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福島産科死亡事件の裁判・その5

2008年06月30日 20時01分59秒 | 法と医療
かなり間が空いてしまい、その間に裁判は最終弁論まで進んでいました。フォローができていなくて、申し訳ありません。


以前にも紹介しましたが、よくまとまっております。

第十四回公判について08516 - 周産期医療の崩壊をくい止める会


ご遺族の方々にとっては、悲しい結果であったことに違いはありません。また、本件で被告となっている医師が、同じように苦しみ悲しんでいると思います。患者さんが亡くなられて、責任を感じない医師はいませんでしょう。前にも少し触れたことがありますが、目の前で患者さんが亡くなるという重い職務について、裁判官やその他法曹が経験したことなどありますでしょうか?まず、殆どないと思います。

裁判の結果次第で、結果が悪ければ誰かが死んでしまう、というようなプレッシャーの中で、裁判をやっているでしょうか?立証を誤ったり、判決を誤ったりすれば誰かが亡くなるという状況で、果たして起訴や判決を出しているのですか、ということです。そういう厳しさが足りないのではないか、と思うこともあります。


関係ない話をしてしまいましたが、弁護側の最終弁論を拝読いたしました。

弁護団がどういった方々なのかは、全く知らないのですが、本件の弁護は率直に言って「よくぞここまで頑張ったな」と思いました。

過去に、検察側主張にこれほどまで理論的対決を挑んだことなどあったのだろうか。それくらい、頑張ったな、ということです。勿論、医療界の協力やアドバイスなどがなければここまではできなかったとは思うのですが、それでも、検察側主張を退けることや被告側主張を立論するなどの「法廷戦術」は、弁護団なくしてはできなかったでしょうから。多分、弁護団は専門家に近いくらいに「詳しく」なられたのではなかろうかと思います。

過去の例で見れば、論証すること・反証するべきこと、そういった部分が散漫になっていたり、恐らく「通訳」の問題なのだろうと思うのですけれども、医療側と弁護士との共通理解がここまではできていないことがあったりして、弁護が十分有効に機能していなかったり不採用となる場合があったのではないかな、と感じました。でも、本件最終弁論を見れば、どれほど弁護団が「細かい部分までしっかりと勉強したか」ということがよく判ります。同じ言語を用いて話せるようになるというのはとても大変なことなのですが、それを達成したことは立派だと思います。


本件はあらゆる意味において特別な裁判です。

患者さんの尊い命が失われたこと、これは事実です。救えないことがあるということが、医療の宿命でもあります。医療とは、そういう患者さんたちの尊い命のお陰で進歩・発展してきました。亡くなられた患者さんの命に報いる為にも、たった1人の医師にその責を帰することは避けなければならないと思います。1人の医師を罰することができたとしても、世の中の人々の役に立つようにはならないのです。

そうではなく、本件のお陰で医療や社会に進歩がもたらされることが、大切なことであり命に報いる唯一のことではないかと思います。
本件裁判を通じて、世の中の方々に産科医療のことばかりではなく、医療の実情や医師が直面している状況などがかなり多く伝わったのではないかと思います。結果的に、医療側と国民が「死」ということについて意見を交わすことになったのではないでしょうか。過去においては、医療側が「死」について触れる・述べることはタブーだったからではないかと思います。


判決まではまだ時間がかかるようですので、裁判記録を読んでいこうと思っています。