない。
なぜこうした「格」というものに囚われ、これほど簡単に支配されてしまうのか、私には理解できない。
・今世紀以降くらいから、中高生の友人関係には「格」ができたらしい
・「格」はグループやクラス内での上下関係を意味する
・この「格」に応じて自分を位置づけ
・こうした格による上下関係に縛られているかも
記事から一部引用してみる。
大学で19歳の女子学生に、何が上下を決めるのか質問したところ、①外見②発言力③先生にかわいがられている度合い――だった。
関東地方の女子大生ナオコ(仮名、22)は高校時代、格付けを意識して苦労した。女子の場合、格付けで重要なのはファッションや体形。ギャル系やカジュアルなおしゃれが上、おしゃれしても地味な感じだと中、オタク系が下だった。
(中略)
格に自分を合わせて友達付き合いを続けるには、努力が必要だという。ナオコは同じ格の女子が好むテレビ番組や音楽をチェックし、ファッション雑誌を読みあさった。「みんなと同じじゃないと。空気が読めないと言われるのは怖いから」。服も趣味も、自分の本当の好みなんて関係ない。だから、「自分を見失ってしまいそうになる」。
一度決まった格は、卒業や転校などの大きな変化がない限り変わらない。
=====
へえ~、そうなんだ、知らなかったよ、思いました。
何といっても、
『オタクは下』
ですから!
世の中のオタクを自認する人々から猛烈反発が出そう。
「オタクが下なんじゃない、そいつが下なんだ!」
「ナオコ及びその友人の格付けがおかしいんだ!」
冗談はいいとして、オタクといっても昔の宅八郎だったかみたいに(所謂)「キモい」とかって言われるのは、最近は少ないんじゃないだろうかと思う。より広まって珍しい存在ではなくなったからだろう。外人さんの自称オタクたちも、カッコイイ人はいっぱいいるご時世ですから。
けど、これって大人も同じようなもんなんじゃないの?ホレ、「うちのブログはオメガ級」で、アルファな方々とは違いまっせ、とかいつも言ってるし(笑)。他の人たちも「○○はアルファだから」とか、似たようなことを言ってるように思えますしね。肩書きだのアルファだの、何らかの権威に支配されとる人もいるんじゃないの?(笑)
それは別にいいんだけどね。悪いことじゃない。いや、普通だ。
現実世界でも、適当なことしか言わないコメンテーターや評論家だって「格」があるからテレビに出てるんだし。間違ったことを言っていても、世の中の大部分の人たちは信じてしまうんだから。何もない「格下」といいますか、格付けが下の人であれば、たとえ正しいことを言っているとしても、多くの人たちは見向きもしないだろう、と。そういうようなもんだ。
そういえば、「格」について書いたことがあったな、偶然だが。
>格の違いってやつですか
日本的発想だと、昔からあった話だわな。家老とかその他役職になるにしても、「~家」ごとにみんな格付けされていて、家柄がその「格」に序列されていなければ絶対になれない、みたいなもんでしょ。婚姻にしても、「格」が大体同じ家じゃないとダメだったでしょ?そういうのと、あまり大きな違いはなさそうかな、と。
たとえ「格」だの「格付け」だのが昔にあったり(ブログ=部落格にもアルファとかオメガとかのランク付けがあったり、笑)したとしても、今の状況は全然違う。それは子どもたちが自発的に「格」を意識している、ということだと思う。何となくだけれども、自分自身をある「階層化」の中に押し込めているんじゃないかな、と思う。目に見えない身分制度みたいなもんだな。そうした階層の呪縛からは、自力だと簡単には抜け出せない人が増えている、ということなのだろう。将校、下士官、ヒラ、という具合にあれば、「あっしはヒラです」とか「私は下士官です」とか、そういう階級(格)に囚われてしまって、「いかに自分が下士官から落ちていかないようにするか腐心する」みたいな状況になっているのである。これには危惧を抱く。若者が生気を失っているかのようだからだ。
若者の上昇志向が弱いかどうかは判らない。単に「疎外」を怖れての保身的行動なのかもしれないけど。でも、自分は平民であり、あの子はプリンセスだから、みたいな身分みたいなものを意識せざるを得ない、というのは、子どもが成長する過程で刷り込まれたものなのではないかと思う。子どもたちが自発的にそういう身分社会みたいなもの、或いは人間を階層化していくというシステムみたいなものを生み出せるとも思われないからだ。親世代や、少し上の先輩世代などから自然発生的に引き継がれてきた傾向なのではないだろうか。偶然かもしれないが、「格差」(格の差だな、笑)がクローズアップされ出したのと同じだ。
格付けによって上下関係が形成され、その階層からは抜け出せない、という発想が、身分社会っぽい。こうした考え方を持つ大人が多いからなのではないかと思う。それが子どもたちにも伝播した結果ではないかな。私自身は立身出世物語とか、はなから肯定的なので、階層に縛られるということを認めようとは思わない。何たって、野口英世は偉かったと思っているタイプだからね(笑)。でも多くの子どもたちは、「どうせ抜け出せないのさ」みたいな諦めというか階層や格差を受け入れてしまっている。それが何故なのかは、よく判らない。本当は格もなければ、階層もないのに。
「ドラえもん」でいえば、「ジャイアン格」の人間には逆らえない、みたいなもんだ。スネオは永久にスネオ階層のまま、ということだ。せめてノビ太みたいな底辺には落ちたくない、落ちないようにしよう、と必死になってる、みたいな。ここで、どうして「ジャイアンをやっつけよう」ということを考えないか、だ。いや、別に個性は個性だからいいと思うんだけど、友人関係の中で格の違いなんてあるもんじゃない。周りのみんながそう考えて、ノビ太にもいいところはあるんだよ、だから下なんかじゃないよ、と認めることができさえすればいいだけなのに、と思う。
昔のドラマや漫画では、勉強ができてもスポーツができない、みたいな所謂「典型的ガリ勉タイプ」というキャラはあったし、「金持ちの息子でイヤミな奴」といった設定も普通にあった。そういう連中は、それだけ(勉強ができる、金がある)では周囲の大勢からは高い評価を得ることなどなかった。通常だと、一生懸命頑張る、明るくて信念や勇気を持つキャラが一番高く評価される、ということになっていた。少女漫画だって、学年で一番の美貌の持つ主で頭がよくて家柄がお上品なキャラはライバルとか仇役で、主人公の少女はさほど美人でもなく頭も普通で庶民の子だった。それでいて、みんなが憧れる超カッコイイ男子は、ライバル役の女よりも平凡な主人公の方を選ぶんだよ。主人公にはあって、ライバル役の少女にはないもの―大抵は心根の優しさだの隠れた能力だの―が評価され、男も心惹かれる、みたいなものだった。昔はそういう価値観が通用していた、ということだろう。しかし、現実の社会では、美貌と才能を持ついい家柄の女が完勝、ってことなんだろうか。勉強ができるとか、金があるということが高い評価を得ているのだろうか。ひょっとすると、そういう価値観が今では普通なのかもしれない。
そういえば、ヘンな格付け番組とかもあったね。今もあるかどうかは知らないけど。なんかこう、格付けを後生大事にしてるみたいだな。格といえばあれだ、ミシュランの星数とか、ああいうのに殺到するという気質ともちょっと似てるのかも。けれども、格付けできるものとできないものがある、ということを考えて欲しいなと思う。偉そうな金持ち息子は敗れ去る、というのが当たり前なんだよ。格なんて関係ない。子ども時代はそういうもんなのさ。大人みたいに格付けに振り回される必要性なんてないのに。あまりに残念だ。
若い世代の活力が大幅に減退しているのは、こうした階層に閉じ込められているからなのかな。階層を乗り越えて行こう、もっと頑張ってやってみよう、とか、思えなくなってるのかな。初めから、身分制度みたいに「どうせ私はこの格だから…」と決め付けているようにしか見えない。美貌や知能だのなんて生まれつきなんだし、家が金持ちとかも自分ではどうしようもないし、こういう差をもって人間関係さえも上下の階級にせよということを認めろというのだろうか?どうしてもそういう考え方にはついていけない。
こうした、はじめからある格差、どうにも乗り越えられない階層、それを認めるがゆえに、例の戦争希望みたいな「階層破壊」というか下克上のようなものを求める気持ちが出てくるのかもしれない。現状では、どうにも変えられないからだ。取り替えることも、飛び越えていくこともできない「格」に縛られていると考えるからこそ、自分よりも上にいる「格」をもつ連中を叩き落とさねばならない、その為には「格」が通用しなくなる・機能しなくなるような状況を作り出さねばならない―すなわち戦争のような状態ということ―、戦国時代のような成り上がりを生み出せるような環境を求めるのだ、ということなのかもしれない。
なぜこうした「格」というものに囚われ、これほど簡単に支配されてしまうのか、私には理解できない。