違和感が拭えなかったので、書いてみる。
はてなブックマーク - 障害者雇用について語りやすくする名著「チャレンジする心」 - 福耳コラム
名著と評することは自由であるから別にいいのだが、周囲の評価というか受け止め方に違和感があった。
例えば、職業訓練の話が出てくるのだが、本当に陶芸とか農業について「役に立たない」と批評するのもいい。けれど、この本に出てくるような事例が、多くの知的障害者のことを示すわけではない、ということについて、本当に皆が理解できるものなのであろうか。著者も同じようなことを触れていたようだが、知的障害者という一般論として語るというのは難しいことなのかもしれない。
一つ尋ねたいのだが、企業経営的な視点から語るというのを受け入れるとして、農業とか陶芸だのという「役立たない訓練」を直に体験したことがある人たちはどれほどいるのであろうか。いや、私自身多くのことを語れるほどに実体験があるわけじゃない。そうなんだけれども、例えば障害者の人が作った「陶芸品」を買ったりした人たちなどいるのだろうか?買わないまでも、作品展に行って見たりとか、作業している場所に行ったりとか、そういうことでもいい。そんな経験をした上で、尚も「役立たない」とか言うのかな、と思うわけだ。障害者の人たちと会ったことがあって、その上でそういうことを言えるのだろうか、と。
この事例の会社を責めたいわけではないが、彼らのチャレンジは企業の目的や利益に合致するが故であって、世の中の障害者雇用についてどうにかしようといった話ではない。突き詰めていえば、優遇税制や補助金などを都合よく利用しながら、障害者を低賃金で使えて、社会的責任を果たしているかのように振舞える、ということに他ならない。赤字覚悟で障害者に仕事や給与を用意しているわけでもなければ、雇用枠を拡大するということでもない。使えそうな人だけを「選んで」いるだけだ。
知的障害者をもっとたくさん雇用して、普通の企業と同じように企業活動ができ、それで収益事業として成り立たせることができるのであれば、是非ともそうやってもらいたいものだ。数万人の雇用を生み出せるはずではないかと思う。モデルとなった企業の方法が素晴らしいもので、本当にそれが知的障害者の仕事を生み出せるのなら、僅か10数名とかの規模ではなく、もっと多くの障害者を雇用してもらいたいものだ。何故それができないのか、他の企業も含めて障害者雇用が拡大しないのか、疑問は残る。高々数人規模の雇用を達成したというだけで、錦の御旗のごとく「障害者雇用」の問題解決みたいに勘違いされるのもどうかと思うのである。農業や陶芸が知的障害者の職業訓練として云々、みたいに一般化して言えるものなんだろうか。
障害者といっても、どういった区分の対象者なのか、ということについては注意を要するだろう。例えば、ICD-10でもいいしDSM-Ⅳでもいいのだが、雇用対象となった人がどういった障害者なのかということで知的障害という大きな括りでは語れないことは多々あるだろう。上述したように、単に「使えそうな人」を選んで他を排除するというだけであれば、社会的な意味は殆どないのではないかとさえ思うからだ。仮に知的障害を知能指数下位2%程度としても240万人、うち半分は就業困難だとすると120万人が対象者となる。年齢的に就業可能なのが6割としても、72万人いることになる。12人の就業者を有するモデル企業であれば、この72万人から選び出した僅か「0.17%」という事例をもって、成功だの素晴らしい方法だの経営学的示唆を与えるものだのといった議論が可能なのかどうかを考えて欲しい、ということだ。知的障害者に区分されない人たちのうち、特定の0.2%層を選ぶとして、労働人口をざっと6500万人とすると、その成績上位13万人について「経営的にうまくいった方法」が、職業訓練だのOJTだのの成功事例として政策を考える上で役立つものなのだろうか。そういう時には、「それは就業者が~だったからさ」みたいに、特殊な例としてしか認識されないのではなかろうか、と思うのだが。
受刑者の中には、少なからず知的障害を有する人たちがいる、ということは、元議員さんの著書などでも明らかにされていたようだが、これも政策的に考えてみるべきものだろうと思う。そういう人たちについては、刑務所で過して社会復帰しても、再び刑務所に戻ってくる割合がそれなりに高かったりするだろう。そうなると、人生のかなり長い期間を刑務所で過すことになってしまう。暴論を承知で書けば、刑務所よりも離島などに農場を運営しそこで集団生活をしてもらって、半自給自足的生活の場がある方がいいのではないか、とさえ思う。その方が経費も節減でき、刑務所の過密状態も軽減されるだろう。農業が悪いとも思わない。
いずれにせよ、企業礼賛みたいな話で障害者政策が語られることに違和感を持つというのが感想。
はてなブックマーク - 障害者雇用について語りやすくする名著「チャレンジする心」 - 福耳コラム
名著と評することは自由であるから別にいいのだが、周囲の評価というか受け止め方に違和感があった。
例えば、職業訓練の話が出てくるのだが、本当に陶芸とか農業について「役に立たない」と批評するのもいい。けれど、この本に出てくるような事例が、多くの知的障害者のことを示すわけではない、ということについて、本当に皆が理解できるものなのであろうか。著者も同じようなことを触れていたようだが、知的障害者という一般論として語るというのは難しいことなのかもしれない。
一つ尋ねたいのだが、企業経営的な視点から語るというのを受け入れるとして、農業とか陶芸だのという「役立たない訓練」を直に体験したことがある人たちはどれほどいるのであろうか。いや、私自身多くのことを語れるほどに実体験があるわけじゃない。そうなんだけれども、例えば障害者の人が作った「陶芸品」を買ったりした人たちなどいるのだろうか?買わないまでも、作品展に行って見たりとか、作業している場所に行ったりとか、そういうことでもいい。そんな経験をした上で、尚も「役立たない」とか言うのかな、と思うわけだ。障害者の人たちと会ったことがあって、その上でそういうことを言えるのだろうか、と。
この事例の会社を責めたいわけではないが、彼らのチャレンジは企業の目的や利益に合致するが故であって、世の中の障害者雇用についてどうにかしようといった話ではない。突き詰めていえば、優遇税制や補助金などを都合よく利用しながら、障害者を低賃金で使えて、社会的責任を果たしているかのように振舞える、ということに他ならない。赤字覚悟で障害者に仕事や給与を用意しているわけでもなければ、雇用枠を拡大するということでもない。使えそうな人だけを「選んで」いるだけだ。
知的障害者をもっとたくさん雇用して、普通の企業と同じように企業活動ができ、それで収益事業として成り立たせることができるのであれば、是非ともそうやってもらいたいものだ。数万人の雇用を生み出せるはずではないかと思う。モデルとなった企業の方法が素晴らしいもので、本当にそれが知的障害者の仕事を生み出せるのなら、僅か10数名とかの規模ではなく、もっと多くの障害者を雇用してもらいたいものだ。何故それができないのか、他の企業も含めて障害者雇用が拡大しないのか、疑問は残る。高々数人規模の雇用を達成したというだけで、錦の御旗のごとく「障害者雇用」の問題解決みたいに勘違いされるのもどうかと思うのである。農業や陶芸が知的障害者の職業訓練として云々、みたいに一般化して言えるものなんだろうか。
障害者といっても、どういった区分の対象者なのか、ということについては注意を要するだろう。例えば、ICD-10でもいいしDSM-Ⅳでもいいのだが、雇用対象となった人がどういった障害者なのかということで知的障害という大きな括りでは語れないことは多々あるだろう。上述したように、単に「使えそうな人」を選んで他を排除するというだけであれば、社会的な意味は殆どないのではないかとさえ思うからだ。仮に知的障害を知能指数下位2%程度としても240万人、うち半分は就業困難だとすると120万人が対象者となる。年齢的に就業可能なのが6割としても、72万人いることになる。12人の就業者を有するモデル企業であれば、この72万人から選び出した僅か「0.17%」という事例をもって、成功だの素晴らしい方法だの経営学的示唆を与えるものだのといった議論が可能なのかどうかを考えて欲しい、ということだ。知的障害者に区分されない人たちのうち、特定の0.2%層を選ぶとして、労働人口をざっと6500万人とすると、その成績上位13万人について「経営的にうまくいった方法」が、職業訓練だのOJTだのの成功事例として政策を考える上で役立つものなのだろうか。そういう時には、「それは就業者が~だったからさ」みたいに、特殊な例としてしか認識されないのではなかろうか、と思うのだが。
受刑者の中には、少なからず知的障害を有する人たちがいる、ということは、元議員さんの著書などでも明らかにされていたようだが、これも政策的に考えてみるべきものだろうと思う。そういう人たちについては、刑務所で過して社会復帰しても、再び刑務所に戻ってくる割合がそれなりに高かったりするだろう。そうなると、人生のかなり長い期間を刑務所で過すことになってしまう。暴論を承知で書けば、刑務所よりも離島などに農場を運営しそこで集団生活をしてもらって、半自給自足的生活の場がある方がいいのではないか、とさえ思う。その方が経費も節減でき、刑務所の過密状態も軽減されるだろう。農業が悪いとも思わない。
いずれにせよ、企業礼賛みたいな話で障害者政策が語られることに違和感を持つというのが感想。